第一章:ユノアの悩み
順調に進んでいた荷車が、再び止まった。今度は何だと前を覗いたユノアの表情が強張った。
急いでダカンの元へと駆け寄り、腕にすがりつく。ダカンも顔を青くして前を見つめていた。
二人の前に、四人の男達が立ちはだかっていた。その真ん中にいるのが、ザジといって、村で一番裕福な農家の息子だ。歳は十五歳になる。
ザジは不敵な笑みを浮かべて、二人を見ていた。いや、正確には、ユノアを見ているのだ。
実は、一年以上前から、ユノアはザジに付きまとわれていた。村人は、ユノアの異質さに敬遠する者の方が多いのだが、ザジは一目見たときから、ユノアの美しさに心を奪われていた。
村で一番の金持ちの息子だという傲慢さもあってか、ザジのユノアへの言い寄り方は強引だった。歩いているユノアに声をかけ、ユノアが無視して通り過ぎようとすると、手を強く掴んで自分の方に引き寄せたりした。最近では家にも頻繁に押しかけて、ユノアが仕事をしていようがお構いなしに、側にまとわりつき、一方的に話しかけてくる。
ダカンとカヤの立場を思って、ユノアが反抗せず、大人しくしているのをいいことに、身体にも触れるようになった。
ザジに身体を触られるのが、ユノアにとって一番嫌なことだった。人を嫌うという感情を知ったのは、ザジに出会ってからだった。
だが、村人から敬遠されているユノアにザジが一方的に付きまとっているというのは、ザジの父親にとっては外聞のいいことではない。
年下のユノアにあしらわれている息子に対して、一週間程前、遂に怒りを爆発させた。二度とユノアに会ってはならないと、ザジは厳しく言い渡されたのだ。
さすがのザジも、父親には逆らえない。我慢してユノアに会いに行くのを止めては見たものの、ユノアへの想いは募るばかりだった。
ザジに対して、ユノアが笑顔を見せたことなどない。無表情の、十歳とは思えない凛とした横顔が、ザジの頭の中を占領していた。
ユノアへの想いはストレスになって、この一週間、ザジは喧嘩に明け暮れていた。もちろん、ザジに歯向かう者などいない。一方的にザジが殴り続けるのだ。ザジの暴力に、若い村の男達は震え上がっていた。
そんなとき、ザジは仲間から、ユノアが村の外へ出るという話を聞きつけた。ザジにとっては、願ってもないチャンスだった。村の外なら、父親の目を逃れることが出来るからだ。
一週間ぶりに見るユノアに、ザジの目は釘付けだった。ユノアの顔、胸、足と、舐めるように視線を移していく。いつもよりも執拗なその目線に、ユノアは身震いした。
ダカンが静かに語りかけた。
「ザジ。こんな所でどうした。君達もディティへ行くのか?」
「いや…。たまたま通りかかっただけだ。ユノア。久しぶりだなぁ」
ザジが近付いてきた。ユノアはダカンにすがり付いて、身を隠そうとする。だがザジは、ダカンの存在など気にも留めないようで、ユノアの手を掴んだ。
「ユノア。来いよ。お前も俺に会えなくて、寂しかっただろう?今日はずっと一緒にいよう」
ザジがユノアの手を引く力は、とても強かった。ユノアは恐ろしさを感じた。今日のザジは危ない。そんな気がしたからだ。
ダカンが二人の間に割って入った。
「ザジ。止めなさい。ユノアには関わるなと、君のお父さんに言われているんだろう?こんなことがお父さんの耳に入ってもいいのか?」
父のことを言われ、ザジの顔がみるみる真っ赤になっていく。
「うるっせえな!てめえは引っ込んでろ!」
父に対抗できない自分の弱さへの苛立ちと、ユノアを手に入れたいという欲望が、ザジの心を荒れさせているのだろうか。ザジは激情の向くまま、ダカンを殴りつけていた。
一回りも大きなザジに突然殴られて、ダカンの身体は吹っ飛んだ。
ユノアは悲鳴をあげた。
「お父さん!」
ダカンの元へ駆け寄ろうとしたユノアの腕を、ザジが引き戻し、強引に腕の中に抱き締めた。
「ユノア。俺と一緒に来るんだ。これ以上、お前の父親を傷つけられたくなかったらな」
ユノアはザジを睨み付けた。するとザジは汗ばんだ顔を近づけて、ユノアの耳元で囁いた。
「…それとも、所詮、本当の父親ではないあの男がどうなろうと、構わないというのか?」
その言葉を聞いた瞬間、身体中が一気に熱くなるのをユノアは感じた。
実は、ユノアがダカン達の実の娘でなく、拾われたのだという噂は、今や村人の中で知らぬ者はいないことだった。それでもダカンとカヤは知らぬ振りをして、ユノアに何ら変わることのない愛情を向けてくれている。
ザジの言葉は、そんなダカン達の気持ちを足蹴にするものだ。これを言えば、ユノアが弱気になって、自分に従うとでも思ったのだろうか。
実際、黙り込んでしまったユノアを見て、ザジはにんまりと笑みを浮かべた。
ザジに付き従っていた三人の仲間が、呻きながら横たわるダカンに近付いていく。その身体に、再び拳が振り下ろされようとしたとき、ユノアが動いた。
ザジの身体を突き飛ばすと、目にも止まらぬ速さで三人に近付き、あっという間に投げ飛ばしてしまったのだ。
何が起きたのか分からぬまま、ザジと仲間達は地面に倒れていた。ユノアはダカンの顔を覗きこんで、心配そうに怪我の様子を確かめている。
ザジはよろめきながら立ち上がった。身体に想像以上のダメージを受けている。一体、今、何が起きたというのか。それでも、ユノアに近付こうとした。
立ち上がったザジを見て、ユノアも立った。まっすぐに背を伸ばし、ザジを見据えた。
ザジが嫌いだというどす黒い感情が、心の中で渦巻いて、遂にユノアの身体から溢れて辺りに立ち込めた。
突然、ザジの足が凍りついたように動かなくなった。頭では動かそうとしているのに、身体が固まってしまったようだ。
二人の束縛を解いたのは、ダカンだった。立ち上がったダカンに、ユノアが駆け寄る。
「お父さん。大丈夫?」
「ああ…。ちょっと唇が切れただけだ」
ダカンはザジに目を移した。ザジは呆然と立ち尽くしている。声をかけようとして、止めた。
ユノアの行動を見ていたわけではなかったが、秘められた力がユノアを動かして、自分を助けたのだろうと思った。
ダカンとカヤが困っているとき、ユノアは時々人間離れした能力を見せた。例えば、ダカンが重い荷物を移動させるのに苦渋していると、軽々とそれを持ち上げて見せたり、カヤが洗濯物を屋根の上に飛ばされてしまったときも、難なく屋根へと飛び乗って、洗濯物を取ったりした。
そんな能力は一瞬現れるだけで、すぐにまた影を潜めた。それでも、ダカンとカヤはその度に、人前でこんな力を使ってはいけないと注意してきた。
だが、村人達がユノアを見る目がどんどん険しくなるのは、ユノアの能力が既に目撃されているせいなのかもしれない。
ザジに全ての事実を話せば、ザジを納得させ、これ以上ユノアに近付くのを止めさせることが出来るかもしれないが、話すことは出来ない。
真剣にユノアを想うザジを哀れには思うが、ダカンにはどうすることも出来なかった。事実を話せない以上、何を言おうと、ザジの心には届かないだろう。
今はとにかく、この場を立ち去るべきだと判断して、ユノアを促し、荷車を進め始めた。
我に返ったザジが、またもや後を追おうとした。
「くそっ…。待てよ!」
その声に、ユノアが振り向いた。
その目を見て、ザジの心臓は凍りついた。鋭利な刃物で心臓を串刺しにされたような衝撃があった。
ユノアの目に、感情はなかった。虫けらを見るような冷酷な眼差しで、ザジを見つめている。ザジは胸を押さえてその場にうずくまった。ザジの動きが止まったのを確認すると、ユノアは再びダカンを追って歩き出した。それは、一瞬の出来事だった。ダカンも気付かなかった。
ザジは胸を押さえたまま、倒れこんでしまった。呼吸が出来ない。冷や汗が全身から噴き出してくる。
「お、おい。ザジ。どうしたんだよ…」
仲間達が駆け寄ってくる。だが仲間達には目もくれず、ザジは唇を噛み締め、ユノアの去って行った方向を見つめ続けていた。
ようやくザジが落ち着きを取り戻した。何度も深い溜息を繰り返している。服は汗でびしょ濡れだ。
ザジの様子を眺めて、仲間の一人が青ざめた顔で言った。
「なあ、ザジ…。もう、ユノアに関わるのは止めようぜ。…あいつ、本当におかしいよ。髪の毛の色が変だとか、そんなことじゃなくてさ。あいつに関わると、絶対に良くないことが起こるぜ。…あいつは、悪魔の仲間なのかもしれない」
ザジは黙っている。
「なあ!お前なら、他にどんな女でもよりどりみどりだろう?」
「うるせぇ!俺は、ユノアじゃなきゃ嫌なんだ!」
「そんなこと言ったって…。お前の手に負えるような女かよ。たった今、危ない目にあったじゃないか。胸を押さえて、あんなに苦しそうにしてたのに…。お前、ユノアに殺されかかったんだぞ」
「ユノアが一体何をした?俺に指一本触れてないじゃないか。…たまたま、眩暈がしただけだ」
「ザジ…。お前…」
「…もういい。何も言うな。…帰るぞ」
ザジは村へと向かって歩き始めた。その足元はまだおぼつかない。仲間達は不安そうに顔を見合わせた。