第一章:二度目の殺人
身勝手なハドクの言い分に、逆にユノアは落ち着きを取り戻していった。「ハドクの思い通りにさせるな」というダカンの言葉がユノアの背中を押す。
幸せそうな顔をしているハドクに向かって、ユノアは辛辣に言い放った。
「そんなこと、絶対に嫌。私はここから出て行くの。お父さんとお母さんの所に帰るんだから。あなたなんて大嫌い。一緒になんて、いたくない!」
ユノアの言葉は素直な分、ハドクの心に突き刺さった。ハドクの形相は一変した。歯を剥き出し、目を血走らせてユノアの肩に掴みかかり、床に押さえつけた。ユノアは息を呑んでハドクを見た。
「離すものか。お前は俺の物だ。俺の物だ!お前が離れるというのなら、その前にお前が行く場所を失くしてやる。両親の元へ帰りたいと行ったか?ならば、今すぐ両親を殺してやる!田舎の村の人間を殺すことなど、俺には虫を殺すのと同じくらい簡単なことだ」
ダカンとカヤを殺す。その言葉に、ユノアの心の中で何かが弾けた。それは、ザジを殺してしまったときと同じ衝撃だった。
ユノアにとって、この世で一番大切なのはダカンとカヤだ。この二人を害するものは全て、ユノアにとって、この世から消すべき対象だった。
ハドクはユノアを従順にさせるために言ったのだろうが、それは全くの逆効果だった。ユノアの心に、黒い闇が生まれた。
ユノアの淡い茶色の瞳が、黒く淀んでいる。その瞳に気付いた途端、ハドクの動きが止まった。
手足の先から、急激に身体が冷えていく。心臓だけが、異様に早く脈打っている。
危険を感じているのに、ハドクはユノアの目から視線を逸らせなかった。ユノアの目の中にある闇の中に身体が沈みこんでいくようだった。
心臓が一際大きく脈を打った。するとハドクは胸を押さえて苦しみ始めた。顔には大量の汗が浮かんで、パクパクさせた口には泡を吹いている。
こんどはハドクが出口に向かって助けを呼ぶ番だった。
「だ、誰か、助けてくれ。誰か!」
その声を聞きつけて、こちらに駆けつけてくる足音がする。だが間に合わなかった。ハドクは絶叫した。
「うおおぉぉー!」
バタンと音を立てて扉が開かれた。入ってきたのはケベだった。部屋の中の光景を見て、ケベは絶句した。絨毯は乱れ、その上に布団が散乱している。その中央で、目を剥いたハドクが仰向けに倒れていた。
ケベはそっと近付いた。
「ハドク様…」
だが、ハドクからの返事はない。その息を確かめて、ケベは悲鳴をあげて腰を抜かした。
「し、死んでる…!」
ユノアはぼんやりと、豪華で悪趣味な装飾を施された天井を見つめていた。
遠くで悲鳴が聞こえる。その数はどんどん増えているようだった。だが、身体に力が入らない。立ち上がることが出来ない。
ケベはパニックに陥っていた。今まで、ハドクがいてこそのケベだったのだ。ハドクの権威を振りかざし、その影で生きてきた男は、ハドクがいなくなった途端、気の小さなただの男に戻ってしまった。
実際に行動に移ったのは、駆けつけてきた警備の兵士達だった。ハドクを殺したのはユノアだと断定し、動けずにいるユノアに三人がかりで飛び掛ってきた。
あっという間にユノアは捉えられてしまった。耳元で兵士が大声で叫んでいる。
「この人殺しめ!ハドク様を殺すなんて何て奴だ」
「ファド村の代表者を呼べ!ファド村にも責任を償わせなければ」
その声を聞いているうち、だんだんとユノアの意識がはっきりしてきた。ハドクを殺してしまった。その事実に愕然とした。
ユノアは兵士を突き飛ばすと、部屋の窓を突き破って外へと飛び出した。素早い動きに、部屋の中にいた人間達はあっけにとられた。
慌てて兵士達が叫ぶ。
「女が逃げたぞ。追え!絶対に逃がすな!」
庭に出たユノアだったが、すぐにたくさんの兵士に囲まれてしまった。兵士達は槍や弓を構えてユノアに向かってくる。ユノアを逃がすくらいなら、殺してしまえと思っているようだ。
円陣を造りながら、じりじりと近寄ってくる兵士達に、ユノアは怯えきっていた。窓を破ったときにできた切り傷が、身体のあちこちで鋭い痛みを放っている。精神的なダメージもあって、意識は朦朧としていた。もう動きたくなかった。それでも、逃げなければと思った。
だが、どこへ逃げればいいのか。街中から兵士が集まってきているようで、庭も兵士で埋まっていたし、屋敷の塀の外からもたくさんの声がしている。
ふとユノアの目に、屋敷のすぐ後ろに広がる森が映った。頭で考えるより先に、身体が動いていた。
ユノアは騒ぎ立てる兵士を尻目に、軽い身のこなしであっという間に屋敷の屋根へと上がってしまった。人間離れしたその動きに、兵士達の興奮も極限に達した。
「何だ、あいつは。化け物だ!」
「逃がすな。殺せ!」
屋根を伝って逃げながら、ユノアは泣いていた。噛み締めた唇からは血が滲んでいる。
(やっぱり私は嫌われ者なんだ。どこに行っても、化け物と言われて追い回されるんだ)
あちこちからユノア目掛けて矢が飛んでくる。だがあまりにユノアの動きが速くて、全く当る気配はなかった。
ユノアの姿は森の中へと消えた。
松明を持った兵士達が森に押し寄せ、森は山火事でも起きたかのように赤く燃え上がった。それでも遂に、ユノアを見つけることは出来なかった。