***爽太さんと別れた私***
長い時間リリーが――いや松岡麻里さんが戻って来るのを待っていた。
もうコンサートも終わり、ステージ周りに配置されていたスピーカーや、周囲に彩を添えていた屋台が片付けられている。
関係者以外、残っている客は俺一人。
片付けをしている関係者の何人かが、時折不思議そうな顔をして俺を見て通る。
そして、いつの間にか、その人たちも仕事を終え、居なくなった。
空に無数の星々が瞬いているが、地上ではこの広いイベント広場に居るのは、もう俺一人。
そう、俺一人きり。
ほんの1時間ほど前まで音楽で包まれていたこのイベント広場に、いま俺の耳に届けられるのは電車が多摩川の鉄橋を渡る音と、国道246号線を走る車の音だけ。
夜空の星々は何も語らない。
奥の方からカタンと音がした。
そこはリリーと別れたデッキのある方。
華奢な人影がゆらりと揺れた。
“リリー!”
反射的にそこへ向かおうとする体を、臆病な心が止めた。
“あら、爽太さん!”
そう言ってくれるのを待っていた。
しかし、その願いは叶わない。
彼女が、彼女のほうに視線を向けている俺に気が付いて言った。
「あら、柴田さん? こんな所で何をしていらっしゃるのですか?」
ついさっきまで一緒に居て一緒にコンサートを聞き一緒にビールを飲んだと言うのに、リリーの憑依が解けた松岡麻里さんは、俺と一緒に居た事さえ覚えていない。
そう思うと涙が零れそうになって、慌てて夜空を見上げて言った。
「酔い覚ましに、フラッと夜空が見たくなって。……松岡さんは?」と。
「私……私は、買い物に来て……それから、ここで、音楽を聴いて……いつの間にかビールを2杯も飲んだみたいで、お恥ずかしい事に不覚になったらしくてそこのデッキで酔いつぶれて寝ちゃったみたいです」
松岡さんの手には、さっきまで二人で飲んでいたビールのカップが二つ。
“しまった、俺の分のカップを片付け忘れていた”
「変なの、普段は飲まないのに」
松岡さんが独り言のように言う。
「大丈夫ですか? タクシー呼びましょうか?」
「大丈夫です。少し頭が痛いだけ、直ぐに治ります」
「そうですか……」
「一緒に駅に行きません?」
「ありがとう。でも、もう少しここで夜空でも見ようかと思います。ほら、ここの入り口に掛かっていたでしょ“秋の夜会ライブ~星たちのコンサート~って」
「まあ! ロマンチストなんですね」
「そうですね。いつもはそうでもないけれど、いまの俺は屹度ロマンチストなんでしょうね」
「可笑しいわ」
「んっ 何で、です?」
「まるで、恋をしたのか――」
松岡さんは、途中で慌てて手で口をふさぎ、言葉を止めた。
「恋をしたのか……その先は何を言おうとしたんですか?」
「すみません……」
「いや、構いません。その先の言葉に興味があるだけですから、言ってください」
「……失恋をなさったよう。そう言おうとしました。一度お会いしただけなのに、本当に申し訳ありません!」
“一度お会いしただけ……”
リリーは俺と過ごした思い出の殆どを、松岡麻里さんから奪い取り、空の彼方に持って行ってしまったのだ。
唯一残っているのは、仕事の打ち合わせだけ。屹度それまで消してしまうと、自分が憑依した松岡麻里さんに迷惑を掛けてしまうからなのだろう。
どこまでも可愛く、愛しいリリー。
不意に松岡麻里さんの言った言葉を思い出す。
“失恋なさったよう”
そう、俺は今、リリーに失恋させられたのだ。
急に可笑しくなって笑い出してしまう。
松岡麻里さんが目の前に居ると言うのに。
でも、止められない。
心配そうに見つめる松岡さん。
「タクシーお呼びしましょうか?」
「いや大丈夫です。酔うとたまにこうなるんです。ツボにはまると言うか、スイッチが入ると言うか。さあ、もう夜も遅いですから、私に構わず行ってください」
「でも、心配ですわ」
「大丈夫。大丈夫ですから、どうぞお先に行ってください。でないともっと醜態を見せることになるかも知れません」
「まあ、大変! それならなおさらですわ」
「いや、冗談、冗談ですよ。兎に角今は一人にしておいてください。今の貴女には分からないかも知れませんが、いつかこの気持ちが分かる時が来るかも知れません。もしも私がその場所に居合わせて、貴女に帰って下さいと言われれば潔く帰ります。だから松岡さん、貴女も俺の言う通りにしてください」
さっきの事など、リリーではない松岡さんには分かる訳もない。
それでも言いたかった。
俺は駄々をこねて、あまり潔いとは言えなかったかも知れない。
いや、潔くはなかっただろう。
でも、最後には貴女の言う事を聞いて別れた。
松岡さんは心配そうな顔をしたままだったけれど、素直に言うことを聞いてくれ、ぺこりと頭を下げて駅へと歩いて行った。
俺はその後姿が見えなくなるまで目で追った。
そして雑踏の中に見えなくなっても、いつまでも目を離せないでいた。
やがて雑踏の中から、若い女性がこっちに向かって駆けて来るのが見えた。
明らかに周りより鮮明で光り輝くその姿は、遠くからでも見間違うことはない。
“リリー!”
リリーの姿は近付くにつれ、本来の真っ白なスピッツ犬に変わり、あの特徴的な笑顔と真直ぐに俺を捉えて離さない黒い瞳を輝かせながら全速力で走って来る。
その愛らしい姿に、心が踊る。
直ぐそこまで来たので、俺はリリーを受け止めるため、腰を降ろし、手を広げて待った。
しかし、リリーは俺の目の前で急に減速して、この懐には入って来なかった。
よく見ると、リリーじゃない。
スピッツじゃなくて、これは一回り以上小さいポメラニアン。
犬のあとから追いかけて来た知らないオバサンが「どうもすみません」といって、その犬を迎えに来て連れ去って行った。
誰も居なくなったイベント広場に、俺はまたひとり取り残された。
不意に風が舞う。
その風がリリーの言葉を運んだ「幸せになって」と。
言葉と一緒に、ポプラの葉が俺の頬を霞めて飛んで行く。
そして、その葉っぱを目で追いかけていると、その先には見慣れた一人の女性が歩いているのが見えた。
「町子さん……」
小さく呟いただけなので、この距離だと聞こえるはずもない。
しかしその瞬間、まるで声が届いたように大井町子は立ち止まり、こっちを向いた。
「あら柴田さん、どうしたんですか? こんな所で」
「いや、いまリリーと別れて、松岡麻里さんとここで偶然に出会って別れたところです」
「嫌ですわ、リリーと麻里は同じですわ」
「そう、ついさっきまでは」
「ついさっき……いったい何があったんですか!?」
町子さんは、そう言うと俺の心を探る様に臆病な視線をして近付いて来た。
夜空には無数の星々が、神妙に瞬いていた。




