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***逃げ出してしまった私***

 神奈川県動物愛護センターでの取材から一ヶ月経ったその日、南は倉橋里美から呼びだされて神保町に向かって駆けていた。


 地下鉄を降り、地上に出ると六月の梅雨時期特有の憂鬱な空模様と排気ガスに包まれた町並みは、つい昨日まで撮影に行っていた穂高の澄んだ空気と美しさには程遠かった。


 それでも南は、この少し先にあるビルの中に、穂高で見たどの高山植物より綺麗で可憐な花があることを知っていた。倉橋さんの緊迫した声で急に呼び出されたのは不安だったけれど、どうせ編集会議で白熱した議論の中でのことだと軽く考えていた。


 それよりも、思いがけず小文舎に呼ばれて久し振りに麻里ちゃんの顔が見れると思うと、どれだけ不安要素があったとしても今の僕には全てが希望にしか思えてならなかった。


 しかし編集部のドアを開けた途端、自分がスッカリのぼせていたことに気付く。

 あるべき場所にその花はなく、他のどの世界よりも憂鬱な空気が漂っていた。


「えっ?ま、麻里ちゃんは」


 そこに松岡麻里の姿がない。


 いつもなら『麻里ちゃん目当てでやって来た』と突っ込んでくる倉橋さんがテーブルに突っ伏して泣いている。他のメンバーも項垂れていて大井編集長だけが妙に毅然とした態度で手に握り締めた資料を睨んでいた。


「南クン遅いよ」


 中年の田崎副編集長に声を掛けられるまで、場の雰囲気に呑まれて立ちつくしていた。


「何が……何があったんですか」


 部屋の中で唯一平静を保っている田崎副編集長に問いかけたが彼は困った顔をして肯くだけで、直ぐ大井編集長のほうに向かい「企画に沿った広告とってきますから」と言って部屋を出て行った。そのドアが閉まる音を合図に大井編集長が閉ざしていた口を開く。


「さあ!わたし達は止まっていられないわよ! みんな仕事、仕事!」


 まだ俯せて泣いている倉橋さん以外のスタッフが、緩慢な動作ながらもテーブルから離れて、各々の仕事に向かうため部屋を出て行く。漸くこちらを向いた大井編集長が、すれ違い際に「何しに来たの?」と冷たく呟いて部屋を出ていった。


 部屋に残された僕には何がなんだか分からない。呼ばれたわけも、遅かったことも。


「ま……麻里が出ていった……の」


 倉橋さんが顔を上げ言った。


「出て行った?」


 口に出して言った言葉が、頭の中で何度もこだまする。


「あのとき、元気に帰ってきたからホッとしていたのに……」


 倉橋さんが事情の分からない僕に説明してくれた。


 麻里ちゃんは動物愛護センターの取材のあと、急に長かった髪を短く切ったかと思うと、取り付かれたように休日返上で各地の動物愛護センターや動物愛護団体、それから各地のブリーダーの取材を続けていたと。


 そして今日、その企画資料を持ち出して企画会議にかけた。

 麻里が提出した企画は『悪徳ブリーダー動物虐待の実態』や『過酷な環境で働く、盲導犬の実態』『動物愛護センターでの殺処分の現状』


 どれも深刻な問題なのに、どのマスコミも踏み込んだ報道はしていない題材。

 私は大井編集長との付き合いが長いから、当然編集長も麻里の企画に喜ぶと思っていた。


 しかし、それは逆だった。


 編集長は“捨てられた犬や猫の問題をこれ以上紙面に取り上げるつもりは無いし、その他の話題も紙面が暗くなるだけで読者には受け入れられない!” と言って無下に却下した。


 そして麻里と編集長とが激しく口論になり、最後には麻里が編集部から飛び出すように出て行ってしまった。




 ◇◆◇◆◇◆




 僕は日頃から麻里ちゃんを見ているときに、ふとこの子は本当に犬なのではないかと思うことがある。それに、あの日の動物愛護センターでの取材の帰りに僕は麻里ちゃんがどれだけ悲しい思いをしたのか知っていた。


 だから、麻里ちゃんがしようとしていたことはよく分かるし、飛び出して行った気持ちも分かる。


 日本は経済的には世界でも有数の先進国。

 しかし、ペットに関する法律や文化と言う点では、他の先進国に比べて、全くなっていない。

 麻里ちゃんはペットに代って、ペットの“人権”を主張したかったに違いない。


「僕、麻里ちゃんを探しに行ってきます」


 言い終わらないうちに体が自然にドアを開け、階段を駆け降りていた。

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