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***大きな歯をした南さんと私***

「……麻里ちゃん。どうしたの?」


 呼びかける声にハッと気が着いた。目の前には心配そうな南さんの顔が私を覗き込んでいた。


「さっきから元気がないようだけど……なにか悩み事?」


「ううん。ちょっと昔の事、思い出していて。ごめんなさい心配させちゃって」


「いや、そういう訳ではないけど、いつも元気ハツラツで明るい麻里ちゃんがなにか “うわのそら” みたいだったから」


 そう言って、笑いながらランチの後に出された珈琲のカップを持ち上げた日に焼けた逞しい腕がなんだか愛おしい。そして、何故か急にその腕に抱かれてみたいと言う衝動が私を襲ってジッと見つめてしまう。


 私の視線に気が付いた南さんが、慌てて額から噴き出た汗をハンカチで拭う。

 私も慌てて視線をそらし、その気持ちを誤魔化すように目の前にあるオレンジジュースのコップにささったストローをクルクルと回しながら「ゴメン。また“うわのそら”になっちゃった」と笑って弁解した。


 “うわのそら”なんかじゃない。

 私は屹度、南さんの事が……。




 喫茶店を出た南さんと私は、新宿から京王線に乗り調布を目指す。


 向かい側の車窓を見上げている私に、南さんが好い天気だねと言ったので「ええ」と顔を向けて微笑む。

 南さんの真っ黒に日焼けした顔からとびっきり大きく丈夫そうな歯が白く輝いていて、まるでお正月の硬くなった鏡餅でさえ、その歯にかかったら丸かじりされそうに思えて聞いてみる。


「南さんの歯って、とっても印象的ですね」って。


 (ことわっておきますが、南さんの歯は大きいですが決して出っ歯とかと言うのではなく、虫歯のない綺麗に整った真っ白で健康的な“歯”なんですよ)


 喫茶店でまるで目の前に南さんなどいないかのように考え込んでしまった気まずさもあって、どうでもいいような話を振ったつもりだったのに南さんは『待ってました!』と言わんばかりに明るく答えてくれた。


「あっ。よく言われるんですよ。アメリカのトウモロコシみたいな歯だって」


 大きな歯で申し訳なさそうに頭をかきながら話す南さんを庇うつもりで「たくましそうで、わたしは好きですよ」と言った。庇うつもりなんて全然なくて、私自身南さんの大きな歯をたくましく思っていたし、その大きな歯で何でも美味しそうに食べる姿が本当に好きだった。


 でも言い終わったあと、独身の男女間で変に勘違いされやすい “好き” と言う二文字の単語が入ってしまった事に気が着いて南さんの顔をチラッと確認すると、案の定その黒い顔の中で歯の次に白く目立つ瞳が驚いたように大きく見開いていた。


 “あら、やだ。スッカリその気にしてしまったかも……”


 私は慌てて「いえ、その……お正月の鏡餅まで噛み砕きそうな……し、確りした……」


 慌てて喋ったせいで直前に心の中で思っていたことを喋ってしまい、全然フォローになってなかったので更に焦るけれど、意外にも南さんはその話に身を乗り出してきた。


「やあ、麻里ちゃんそれ “正解です!” 実はね、恥ずかしいんで余り誰にも言っていないんですが、小学五年生の正月に御爺ちゃんの家に行ったとき立派な鏡餅がありましてね。ほらパックのものじゃない本物のやつ。子供心に『こんなに大きなお餅。食べてみたい!』って思っちゃいまして、カチンコチンに罅割れたその餅を一つ食べちゃったんですよ」


「えーっ!一つ丸ごとですか?」


「さすがに二つは無理でした。お腹いっぱいになりましたから」


「それって、まさか下の大きいほうじゃないですよね」


 恐る恐る二段になった鏡餅のどちらを食べたのか聞くと、南さんは得意気に胸を張って「麻里ちゃん正解です。その大きいほう」


 得意になっている南さんが可愛らしかったけど、罅割れた鏡餅をそのまま食べてお腹を壊さなかったか心配になり聞いてみると


「そうなんですよ。麻里ちゃん “正解です”」と楽しいときの南さんの口癖『正解です』がまたまた飛び出した。


「でもね、歯は問題なかったんですが、やっぱりお腹が痛くなって暫くは御餅を食べられず “おかゆ” 生活になりました。危うく鏡餅の語源でもある、この世とあの世を彷徨さまよう所でしたよ」


 そう言って南さんは明るく笑っていた。


 鏡餅の“鏡”とは、古来青銅で作られた鏡の事。

 鏡には、この世とあの世の境界を映し出すとも考えられ、神事に用いられたり神聖なものとして考えられていたりした。


 折角のお正月に “おかゆ” で過ごさなくてはいけなくなった事を思うと可哀想な気持ちになったが、それとは逆に予想外なことをしてしまう南少年を愛おしく思い、ついほのぼのとした気持ちになりつられて笑ってしまう。

 



 そうこうしている間に電車は調布に着き、南さんはカメラと交換用のレンズの入った大きなバックと、黒塗りのガッチリとした三脚を持って電車を降りる。

 私はメモ帳と小型のパソコンが入っただけのショルダーバックだけだったので、南さんへ三脚を持とうと申し出たが「機材を運ぶのもプロのカメラマンの仕事ですから」と断られ、私も南さんの写真に負けない良い記事を書かなくてはと気合を入れた。


 これから向かう神代植物公園ドッグランではNPO動物愛護団体が、譲渡会で新たに犬と家族になった世帯を対象に躾や相談とコミュニケーションを目的とした催しが行われる。


 殺処分ゼロを目指す各動物愛護センターやNPO団体の取り組みと、犬を新たに飼う上で、そういった消されそうな命のなかから家族を選んでくれた飼い主さんたちに頭が下がる。今回この取り組みを紙面に取り上げ、理解を深めて貰おうと企画したもので期待と緊張で身震いがした。


 神代植物公園が近づいてくると、それまで住宅街だった風景の先にまるで時間と空間を一気に飛び越えてしまったのかと思うくらい大きな森が現れた。


 バスを降りると、道の反対側にドッグランが見えた。そしてバスが走り去ってゆく方向には今迄の家並みが見え、行く先には雄大な森が広がっている。

 まるで過去と現在の境界線のよう。


 そして、そこから吹いてくる心地好い風が私の髪を撫でて行った。

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