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***さよならのキスをする私***


 ふと、名前を呼ばれた気がして振り向くと、そこにはフライドポテトと牛串を手に持ったリリーが居た。

 慌てて涙を拭きとり、夢なら冷めないで欲しいと願う。


「夢ではないですよ」


 リリーに心を見透かされた。


「何処に言っていた?」


「もう、やっぱり聞いていなかったんですね。チャンと言いましたよ。おつまみを買ってくるって言ったでしょ」


 おつまみを買ってくるのは、単なる口実に過ぎなかった。

 一緒にコンサートを聴くと言う犬の頃に一度だけでもしてみたかった夢が叶ったことで、もう私の胸は幸せで破裂してしまいそうなくらい脹れ上がっていた。

 だから、お別れを告げずに去ろうと思っていた。


 だけど、それは出来なかった。


 お酒のおつまみを買ってくると言い残し、直ぐに屋台の裏へ隠れた私。

 居なくなった私を、諦めてくれればいいと思った。

 もちろん爽太さんが、私を探し回る事は分かっていたけれど、しばらくしたら諦めてくれる。

 そう願いながら離れたところでずっと見ていた。


 だけど、いつまでもいつまでも、爽太さんは必死になって私を探してくれた。

 ひたむきな、まるで少年のままの爽太さん。


 もしかしたら、私は諦めてもらうことよりも、諦めずにいつまでも探してもらえることを願っていたのかも知れない。

  

 いや、きっとそうに違いない。


 その事は私の心の中に、ほんの一握りだけ残っていた未練に強く語りかけた。

 死んでもう20数年経つのに、これ程まで愛し続けてもらい、二度目の別れを心から悔しがってくれる爽太さん。

 この人に飼われて、本当に幸せだったと感じた。


 施設の一番端まで探しに行ってくれて、そこで私が去ったことを知り、涙まで流してくれる姿を見て私はもう逃げないと決めた。


 飼い犬を失うパターンで最も多いのは、もちろん死別。

 しかし、次に多いのは、飼い犬が迷子になって帰ることが出来なくなること。

 一度死んだ私は、二度目の別れに後者を選ぼうとした。

 まだ生きていると思える事で、飼い主の心の痛みも少なくなるだろうと……。


 でも必死に私を探し回る爽太さんを見て、違うと分かった。


 犬の一生は僅か10年前後だけど、その死に直面していない限り、居なくなった犬は飼い主の心に生き続ける。20年……いや30年、それ以上も。それに爽太さんは私が死んだとき東京に出ていたから、その死に出会っていない。

 爽太さんが目にしたのは、骨壺に入った白くて軽くなった私の骨の欠片だけ。


 つまり爽太さんは、心のどこかでズット私が死んだことを否定し続けていたのかも知れない。


 だから私は考えを改めた。

 今度こそ、爽太さんに私の死をチャンと見てもらおうと。


 そして、涙を流す爽太さんの後ろ姿にゆっくりと近づく。


「爽太さん♪」


 ワザと明るく声を掛けると、振り向いた爽太さんが、突然現れた私を見て、夢かと思い服の袖で目を擦った。


「夢ではないですよ」


「何処に行っていたの?」


 振り返った、その目が涙で光り、夜空の星を映すようにキラキラと輝いている。


「もう、やっぱり聞いていなかったんですね。チャンと言いましたよ。おつまみを買ってくるって」


 そう言ってフライドポテトと牛串を手渡し、代わりにビールの入ったカップを貰う。


「もーっカップからビールがこぼれてビショビショ! それに中身も半分無いじゃないですかぁ」


「ゴメン」


「いいですよ。どうせ私は余り飲めないから。でも、爽太さんは大丈夫ですか?」


「大丈夫、足りなきゃまた買いに行けば良いさ、それよりも居なくなったと思って焦ったよ」


“居なくなっちゃ嫌ですか?”


 そう聞きたかったのを我慢してビールに口を運ぶ。


「プハー。やはりフライドポテトにはビールが合う」


「それって、もしかして少し前に流行った漫画の『ひとり酒』の台詞?」


「えーっ、なんで分かるんですかぁ? もしかして読みましたぁ??」


「そりゃあ俺だって漫画くらい読むさ。それよりもリリーが漫画を読むほうがカルチャーショックだよ」


 そんな他愛もない話をしながら、半分になったビールを飲みながら時は流れてゆく。


 いつの間にかコンサートの方も終わりに近づいているのだろう、耳に届けられる曲がショパンの別れの曲に変わった。




 コンサートの曲が、音楽に鈍い俺でも分かるような寂しい曲に変わると、それまで楽しく話していたリリーが急に無口になっていくのが分かった。


「別れたくない」


 たまらずそう言うと「駄目よ、協力してくれるって言ったじゃない」と、リリーが悪戯っぽく俺を睨む。


「でも――」


 だからって引き下がるわけにはいかない。そう思って言い返そうとしたときに、その俺の尖らした唇にリリーの細い人差し指が優しく押さえられて言葉を失う。

 そしてリリーはそのまま体を預けるように、俺の胸にうずくまると、その胸の中で言った。


「私ね、爽太さんに悪霊に変わってしまう姿を見られたくないの」と。


「悪霊になんか、変わらせない!」


 俺はリリーの肩を強く掴み、その力に負けないくらい強い決意を込めて言った。


「でも、私、この匂いにいつも嫉妬してしまうの。知らなかったでしょ」


「この匂い?」


「そう。大井編集長の匂い」


 戸惑う俺の顔を見透かしたように、リリーが埋めていた顔を上げて睨む。

 その瞳は、今までに見た事も無いくらい冷たく感情のない瞳だった。


「怨んでいるのか。……捨てられたこと」


「いいえ、前に言った通り、怨んでなんかいません。むしろこの世界に来て、そして編集長と出会って、幼い時私を捨てたことをトラウマにさせて申し訳なく思うし、嬉しいの」


「嬉しい?」


「そうよ、まだ幼かった町子ちゃんには何の責任もないでしょ。それよりも、私を失ったことを大人になっても忘れないでいてくれて、あんなに立派な本を作ってくれているのだもの。それを考えると私は幸せ者よ。そうでしょ、私を飼ってくれていた二人がふたりとも、大人になっても私の事を忘れずに大切に思っていてくれていたのだから――だから二人には、幸せになってもらいたいの……そして、そしてまた犬を飼うことがあったなら、私にそうしてくれたように私の大好きだったあの黄色いテニスボールを投げて遊んであげて欲しいの」


 言葉の最後、リリーは俺に強く抱きついてきた。

 リリーの決意は揺るぎない。

 だから俺も「わかった」とだけ言葉を返した。


「もうお別れね。いつまでも私の事を思っていてくれて……ありがとう」


「すまない、俺はなにも君にしてあげられなくて」


「いいの。私は十分満足したわ。でも……」


「でも?」


「最後にお願いがあるの。聞いてくれる?」


「いいよ、なに?」


「もし、将来を一緒に過ごしたい人が居るのなら、自分の年齢なんて気にしないで思い切ってプロポーズして欲しいの。そして、いまから言う言葉を付け加えて欲しいの」


「いいけれど、どんな言葉?」


「一緒に犬を飼ってくれませんか? そして一緒にその犬に黄色いテニスボールを投げて遊んであげましょう」


「それって……」


「そうよ。爽太さんが私にしてくれたこと。好きだったなぁ~爽太さんとのボール遊び」


 そう言うとリリーは顔をゆっくりと上げ、目を瞑った。

 リリーが何を求めているのか分かった。

 俺は躊躇わずに、リリーを強く抱き、その唇に自分の唇を合わせた。


 長い、長いキス。

 そして最初で最後のキス。


 キスの途中で、突然リリーの体がピクンと小さく跳ね、俺は不覚にも一瞬手の力を緩めてしまった。


 その拍子に、合わせていた唇が僅かに離れる。


 慌ててもう一度重ねようとしたが、それを拒むようにリリーが強い口調で俺に言った「行って!」と。


「駄目だ、離れたくない!」


 意気地なしの俺が駄々子のように言うと、リリーは再び抱きつこうとする俺の体を突き飛ばし、苦しい息の中で松岡さんの体から離れる霊に戻り成仏してあの世に帰る醜い姿を見られたくないと涙を零した。


「醜くなんか……」


 俺は突き飛ばされて腰を降ろした姿勢から両手をついて四つん這いになり、苦しむリリーに顔を寄せ、その言葉を否定した。

 リリーはデッキの上に寝転がったまま、苦しそうにピクピクと体を揺らしながら、俺の顔に手を伸ばす。


「どうした! 苦しいの、どうすれば良い?!」


 リリーはもう目が見えないのか、震える手で俺の顔を探りながら言った。


「最後に、もう一度キスして」と。


 リリーに言われるままキスをした。

 おそらくこれが本当に最後のキス。

 キスの途中でリリーがまた苦しみだし、俺を突き飛ばす。

 そして、絶え絶えになる呼吸の中から声を振り絞った。



「今まで あり が と うっ   さ よ う な  ら    」



 その苦しそうに閉じられた目からは、幾筋もの涙がつたって零れ落ちていた。


 それが、僕の見たリリーの最後の姿だった。

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