***爽太さんと最後の散歩をする私***
「本当なのか?」
「何が?」
「いろいろな事」
「いろいろな事って、なあに?」
いつも素直だったリリーがまだ憑依の話しを切り出してもいないのに、爪切りを嫌がる犬のように御機嫌斜めになった。
リリーも、そうだった。
こういう時に、怒って無理やり爪を切ると更に爪を切ることを嫌がるようになるし、甘やかしてしまうと反抗的な態度を取れば嫌な事から逃れられると思ってしまい厄介だ。
だからあまり犬のとる態度に左右されること無く毅然とした態度で接することが大事。
ただし、これには時間を掛ける事が大切で、焦ってしまうと何にもならない。
勿論それは犬の気持ちを無視するのではなく、嫌がっていればより慎重に短時間に物事を進め、終わればチャンと褒めてあげる事が肝心なのだ。
そう言う事が、犬を育てるうえで大切なキマリ。
怒ってばかりや、逆に甘やかすだけでは、キチンとした躾にはならない。
もっとも、これは犬の話。
でも、今目の前にいる松岡麻里さんにるりーが本当に憑依しているのであるなら、そのキマリに添って進めるべきなのだろう。
「つまり、憑依とか怨念とか、その怨念を放って置くと悪霊に変わるということ」
怒りもせず、怯えもしない。
かと言って媚もせずに、聞きたいことをそのままの気持ちで聞きかえした。
すると、今までキッと睨むような眼で俺のことを見ていたリリーが、その眼を多摩川に移した。
俺に背を向けたままのリリーは、何も言わない。
言いたくなければ無理に話す必要はない。
その事を伝えるために、なにか言わなければと思いつつ、何を言えば良いのか分からないまましばらく時が流れる。
もうすっかり日は暮れてしまい、空には金星が輝き、他の星たちもようやく時が来たとばかりに瞬き始めていた。
冷たい風が緩やかに流れ、リリーの短く切った髪を撫でて行く。
俺は、このまま2人だけの時間を永遠なものにしたいとさえ思っていた。
何も言わずにただリリーの後ろ姿だけを見ていた。
その後姿は暗闇の中ポツンと独りぼっち寂しそうにも見え、花のように愛おしくも見えた。
やがて背を向けたままリリーが言った。
「怨念は、その思う人の心が支えてくれる限り悪霊には変わりません」と。
“じゃあ、君は大丈夫だね”
俺がそう口に出そうとしたとき、それを察したのかリリーは突然振り返った。そして――。
「でも……でも私はもう昔のように爽太さんの膝の上で寛いだり、布団の中に潜り込んだりは出来ないのでしょ?」
「そんなことはない。俺は今でも――」
「駄目よ。もう私の体はあの頃の様に、小さなスピッツ犬のままじゃないんだから」
俺の言葉を遮るようにリリーは言った。
「でも、俺は……」
「駄目。爽太さんは人間として、幸せを掴む必要がるわ。それは私が犬のリリーとして生きていたとしても同じように。好きな人と結婚して、子供が生まれて、家族と幸せに暮らすの。犬のままのリリーなら、その家族と一緒に暮らせた。……でも、今の私の体は、人間。 その家族の中では暮らせない。 そう、でしょ」
「俺はリリーと暮らすことが出来れば、それで幸せだ」
「いいえ、駄目よ。私は爽太さんが家に帰って来るたびに、何処に行ってきたのか、誰と合っていたのか、他の女性と合って来てはいないか気になります。そして、そのたびに嫉妬してしまいます。――ほら昔から私って独占欲が強かったでしょ。それは今でも変わらないんですよ」
最後の言葉を言い終えたあと、リリーは哀しい心を見破られないように笑顔を見せた。
でも、それが分からない俺ではない。
たしかにリリーは、そうだった。
俺が家に帰って来るたびにリリーはクンクンとしつこいくらい匂いを嗅いでいて、少しでも他の犬と遊んで来ると直ぐに嗅ぎつけて咎めるように機嫌を悪くした。
「私、自分が怨霊になるなんて嫌」
「帰るのか?」
リリーがコクリと頷く。
「でも、ひとりでは帰れない……帰ろうとしても、帰ることが出来ない」
「じゃあ、どうしたらいい? 俺に出来る事なら、何でも言ってくれ」
「協力してもらえます?」
「うん」
まるで子供のように、素直な気持ちで言葉が出た。
「じゃあ、戻りましょう。寒くなって来ましたわ」
リリーはそう言うと再び俺に背中を向けて歩き出し、俺はその見えないリードに引かれるように着いて行った。




