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***爽太さんとリリーと私***

 それは爽太さんが中学に入って暫く経ったときのこと。


 コタツに入って勉強する爽太の隣で邪魔をしないように、おとなしくしていた私を爽太は私を急にゴロンと仰向けにして食い入るような目をして……。


 今の麻里としては、そこまで言うのが精一杯。


 爽太さんは何のことか分からず暫く考えていたが「あぁ~……」とようやく思い出したようでバツの悪い返事をしたあとで、結構純情だったんだ! と笑い出した。


 私は真っ赤な顔のまま「犬だからって見られて平気じゃありません!」って訴える。


 そして爽太さんからもう一度倖せだったかと聞かれたとき、急に胸が締め付けられ涙が零れ落ちて答えた。


「倖せでした」と。




 ◇◆◇◆◇◆




 はじめは奇天烈な女だと思っていたが、話しているうちに彼女の言うことが本当のことのような気がしてきて懐かしかった。


 頭の中で在り得ないことと否定しながらも、心の中では人間の姿に生まれ変わったリリーとの思い出話を躊躇ためらいも無く楽しんでいた。


 リリー。いや松岡麻里さんの話は楽しい思い出ばかりだったが、リリーが死んだときから心にずっと引っかかっていた事を聞いてみた。それは、幸せだったかと。


 言った途端急に麻里さんは黙って俯いてしまい、地面に大粒の涙が零れ落ちていた。やはり飼われる立場になると、それなりに自由を束縛されて嫌なことも多かったのだろう。あのとき公園で拾わずに、そのまま野山を駆けていたほうがずっとリリーにとっては幸せだったのかもしれない。


 俺が、そんな事を考えながら俯いている麻里さんの様子を窺っていると、麻里さんは未だその大きな瞳に涙を溜めたまま爽やかな表情で俺を見て微笑んで言った。


「楽しかったよ。とても倖せだった」と。


 その言葉に俺はホッとしたが、でもね……と一言付け加えられた。


「死ぬ最後の瞬間に、爽太さんが居なかったことが、とても寂しかった」


 言葉の後半が涙声になって掠れていた。


 そう。

 リリーが死を迎える時、俺は実家を離れ東京の高校の寮に居たのだ。


「ごめん」


 ほかに何も付け足すことの出来ずに、ただ一言しか口に出せなかった。



 ◆◇◆◇◆◇



 私のいちばん寂しかったときのことを口にしたとき、爽太さんも辛く感じていてくれているのがわかり話を打ち切った。


 人間に生まれ変わって分かったこと。

 人は家の中で飼われているペットが自由に外に出られなくて不自由だと思うけど、犬は家族に愛されていることが最大の幸せだからチャンと朝夕の散歩を欠かさなければ特に不自由だなんて感じない。

 それに私の場合は毎日充分な散歩に連れて行ってもらい、お風呂や爪切りもブラッシングもしてもらえただけでなく沢山遊んでもらったし、頭も一杯撫でてもらったから私の犬としての生涯は幸せに満ちていて不自由だと思ったことは一度もなかった。


 家族に愛されること、暖かな家庭で暮らせることこそ、何ものにも勝る幸せだった。


 ベンチから立ち上がり爽太さんに手を差し伸べ散歩に連れて行ってとおねだりすると、キョトンとした顔で見上げた爽太さんが子供のように可愛く見えて可笑しくて、そして思いっきり嬉しい。


 私の手に爽太さんの大きな手が重なるとリリーとして過ごした日々の鮮明な記憶が蘇り、懐かしさに絡めた指先が震えると、その手を確り握ってくれた。


「植物園に入ってみようか」


 爽太さんの言葉に直ぐ「うん!」と返し、森林の中を抜ける細い坂道を登って行った。




 ◇◆◇◆◇◆




 こうして二人で歩いていると、本当に昔リリーと散歩していた感覚が甦ってくる。


 松岡麻里さんは、リリーがそうしていたように道端に咲いている草花に立ち止っては、その微かな匂いを楽しんで嬉しそうに俺に笑顔を向けてくれる。


 その顔は二十代前半のうら若いお嬢さんのものではなく、まるで白いスピッツ犬のリリーそのもののように思えた。


 未だに信じられないけれど、この松岡麻里さんは本当にリリーの生まれ変わりかもしれないと思ってしまう自分がおかしかった。


 植物園を出て新緑の公園の中を暫く歩いていると、子供たちがボールを投げて遊んでいた。


 昔こういった広い公園で黄色いテニスボールを投げてリリーと遊んだ記憶が蘇る。


 公園が終わり小さな信号機が見えたそのときリリーが、いや松岡麻里さんが何かに興味を惹かれたらしく繋いでいた手を思いっきり引いた。


「ほら!ドッグランがあるよ!」


 信号の向こうにある広場には沢山の犬がいて、リリーは俺の顔と広場の両方を交互に見ながら、散歩中に何かに興味を惹かれたときのように目を輝かせて俺の手を引っ張って一目散にドッグランの広場を目し駆けた。


 俺は犬にリードを引っ張られて仰け反っている飼い主のような格好で着いて行く。なんとも情けない格好だけど、引かれる感覚にあの頃の記憶が重なって嬉しくて笑い出していた。


 ドッグランで何か変なことをしてしまうのではないかと心配していたが、彼女は時折話しかけてくるだけで“人間”らしくフェンス越しに中で遊ぶ犬たちを楽しそうに見ていた。


 日も傾きはじめたので、直ぐそばのバス停から駅に向かうか尋ねると、もう少し散歩がしたいと言われ再び道路を渡って新緑の森に入る。


 疲れたのか少しおとなしくなったリリーとベンチに腰掛けたとき、不意に疑問に思っていた事を聞いてみた。


「どうして俺が爽太だと分かったの?」


 リリーと分かれたのは高校のとき。あれからもう二十年以上も経つのだから偶然とはいえ、出会った瞬間に分かるなんて難しいのではないかと思った。


 リリーは俯いていたが、直ぐに顔を俺に向けると「匂い」と答えて笑顔を見せた。


「えっ?」


「爽太さんの匂いが記憶に残っていたの。そしてその記憶が、前世の記憶を呼び覚ますキーワードになっていたらしいの」


 言われた言葉に小学生の時、いくら隠れても直ぐリリーに見つかった“隠れんぼ”を思い出す。


 ひょっとしたら、その匂いの記憶で我が家に来る前に飼っていた家族のことも見つけているのではないかと思って聞いてみると、家族は知らないけれど偶然に当時幼かった少女と出会ったと答えた。


「怨んだろう……」


 俺の問いかけにリリーはキョトンとした顔をして「懐かしかった」と答えたあと、顔を曇らせて、その娘が大人になった今でも私を捨てるのを止められなかったことを重い荷物として背負っていると寂しそうに俯いていた。


「怨むなんて、人間になって初めて知った感情よ。犬は怨まないの。その代り悲しいとか寂しいとか自分が悪かったとか思ってしまうの。捨てられた時もずっと家族の心配をしていたわ」


 当たり前のように寂し気に言うリリーに、彼女を捨てた少女に代わって謝ろうとすると、それを見透したように「犬にとっては可愛がってもらえることが全てなんですよ」と笑顔で返された。

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