第一章:ザジの死
ザジがユノアを連れてきたのは、林の中だった。昼間でもあまり村人は近寄らない場所だ。木の葉の間からかろうじて月の光が漏れ入ってくるが、辺りは不気味な夜の闇に包まれていた。
ユノアは落ち着かなかった。こんな場所で、ザジと二人きりでいたくなかった。
「あの、ザジ…。私達をあの家から脱出させてくれる方法って…?」
早く家に戻りたくて、ユノアはザジを促した。
「ああ…。それは、簡単なことさ。…何だかんだ言って、親父は俺に甘いんだ。俺が頼めば容易く、ユノア達への監視を緩めてくれる。全員とはいかないだろうが…。だがその少ない見張りを俺の仲間にさせれば…。お前達が家から抜け出そうが、見て見ぬ振りをしろと、俺が命令しておけばいい」
ユノアの心臓は、高鳴っていた。ザジの話を聞いていると、本当に出来そうに思えたからだ。全く見えなかった未来への希望の光が見えた気がした。ダカンとカヤと、このまま一緒に暮らせるかもしれない。
ザジの話に聞き入るあまり、ユノアはザジに近付きすぎていることに気付かなかった。
想い続けたユノア。いつもザジが一方的に想うだけだった。ユノアに会えなかったこの一ヶ月。ザジは自分の心と向き合っていた。そして思い知った。こんなにもユノアを愛しているのだと。最初は、ユノアが可愛い顔をしているから、興味本位で近付いた。こんなに本気になるとは、自分でも信じられない想いだ。ユノアに憎しみの目を向けられたとき…。あの目を思い出すたび、ザジは苦しみのあまり自分を痛めつけた。何故ユノアは自分を好いてくれないのか。ユノアに好かれない人生など、生きたくはない。
理性の切れる音がした。いや、そんなもの、とっくの昔に失っていた。ユノアを自分のものに出来れば、何を無くしても良かった。親も、村も、今の暮らしも。そんな想いは、狂気以外の何物でもない。
どさりと音を立てて、ユノアはザジの身体に組み敷かれていた。突然のことに、声もあげれなかった。
ユノアが黙っているのをいいことに、ザジがユノアの身体をまさぐり始めた。足、腹、胸と、ユノアの滑らかな肌の感触を楽しみながら、執拗に撫で回している。
ようやくユノアは気を取り戻した。
「な、何を…。ザジ、止めて!」
暴れるユノアを、ザジは渾身の力で押さえつけた。
「じっとしてろ…。ユノア。これは取引だ。俺に協力して欲しいなら、お前は俺のものになれ」
「え…?」
「俺はずっとお前が欲しかったんだ。お前を手に入れることが出来るなら、何を失っても構わない」
ザジは身体をぴたりと寄せてきた。その唇が、ユノアの首筋を這い回る。あまりのおぞましさに、ユノアは身動き出来なかった。
じっとしているユノアに、ザジは有頂天だった。望みは叶えられた。ユノアが自分のものになったのだ。もう絶対に離すものか。これからはいつでもユノアを抱き締めることが出来る。この可愛い唇も、俺のものだ。
ザジの唇が、ユノアの唇に被さってきたとき、ユノアの表情が変わった。それはユノアにとって、初めての口付けだった。口付けがどんな意味を持つのか、ユノアはまだ知らなかった。それでも、口の中に侵入してくるザジの舌の感触が、耐え難くおぞましかった。
我慢も限界だった。これ以上ザジに触られていたくなかった。
ユノアは再び暴れた。ようやく離れたザジを睨みつける。
「止めて!…もう、家に帰る!」
だがザジは、冷たい笑みを浮かべてユノアを見た。
「…勘違いしていないか?ユノア…。お前に自由なんてないんだぞ。言っただろう?お前は俺のものなんだ。俺が満足するまで、お前はここにいなければならない。今夜は帰らせないぞ。…これからもそうだ。例えファド村の外へ逃げようとも、俺はお前を監視し続ける。もし俺から逃げようとしたら、その前にお前の正体をばらしてやる。そしたらまたファド村の二の舞だ。お前達は皆から憎まれて、疎外される。そしてその場所からまた逃げる。一生逃げ回るんだ」
心が凍りつくのを、ユノアは感じていた。ファド村の人々から目の敵にされてこんなにも苦しんでいるユノアを目の前にして、何故こんな惨いことが言えるのか。
ザジはユノアが好きなのだと言う。だがユノアには、その言葉を信じることは出来なかった。
この時、ユノアは目の前にいるザジを、心の底から憎んだ。
ユノアの身体から力が抜けた。それを感じて、ザジが再び被さってくる。その顔には、勝ち誇った笑みが張り付いていた。
「そうだ…。それでいい。俺の言う通りにしていればいいんだ」
再びザジはユノアの身体をまさぐり始めた。ふと、ユノアの顔を見た。自分を見つめるユノアの視線と絡まった。
身体が揺さぶられる程の強い衝撃を、ザジは感じた。心臓が何者かに直に掴まれて振り回されているようだ。胸の痛みに耐えかねて、ザジは倒れこんだ。
「うおおおおー!」
だが、ザジの悲鳴を聞きつけて助けに現れる者はいなかった。それもその筈だ。ユノアと二人きりになるために選んだ林の中。仲間にも、近付くなと厳命してある。
苦しい。息ができない。頭が割れるように痛い。
「た、たすけ、て……」
手を伸ばした先に、立ちはだかる足が見えた。ザジが上を見ると、ユノアがじっとザジを見下ろしていた。その目を見て、ザジは悲鳴を上げることさえ出来なかった。
その目は自分を憎んでいた。この世からいなくなってしまえと言っていた。抗えない力をザジは感じた。ユノアはただ立っているだけで、自分に触れてもいないのに、自分はユノアに殺されようとしている。
事実、今ザジの命を奪おうとしているのは、ユノアの秘められた力に関係があった。コントロールを失い、爆発と同じ勢いで噴き出したパワーが、ザジの身体を直撃したのだ。ただパワーがユノアの身体から流出したというだけなのだが、それはまさに爆弾と同じ殺傷能力で、ザジに襲い掛かった。
「ユ、ユノア…。たす、け…。ゆるして……」
ユノアの表情は変わらなかった。冷酷なまでに感情のない表情でじっとザジを見ている。その目は真っ暗だった。
ひときわ強い痛みがザジの胸を突き抜けた。
「ぎゃあああー!」
最後の絶叫をあげて、ザジは地面にうつ伏せた。そして二度と動かなかった。
林の中に、静寂が戻る。
ユノアははっと意識を取り戻した。今、自分は何をしていたのだろう。記憶を探ろうとするが、思い出せなかった。
目の前にうつ伏せに倒れているザジの姿が目に入った。そうだ。ザジに酷いことを言われて、頭が熱くなって…。
ユノアは膝をつき、ザジを揺さぶった。
「ザジ…?」
だがザジは動かない。その顔を覗き込んだとき、ユノアは恐怖に顔を強張らせて後ずさった。
「ひっっ…!」
ザジの顔には、恐怖、苦しみ、絶望…。それらが全て刻まれていた。血走った目は見開かれたままで、長く垂れ下がった舌は、苦しみの大きさを物語っている。
ザジは死んでいる。何故…?ユノアの身体は震えていた。記憶のない間に何があったのか。ここには、ザジ以外に自分しかいなかった。
「私が…?」
ザジを殺したというのか。ずっと封印していた力を使って。
「いやぁぁ!」
ユノアはザジに背を向けて走り出した。本当にザジを殺してしまったのだとしたら…。恐ろしかった。そんなことが出来る自分も。この結果に何が待ち構えているのかも。
今はただ、ダカンとカヤに会いたかった。