第一章:ディティの街
ディティは、人口五万人の街だ。ダカン一家の住むファド村は、ジュセノス王国という国の統治下にあるのだが、ディティは王国の主要な行政都市の一つで、ファド村を含む一帯の管理を、王から任された市長が治める役所がある。
役所が管理する市場がここで開かれるので、ディティには毎日、周囲の農村からたくさんの人と農作物、そして、農作物を買って他の都市へと売り運ぶ商人が集まってくる。
ファド村の村人も今日ここに来ている者もいるかもしれないが、この賑わいの中ではまず会うことはないだろう。
小さな農村の外れに住み、普段はダカンとカヤ、数人の村人しか目にしないユノアにとって、活気に溢れるディティの街は、まさに未知の世界だった。
いつもディティに行くのはダカン一人だったので、ダカンから聞かされるディティの話に、ユノアは目を輝かせていた。肉、野菜、菓子と、何でも揃う豊富な食料品や、色鮮やかな衣服、そして、人の集まる場所でなければお目にかかれない大道芸人の技など、ダカンの話から、ユノアは想像力をフル活用させて、ディティの街を想い描いたものだった。
それ程までに憧れていたディティに来る夢が叶ったというのに、街の中に入ってからも、ユノアの表情は冴えない。ザジとのやりとりが、ユノアの心を重くさせているのだった。
ザジに会うたび、ユノアの気は滅入った。どうして放っておいてくれないのだろうと思う。
それでも、今までは言い寄るザジを無視していれば良かったが、今日、ダカンがザジに殴られたのを見たときは、心が縮んだ。
今も、ザジへの怒りが心の中で燃えているのを、消すことが出来ずにいた。
怒りに狂う心がどれ程危険なものか、ユノア自身、気付けずにいた。心が暴走するときはつまり、ユノアに秘められたパワーが暴走するときなのだ。そのことを理解するには、ユノアはあまりにも幼すぎた。
先程ザジが身体に異変を感じたのも、ユノアの怒りがパワーに変わって起こしたことだった。今も、ユノアの中に膨大なエネルギーが溜まりつつあった。
「ユノア?」
ダカンに呼びかけられて、ユノアは暗い心の闇から引き戻された。ダカンが心配そうにユノアを覗きこんでいる。その目を見て、ほっと心が和んだ。
「ユノア。どうした?」
ユノアはダカンにぎゅっと抱きついた。ダカンのぬくもりを感じて、強張っていた心がどんどん溶けていく。ダカンは何も言わず、ユノアの頭を撫でてくれた。ユノアの中に溜まっていたどす黒いパワーも、飛散していく。
心が一気に軽くなった。ユノアはほっとした。心がコントロール出来なくなる。最近、その事実にユノアは気付き始めていた。
コントロール出来なくなる結果、何が起こるのかはもちろんわからない。だが、漠然とした不安に襲われる。
普通の人間とは違うというだけで不安なのに、これ以上自分がおかしなことをしてしまったらどうしよう、という思いが、常にユノアの心に存在するようになっていた。
その不安から唯一解放されるときが、ダカンやカヤと触れ合っているときだった。ダカンとカヤは今や、自分自身ではコントロール出来ないユノアの心のバランスを取るために、絶対不可欠の存在となっていた。
ユノアがダカンを見上げたとき、その顔には笑顔が戻っていた。せっかくディティの街に来たのだ。気を取り直して、きょろきょろとディティの街を見渡し始めた。
すっかり子供の表情に戻って、荷車を引くダカンの周りをうろちょろしながら、目を輝かせているユノアを見て、ダカンもほっとしていた。
ユノアがザジのことで悩んでいるのは分かっている。何とかしなければとは思うが、今はせっかく街に来ているのだから、ユノアには楽しんで欲しかったし、ファド村にはないいろいろなものを見て欲しかった。
ディティの街は、ファド村の木造の家とは違い、レンガ造りの家が並ぶ。レンガは木材よりも高級な建築材料で、ディティには裕福な家が多いという証だ。二階建て、三階建ての家も多く、ユノアは口をあんぐり開けて家を見上げている。高い場所にある屋根が不思議だったからだ。
そんなユノアの様子を見て、ダカンはやはり連れてきて良かったと思った。くるくると変わるユノアの表情は、見ていて飽きなかった。ユノアはこんなにも感性の豊かな子なのだ。
ファド村にいるときよりも格段にのびのびしているのは、表情をみれば分かる。ユノアのこの表情を、カヤにも見せてやりたいと思う。きっと喜ぶだろう。
「ユノア。ここは街の中心じゃないから店がないけど、野菜を納品したら、店のある辺りに行ってみよう。賑やかだぞ。いろいろなものがある。そこで、美味しいものを買って食べような」
食べ物と聞いて、更にユノアの目が輝いた。まるで漫画絵のように、目が星マークになっている。その顔を見て遂に堪えきれず、ダカンは吹き出してしまった。