***髪を切った私***
原宿で靴を買って会社に着いたのは一時過ぎだった。
水沼が底の剥がれた靴を擬人化して「遅い!」と文句を言ってきたが、感謝されることはあっても文句を言われる筋合いはない。水沼は渡した靴を直ぐに箱から取り出して靴紐を結ぶと嬉しそうに履き心地を確かめて、それから一緒に昼食に出た。
「どこ行く?」
俺が当然のように「蕎麦屋に行こう」と言うと、その回答を予想していたように笑われる。
お目当ての老舗蕎麦屋は、昼食時間を過ぎていたから意外に空いていた。
注文した蕎麦をペロリと平らげると、まだ食べている水沼に「お前、本当に蕎麦好きだよなぁ~」と言われたので、いつものように「信州生まれだからな」と威張って見せる。
水沼がニヤッと笑い「東京にも蕎麦の名所があってな……」と、ポケットから観光案内所が発行したような賑やかな地図を取り出した。
イラストで書かれた地図は、どこかのお寺の案内図のようだが参道には沢山の蕎麦屋が書かれていて、寺の案内なのか蕎麦屋の案内なのか分からない。
地図に載っている蕎麦屋の中には、知っている蕎麦屋も何件かあった。
「なんだ、これ?」
「そこに行って来いよ」
「なんで?」
「そこの寺は、縁結びの御利益がある。柴田ももう直ぐ四十だし、そろそろ所帯を持つ事を真剣に考えてもいい頃だろう」
余計なお世話だと顔に出ていたのか、断る言葉を出す前に駄目押しの台詞を言われる。
「蕎麦と一緒になら、ついでに寄れるだろう。いつまでも携帯の君ではいかんだろう」
“携帯の君”と言うのは、俺の携帯の着信表示に使っているスピッツ犬の写真のことだ。
『普通ここへ貼るのは彼女とか、お気に入りのアイドルとかじゃないの?』と同僚たちからよく言われるが、入社以来ずっとその写真を使い続けているので仲間達から“携帯の君”と言われるようになった。
未だに独身の俺が若い女性より、犬のほうが好きな男と揶揄されることもある。
しかし、蕎麦と聞いて迷った。
確かにこの狭い地域に、この数の蕎麦屋が揃うなんてところは、そうざらにはない。
俺の出陳地である長野県の戸隠地方は日本三大蕎麦のひとつで、蕎麦の名店は多いが歩いて行ける範囲内にこれほど密集してはいない。
ちなみに日本三大蕎麦とは島根県の出雲そば、岩手県のわんこそば、そして俺の地元にある長野県の戸隠そばの事を言う。
蕎麦屋を回って寺で一休みして、また蕎麦屋を回るのも悪くないかと触手ならぬ食手が動く。
◇◆◇◆◇◆
その日、柴田爽太は八王子のビルを出て携帯の電源を入れた。
起動と共に着信を伝える愛犬の画面が現れて思わず顔が緩む。そして宛名を見て苦笑いに変わる。
メールをよこしたのは水沼で内容は午後に予定の入っていた吉祥寺の会社からドタキャンが入った知らせだった。追記に深大寺で蕎麦でも喰ってお参りして来い。と書かれていた。
俺はは京王八王子駅の改札を潜る。
別に水沼の指示に従うつもりなど毛頭ない。
ただ少し遅くなった昼食に蕎麦を食べに行くだけ。
時刻は昼の二時を過ぎていた。
丁度来た電車に乗り調布に着くと、どんよりとしていた空は、いつの間にか鮮やかな青に変わっていた。
◆◇◆◇◆◇
編集部を飛び出して、あてもなくただ歩いて、気が付いたとき新宿まで来ていた。
慌しく行き交う人の中、途方に暮れて歩道に立ち止まっていると何人かの人とぶつかり、それを避けるために仕方なくまた歩きだす。
歩いているうちに京王新宿駅の案内板が目に入った。
前に取材に行ったとき南さんが“縁結びの御利益がある”と言っていたお寺は確か京王線沿線にあった。
“会えるものなら、逢いたい!”
昔、私がリリーだった頃の飼い主『爽太さん』に。
叶うなら、たとえこの身がどうなろうと構わない。
会って、もう一度爽太さんと散歩がしたい。
頭を撫でてもらいたい。
膝の上で甘えたい。
あの暖かな胸に抱かれたい。
“あそこに行けば願いが叶う”
まるで夢遊病者のように京王新宿駅の改札を潜り調布行きの電車に乗った。
◇◆◇◆◇◆
「麻里ちゃんを連れて来ます!」
そう言って階段を駆け降りたものの、当てはなかった。それでも南は駆けた。
人の波を縫う。
ラガーマンだった頃の体の動きを思い出しながら、人の波を掻き分ける様に凄いスピードで兎に角駅に向かって走る。
いちばんに思いついたのは神奈川県動物愛護センター。
ひょっとしたらダイに会いに行ったのかも知れないと思い、センターに電話を入れ、松岡麻里が来たら連絡して貰うようにお願いして小田急に飛び乗った。
しかし動物愛護センターに麻里ちゃんの姿は無く横野のロンの里親宅にも立ち寄った形跡はなく無駄足に終わる。
虚しさを残して、秦野からまた小田急に乗って引き返す。
帰りの電車に揺られながら窓の外を眺めると、午前中の灰色の空が嘘のように晴れ渡り、五月に麻里ちゃんと一緒に取材に行ったときの空に似ていると思った。
車内アナウンスが次の停車駅『登戸』を告げる。
普段聞き流すアナウンスに『小田急線登戸』→『南武線登戸』→『稲田堤』→『京王稲田堤』→『調布』と路線図が頭の中で繋がり、あのドッグランの取材の時の活き活きした麻里ちゃんの顔が重なった。
「正解!深大寺!」
僕は電車内でそう叫ぶと座席から飛び上がる様に、まだ空いていたドアから飛び降りた。
◆◇◆◇◆◇
新宿で書店との打ち合わせが終り、帰社するために都営新宿線の駅に向かっていた大井町子は、出ていった麻里の事を思うと不意に立ち止り今来た地下道を引き返していた。
思い出したのは南君が深大寺公園ドッグランの取材のとき撮った麻里の活き活きとした笑顔の写真。
南君から個人的にもらった写真は、何故か遠い記憶の中の『チャーム』に似ていると思った。
“あの笑顔に逢いたい”
そうすれば屹度麻里にも会えるはず。
そう思うと、足は勝手に京王新宿駅へと向かい深大寺を目指していた。




