***懐かしい匂いに気付いた私***
小文舎の大井編集長と、ドッグ・ファッションショーの行われるビルで打ち合わせを行ったあと、喫茶店で話をした。彼女とは数年前に仕事で知り合い、その出版物であるペットの話で意気投合して、プライベートでもよく飲みに行く友達。
好みのタイプだがアラフォーまで独身を続けていると、若い時とは違って気軽に恋愛感情を打ち明けられない。
その日も打ち合わせのあと近くの喫茶店に入り、俺が昔飼っていた犬の話で盛り上がっているうちにドンドンと時間だけが過ぎて行き、気が付けばお互いの次の仕事が迫っていて慌てて喫茶店を出た。
大井編集長は神保町にある会社に戻って早速企画の準備をするために地下鉄半蔵門線の表参道駅に向かい、俺も九段下にある自分の会社に戻るなら同じ電車の一つ手前の駅だから本当ならもう少しだけ一緒に居られるはずなのだが、俺は大井編集長の小柄な後ろ姿を見送らねばならなかった。
その理由は、ぶっきらぼうにポケットに突っ込んだ手に当たる紙切れが原因。
俺は、苦い顔をしてポケットからその紙切れを出した。
それは今朝、会社を出る前に、同僚の水沼から靴の購入を頼まれたメモ。
メモには、”柴田爽太殿”と、かしこまって書かれた俺の名前の後に、靴のサイズとメーカーそれに品番まで書いてあった。
そこまで拘るのなら自分で買えばいいじゃないかと呆れて言うと、水沼は机の下に隠してあった足を見せて緊急事態なんだと呟き、足をプラプラさせた。
足の先端に引っかかっている靴は水沼が足を揺らす度に底が捲れてパクパクと口を開き、まるで情けない顔をした生き物のになった様な靴が水沼の代りに話をしているように見えて可哀そうに思った。
水沼とは同期入社で、お互い来年四十歳になる。
高校大学時代に野球に熱中していた俺とは違い、文科系サークルだった水沼は結婚を機にジョギングを始めてもう五年になる。最初はダイエット目的だったが、今では小さな大会なら入賞するくらいだから大したものだ。
しかし俺の営業先近くに販売店があることを調べて買いに行くことを前提とした態度が気に入らなかったが、相応の礼をすると言ったので一応買ってきてやることにした。
並木通りのスポーツ用品店に入り、店員にメモを渡す。
商品を取りに店員が奥へ引っ込むと、他に用のない俺は店の外を眺めて暇を潰すしかなく、暇を持て余す。 そこへ入り口から、すまし顔で入って来た若い女性。
白っぽい服装と色白の綺麗な肌に大きな瞳がクリクリと辺りを見渡す様子が印象的で、筋の通った鼻に口角の少し上がった唇、胸の辺りまで伸びた艶やかな栗色の髪など誰から見ても美人といえる顔立ち。
芸能人には余り興味がない俺でも、屹度この女性によく似た女優かアイドルが居るに違いないと思えるほど。いや、ひょっとすると、この女性そのものが女優かアイドルなのかも知れない。
彼女の華麗な容姿の中でも特に俺の眼を引き付けたのが、その華奢な首に巻かれた青色のリボン。
”リリー……!?”
思わず心の中で、そう呟いていた。
リリーとは、昔飼っていた犬の名前。
美女を見て、犬を連想するなんて何て失礼な男だろう。
でも青いリボンだけで昔飼っていた愛犬を思い出したわけではない。
もしも彼女がリボンを巻いていなくても、俺は確実にリリーの事を思い出していた事だろう。昔ずっと一緒にいた、あの白いスピッツ犬のことを。
靴を持ってきた店員から声を掛けられたとき、急に現実世界に引き戻された気がして残念に思えた。会計を済ませてもなお、その女性が気になり彼女の傍をわざと掠めるようにして店の外へ出た。
すれ違ったときにシャンプーの好い香りがして何故か無性にその頭を撫でてみたい衝動に襲われ、彼女と出会えたことで子供の頃のようにウキウキとした楽しい気分になり、店を出た後は良いことがあったときの子供みたいに小走りに駅へと走って行った。
◇◇◇◇◇◇
青山のKさんとの打ち合わせが終わり、次は南さんと新宿で待ち合わせ。
少し時間があったので木漏れ日のさすケヤキ並木通り沿いを散歩してJR原宿駅に向かう。
洒落たブランドショップが並ぶ街をまるでラン・ウェイをしているように歩いてみると、ケヤキ独特の甘い果実のような香りが香水のように感じた。
しかし、ラフォーレの前を過ぎた頃、思い出したように悪い癖が出てきてしまった。
『おしっこが……』
たまに図書館や書店に行くと便意を催す人がいるって言う話を聞きません?
あれって『青木まりこ現象』という現象なんですって。
私の場合、図書館では何ともないのですが、樹木が多い場所に行くと尿意を催してしまう変な癖があるのです。
中学のときに、そのことを友達に相談したら『犬みたい!』と笑われたの。
でもその時はまだ自分が人間として生まれてくる前に犬だったなんて思ってもいなかったから気にもしていなかったけれど、今は確実にこれが前世の犬だった頃の習性だと言うことが分かる。
あまり我慢しているとお腹が痛くなっちゃうので、トイレの使えそうなお店を探すと丁度近くに大きなスポーツ用品店があったので、さも何事もないふうに見せて店内のどの辺りにトイレがあるのか探る。
そして場所が確認できたときタマタマそこにトイレがあったので行っておこうかという何気ない素振りで近づいてダッシュで駆け込もうとしたとき、十年前に決定的に私を覚醒させた“あの匂い”に出会った。
『どこ!』
慌てて周囲を見渡す。届いた臭いは人の流れに急激に薄くなっていく。
慌ててその消えそうになる匂いを追いかけて店の外に出ると、人ごみの中に掻き消されそうになりながらも、その匂いは原宿駅方面に向かっていた。
『誰?』
と問いかけ、私は人を掻き分け走った。
「すみません。少しだけお時間宜しいでしょうか」
急に進行方向を遮るように現れたスーツ姿の女性に話しかけられて立ち止まった瞬間、交差点を走る抜けて行ったトラックが巻き起こした風がその匂いを浚っていってしまった。
そう。十年前のあの日と同じように……。




