***めざめた私***
翌朝、目が覚めて時計を見ると、8時を過ぎていた。
いつもならもうとっくに家を出て、電車に乗っている時間なのに今朝の私はまだベッドに横になっている。
目覚ましは確かに掛けていた。
でもその目覚ましが、いつ鳴ったのかはまったく覚えていない。
とうぜん私自身が止めたはずなのに。
無性に体が重くて、ベッドから体を起こそうと言う気になれないまま、ただボーっと天井を眺めていた。
重たい頭の中で、昨夜のことを思い出す。
昨夜は会社に戻って日報を書きながら、最近やけに柴田爽太さんから身を引こうとしている編集長の様子に苛立ってっていた。
だって私は何も編集長と爽太さんの恋の邪魔をしようなんて、これっぽっちも思っていないのに。
それってまるで私が爽太さんを横取りしようとしているみたいじゃない?
私は、ただリリーとして、爽太さんに可愛がってもらいたいだけなのに……。
そんな事を考えているうち、ついうっかりして食べていたメロンフルーツ味のパチパチキャンディーを口に頬張り過ぎてしまった。
唾液に解けたパチパチキャンディーたちはまるで私の小さな口の中で戦争を始める様にお互いパチパチと激しく爆発し合い、はじけ飛ぶたびに出る炭酸の泡があっという間に口いっぱいに広がり、その圧力で飲み込むこともできなくなり私は吐き出すために台所に向かった。
そして、そのときに編集長に前を塞がれ、水を掛けられた……。
おどろいた私は、もう我慢の限界に達していた口の中で炭酸だらけになって膨らみ過ぎたメロンソーダを吐き出してしまった。
吐き出した液体に編集長が更にお水を掛けたり、南さんが大麻を左右に振りかざしたりしていたのを不思議に思って見ていた。
南さんが濡れた私の衣服を心配してくれたけれど、それよりも急に泣きだした編集長の方が心配だった。
なにせ編集長ときたら私の吐き出したメロンソーダに向かって「チャーム!チャーム!」と何度も私の前の名前を呼び続け、まるで謝る様に覆いかぶさって泣き叫んでいて、南さんが立たせようとしても全身の力が抜けてしまったみたいになっていて、立つ事すらままならない状態だったから。
洋服の濡れた私を、南さんがタクシーで家まで送ろうかと言ってくれたけれど、私はそれを断った。
私よりも編集長の事が心配だったから、南さんに編集長の事を頼んで私は吐いてしまった物を綺麗に拭きとって、散らかった部屋の片づけをして――もう、その頃には濡れた衣服も殆ど乾いてしまっていたからそのまま最終電車で帰った。
最寄りの駅からアパートまではバスが終わっていたのでタクシーで帰ったけれど、アパートに着いてからのことは殆ど覚えていない。
何を食べたのか、それとも何も食べなかったのか、シャワーを浴びたのか浴びなかったのか。
ひとつだけハッキリしているのは、歯を磨いて洗顔をしたこと。
だって、口の中が気持ち悪くはないし、顔もベトベトしていないもの。
“おっとイケない! はやく会社に連絡しないと――”
いつもより重く感じる体をゆっくりと起こして、バックの中から携帯を取り出す。
南さんから3通のメールと2回の着信が入っていたけれど、時間はいつの間にか目が覚めてから40分以上も立っていて、もうみんなが出社している時間。
私は、南さんのメールを見る前に、先ずは会社に連絡した。
会社の番号を押しながら、自分の予定表を確認していた。
都合の良い事に、私は今日打ち合わせの予定が入っていなかったので、あまり皆に迷惑を掛けずに休める。
電話に出た里美さんに、今日は体調不良で休むことと、編集長の様子を聞いてみた。
「んっ、了解! お大事にね。編集長? いつも通り元気に出社しているよ。なにかあった??」
「ううん。なんでもないです。ただ、急に休むと迷惑かなぁって……」
「大丈夫よ、麻里今日は打合せ入っていないでしょ。それに入社してまだ一回も休んでないんだもの、体調が悪い時くらい仕事の事なんて忘れて、のんびりしなさい!」
「はい。ありがとうございます」
「あっ、朝礼が始まるから切るね。仕事のことは気にしないで良いから。じゃあね!」
里美さんの電話を切る様子から、今日も慌ただしい一日が始まると思った。
雑誌の編集は工場などと違って、一日に何個作らなければいけないと言うノルマはないから一見楽そうにも見える。
だけど手を緩めると、それは直ぐに販売部数の減少として跳ね返ってくるから息抜きなんて出来ない。楽しそうに見えるけれど、絶対に楽をしてはいけない仕事が雑誌の編集なのだ。
だから私一人が一日休んだぶん、直接他の人の仕事が増えると言う事はあまりないけれど、私が意見を言えなかった分、アイディアを出せなかった分、他の人が頑張る。結局全体のパワーを落せない点で言えば、1日のノルマがある工場などとまるで同じなのかも知れない。
電話を終えて窓辺に行き、窓を開けた。
心地よい秋の風が、素肌を優しく撫でながら通り過ぎて行く。
風に当たりながら、南さんのメールと着信を確認する。
メールの方は、
『いま編集長の家に着いた』
『いま編集長を家族の人に無事送り届けました(`・ω・´)ゞ 麻里ちゃんまだ会社なら、送ろうか? 送り狼にはなりませんから御心配なく(笑)』
『散らかしっぱなしで出て行った編集部の部屋を、綺麗に片付けてくれてありがとう(^▽^)/。今日は沢山驚かせてしまいスミマセンm(__)m ゆっくり休んで下さい、おやすみなさい(@^^)/~~~』
日頃絵文字なんて使わないくせに、私の気持ちが少しでも解れればと思ってワザと絵文字を使ってくれていると思うと、微笑ましくて嬉しくて目から涙が出てきてベッドにそのまま仰向けに横になった。
優しい秋の陽射しに泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、腕で顔を覆い隠す。
何でもない絵文字に、なぜか涙が止めどなく出て不思議に感じる。
そして私は、いつの間にかまた眠ってしまった。
◇◇◇◇◇◆
朝、出社してみると、いつも一番に来ているはずの麻里がいなかった。
朝礼の前に、里美から麻里が休むことを告げられた。
あんなことがあったのだから、身も心も大きなダメージを受けた事だろう。
とにかく今日は、事の次第を柴田さんに報告しなければならないと思う。
何と言ってもリリーが生まれ変わったと思い、一番喜んでいるはずの柴田さんに何の相談もなく、その大切なリリーの魂を除霊してしまったのだから。
報告する前から、柴田さんの気持ちを思うと、こころが重い。
◇◆◇◆◇◆
他の仕事が入っていて、朝編集部に寄れなかったので、その仕事が終わって急いで編集部に顔を出すと麻里ちゃんがいなかった。
あんなことがあったのだから、精神的にも体力的にも相当なダメージを受けた事だろう。
“僕のしたことは、正解だったのだろうか?”
“僕はただ、麻里ちゃんが柴田さんに取られるのが嫌だっただけではないのだろうか?”
“リリーと一緒に居たほうが、麻里ちゃんは幸せだったのではないだろうか?”
でも、これだけはハッキリと言える。
僕は誰よりも麻里ちゃんの事が好きだ。
誰よりも、麻里ちゃんを幸せにしてみせる。
そう、あの柴田さんよりも。
そして、他の誰よりも。




