第一章:決定的な決裂
カヤが家の戸を開けたとき、家の中は随分と暖まっていた。その中で、ユノアが不安をいっぱいに湛えた目で、カヤを見上げた。
「ユノア。遅くなったわね。言いつけ通りにしてくれたのね。ありがとう」
カヤがユノアを抱き締めるのには見向きもせず、ゾラが後ろを通り抜けてダカンに近付いた。
ダカンは気を失ったままだ。だが、青白かった頬には、赤みがさしている。ゾラは、ダカンの頬を叩いた。
「ダカン?俺の声が聞こえるか?」
返事はなかった。ゾラは手首を触って脈を取ったり、まぶたをひっくり返して赤さを見たりしている。そして、ふうっと溜息をついた。
「どうやら、落ち着いているようだな」
ゾラはカヤを振り返って意地悪な顔で笑ってみせた。
「カヤが酷い形相で飛び込んでくるから、てっきり死に掛けているかと思ったら…。カヤ。人騒がせなのもいい加減にしとけよ」
「ええ?」
カヤは顔を真っ赤にして、ダカンの側に近づいた。ユノアもカヤの背中にぴたりと張り付いている。
カヤはダカンの顔を覗き込み、頬に触れた。頬は暖かかった。
「本当だ…」
気を張っていた身体が力を失って、カヤは座り込んでしまった。
「良かった…。私、本当に死んじゃうんじゃないかと思って…」
ゾラは笑った。
「ダカンが、お前一人残して死ぬもんか」
ゾラは、ダカンの傷口を確かめ始めた。すると、ゾラの顔が強張った。傷口を洗い、薬草を塗りこんで包帯を巻いた。
一通り治療を終えると、ゾラは静かな口調で尋ねた。
「…カヤ。この傷は何だ?何故ダカンは怪我をした」
鋭い目つきで見つめられて、カヤはたじろいだ。
「それは、その…。私もよく分からないの。今日、ダカンはディティへ行っていて、帰りが遅いなと思って心配していたんだけど、やっと帰ってきたと思ったら、こんな状態で…」
「ダカンが出掛けるのは、俺も見ていた。…ユノアと一緒だったな」
ゾラの視線が、ユノアに移った。カヤの後ろで、ユノアはびくんと身体を振るわせた。
ゾラは今まで、ユノアと関わるのを避けていた。ユノアを見るのさえ、嫌だったくらいだ。それが今日は、正面からユノアを見据えた。
「ユノア。ダカンに何があったんだ。この傷は、鋭利な刃物でつけられたものだ。転んだとか、そんなもんじゃない。誰かに故意につけられたものだ。誰にやられたんだ!」
声を張り上げるゾラからユノアを庇って、カヤはユノアを抱き締めた。
「ゾラ!声を小さくして。ユノアが振るえてるじゃない」
「カヤ。俺はダカンの命に関わる話をしてるんだ。傷つけられたのが腕だったから、この程度で済んだものの、これが体だったら?首だったらどうだった?ダカンは死んでるんだぞ!」
カヤは言葉を失った。
「ユノア。言うんだ。誰の仕業だ!」
ユノアは目に涙をいっぱいに溜めて、声を震わせながら言った。
「分からない…。私とお父さんが、暗くなった山道を帰っていたら、突然真っ黒な服を着た男の人達が五人、前に立ちはだかって…。私はその中の一人に捕まったの。口を塞がれて、身体を抱えられて…。他の一人が刀を抜いて、お父さんに切りつけたの」
カヤは驚愕の表情でユノアを見つめた。ゾラは、意地悪く口を歪めた。
「つまり、お前を狙った誰かに、ダカンは襲われたってことか。それで?どうやってそいつらから逃げ出した」
ユノアの震えは更に酷くなっていた。もう言いたくない。だが、有無を言わさぬゾラの態度に、ユノアは口を開いた。
「…よく、覚えてないの。お父さんが殺される。そう思ったら、体が熱くなって、頭の中が真っ白になった。気がついたら、男の人達はみんな地面に倒れてて、お父さんが驚いたような表情で私を見てた。お父さんは、すぐにここから離れようって言って、私達はそこから逃げたの。…だから、あの人達が誰だったのかは、分からない…」
ユノアは言い終わると、がっくりと頭を垂れた。顔を上げるのが怖かった。カヤとゾラがどんな表情で自分を見ているのかを見るのが怖かった。
ゾラが突然立ち上がり、ユノアに近付いていった。そして、その手を強く引っ張りあげた。
「ゾ、ゾラ!何をするの!」
カヤが驚いてユノアの身体を引っ張った。ユノアは恐怖の表情でゾラを見上げた。
「…カヤ。その手を放せ。ユノアはもう、この村には置いておけない。俺が追いだしてやる」
カヤは驚愕した。
「何を…。何を言っているの?ゾラ…」
ゾラは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「まだ分からないのか!今の話を聞いても、まだ気付けないのか!変だろう。明らかに、ユノアは、おかしい!今までも俺は恐ろしかった。ユノアがこの村に不幸を呼ぶんじゃないかと思ったからだ。それは、ユノアが普通の人間じゃないという予感があったからだ。尋常じゃない力を持ち、しかも得体の知れない何者かに狙われている。遂にユノアの存在が、お前達の命を脅かしたんだぞ!」
カヤは大粒の涙を流しながら懇願した。
「ゾラ。お願いよ。見逃して。ユノアを私達から取り上げないで」
カヤの言葉を聞いて、ゾラは顔を歪めた。
「やっぱりお前達は、ユノアが普通の人間じゃないということを知ってたんだな?分かった上で、今まで育てていたと認めるんだな?」
カヤは絶句した。
「異様な者を村に置いていた。それだけで十分な罪だ。ユノアの存在で村人に危害が及んだら、どうするつもりなんだ!」
カヤが怯んだ隙に、ゾラは再びユノアの手を引いた。遂にユノアの身体はカヤから引き離されてしまった。
「ユノア!」
カヤが泣きながら追いすがる。ゾラがカヤを怒鳴りつけた。
「目を覚ませ!カヤ。今ならまだ間に合う。昔の平和な暮らしに戻るんだ。…思い出せ。ユノアがいない頃、お前達は幸せだったろう。俺達とも、村の皆とも、仲良くやってたじゃないか。ユノアさえいなければ、何もかも上手くいく。ユノアさえいなければ…」
パンッと乾いた音が響き渡った。それは、カヤがゾラの頬を叩いた音だった。ゾラは呆然としていた。その隙に、カヤはユノアを取り返した。
涙を流しながら、カヤはゾラを睨んだ。
「…何が分かるの。あなたに、私達の何が分かるっていうの!ユノアが家に来てから、私もダカンも、幸せだった。あなたは、ユノアの笑顔を見たことがある?とても可愛いのよ。ユノアが愚痴一つ言わず、辛い仕事をしている姿を見たことがある?とても健気なのよ。…あなたは、ユノアと話そうともしてくれなかった。私達との間に壁を作ったのは、あなたの方よ!…ユノアはこんなにいい子なのに。どうしてそれを見てくれないの!」
ゾラは俯き、唇を噛み締めた。何も言わず、処置箱を掴むと、一度もカヤと目を合わさず、家を出ていってしまった。
カヤははっとしてゾラを追いかけた。
「ゾラ!」
家の外に出ると、走って遠ざかっていくゾラの姿をかろうじて見ることができた。
「ゾラ!ごめんなさい…。ありがとう。ダカンを手当てしてくれて、本当にありがとう」
カヤの声は、ゾラに届いたのだろうか。それは分からなかった。
家の中に入ったカヤは、そのまま倒れこみ、声をあげて泣いた。どうしてこうなってしまうのか。ゾラは自分達を心配してくれていたのに。自分達は、ユノアをゾラに受け入れて欲しいだけなのに。
もしかしたらもう二度と、ゾラと笑って話をすることは出来ないかもしれない。そう思うと、涙が止まらなかった。
泣き崩れるカヤの側に、ユノアは呆然と座り込んでいた。