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ぱちりと目が覚めた。だけれど、いつもなら差し込んできている筈の日の光が窓から差し込んできていない。まさかと思って壁に掛けてある時計を見ると、短い針と長い針が二つとも真上を指しているではないか。
しまった、変な時間に目が覚めてしまった。
早く寝ないと……明日は早いんだ。
…………
目をつぶったはいいけど、全く眠気が来る気がしない。というか寧ろ、蒸し暑さと喉の渇きなどから目が冴えてきてしまった。
仕方ないなと私はのそのそと布団から出て、冷たいお茶を飲む為に下のキッチンまで向かう。
お婆ちゃんを起こさないように細心の注意を払って階段を降りた。
それにしても、私がこの家に来てから約一年も経つというのに、この階段にはなれない。
夜に通る時は真っ暗だからお化けとかが出るんじゃないか、って毎回思ってしまうし、角度が急だから転倒してしまいそうで怖い。
だが、幸いにも今日何かが起こるという事はなく、なんの問題も無く階段を降りる事ができた。
まあ、いつも通りなんだけど。
何故か少しテンションが高くなっている自分をおかしく感じて、軽くスキップでもするかの様な足取りでキッチンに向かう。廊下を通り、庭に直結している居間を経由して、キッチンにたどり着いた。
そのままのテンションでコップを取り出し、冷蔵庫の中でキンキンに冷えている麦茶をそれに注いで、一息に飲み干す。
あー、美味し。
一気に飲み干して喉の渇きを吹き飛ばしたお陰か、今夜は気持ちよく寝られそうな気がした。早く自室に戻って寝よう。
帰り道の途中。
まだ七月なのに蒸し暑いな、とか考えながら何気なく庭を見た瞬間。
ハッと息を飲んだ。
私はそこに、月明かりに照らされた星空を見た。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
電車の窓に映る景色が段々と変わっていく。高層ビルが立ち並ぶ風景から住宅地、そして木々が生い茂る山へと変化していく。景色が変わっていくのに比例して、僕の心が少しずつだが踊り始めているのが分かった。
毎年帰っている母方の祖父母の家。特にこれといった物もなく、知り合いも祖父母以外にいない。帰ったところで特に何もする事はないと分かっているのにも関わらず、僕は毎年の夏に祖父母の家に帰っていた。流石に去年は高校受験があったから帰れなかったけど、その分今年は早めに帰っているのだ。
例年通りなら八月の十二日に帰って、十六日に家に帰るという風にしているのだけど、今日は八月の三日だ。
詰まる所、今回僕は八月の初めの方から祖父母の家に帰っているのである。
早い時機に帰ったとしてもいつもとやる事は大して変わらないんだろうけど、それでもやっぱり少しずつソワソワ、ワクワクしていった。きっとこの心の動きは祖父母の家に帰る時に無条件でこうなってしまうのだろう。だからといってまずい事は一つもないが。
ふと、車窓に映る自分の姿を見る。
友人や親から幼く見えると言われる顔はいつも通りだったが、前髪がいつもよりも長く伸びていて眉毛にかかってきていた。
滞在期間が長い事も考えると少々長すぎるかもしれない。
切ってからこちらに来た方が良かったかな。
そう思ったが、ここまで来てしまってはもう遅い。
向こうで髪が鬱陶しくなってしまうのは諦めるしかないだろう。
《次は、鷹宿。鷹宿〜》
そんな事を考えていた内にどうやら到着した様だった。確かに、いつの間にか窓の外の風景は山から住宅地へと再び変化していた。
降りようと僕は立ち上がる。同時に、向かいに座っていた同い年くらいの女性も立ち上がった。
降りる駅が同じなだけなのにも関わらず、思わず反射的にそちらに目を向けてしまった。どうやら女性も僕と同じ事をしてしまったようで、僕の視線と彼女の視線が丁度電車の中央辺りで交差した。
慌てて会釈をし、視線をそらす。
彼女も僕に会釈をしてくれ、その後スッとドアへと向かった。
僕はそんな彼女を一瞬目で追ってしまったものの直ぐに目線を外し、彼女が向かったのとは別のドアへと向かった。
少しだけだけど、気まずい。知らない人と目が合ってしまったのだから、それも当たり前か。
僕がドアに到着するや否や、ドアが煙でも出しそうな音を立てながら開いた。僕はそのドアから、若干普段よりも歩行の速度を落としながら外に出る。
彼女の居たドアの方が階段に近いので再び目が合うなんて事は無いだろうけど、念の為、だ。
結局彼女の姿を見る事なく改札を通れたので、歩行の速度を落としたのは正解だったかもしれない。
「よく来たな〜慎ちゃん」
改札から出ると、一昨年と全く変わらない姿のお婆ちゃんが訛り混じりの言葉で歓迎してくれた。その後ろでは、お爺ちゃんが背筋をピンと伸ばして車に乗って待機している。
この時が一番、実家に帰ったのだという感覚がある。
「うん、今年も電車に乗ってきたよ」
お婆ちゃんは、そうなんや、と返事をしながら僕を車の方へと誘うと、助手席に着席した。僕がいつも通り後ろの席、助手席の真後ろに座ると、お爺ちゃんはお喋りと運転を同時に始めた。
「それにしても、今年は来るのが早いなぁ」
「去年帰れなかったからさ。今年は早く来ようって思ってたんだ」
そんなこんなで、途切れ途切れの雑談をしながら十分ほど走った頃だろうか。僕は祖父母の家に到着した。
住宅街の中に建っているこの少し古い一軒家は、きっといつ見ても懐かしいと感じるだろう。
「お邪魔します」
お婆ちゃんが鍵を開けてくれたので、そう呟いてから家に入る。毎年帰っている筈のに、初日に家に入る時にはなぜかこう言ってしまう。次の日からは、ただいまと言うのに。
「はい、いらっしゃい」
車を止めてきたお爺ちゃんが、後ろからそう言ってきた。
まさか聞かれていたとは。
今、自分の顔が少し赤くなっているのが分かった。
僕は、素早くうんと返事をすると、顔が赤くなっているを悟らせない様に早足でかつては母のものだった部屋に行く。今では、ほぼほぼ僕の部屋だ。
バタンとドアを閉め、背負っていたリュックをベッドに置いた。服類しか入れていなかったとはいえ重いものは重い。肩から下ろせば肩周りがかなり楽になった。
そのままの勢いで、ベッドに座り込む。
さて、これからどうするか。
疲れを取るためにこのまま昼寝をしてもいいのだけど、いまいち眠くない。
となると、やる事といったら一つしかなかった。
僕は、母の本棚に並んでいる本の中からまだ読んだ事のない一冊をじっくりと選び、部屋から出た。
そのまま一切動きを止める事なく玄関から外へと出る。
気持ちいいくらいに晴れた青空だった。
「どこかいくんか?」
僕が外に出たのに気がついたのか、お爺ちゃんが玄関から顔を出してそう話しかけてくる。僕はそれに対して、微笑みながらこう言った。
「いつものとこ。晩御飯までには戻るから」
お爺ちゃんはそれを聞くと軽く手を振りながら、行ってらっしゃい、と言い家の中に戻っていった。
少し小走りになった僕は、本を脇に抱えながら家の裏に向かう。この家の裏には小さな原っぱと林が広がっていて、そこの木陰に白いベンチが置かれてあるのだ。
母の本棚に並んでいる膨大な数の本を、そのベンチに座ってゆっくりと読みふけることが、僕の祖父母の家での幸せな時間の一つなのだ。
今年も一昨年と何も変わらずにベンチはあった。僕はそこに座り、ワクワクとしながら持ってきた本を開いた。
僕が選んだのは、悪霊の呪いを解くために奔走するホラー小説だ。あらすじを読んで、直感的にこれを読もうと決めたのだ。
どんな内容なのか、怖く思いながらも楽しみに読み始めた。
ふと気がつけば、空が橙になっている。遠くからカラスの鳴き声でも聞こえてきそうな空模様だ。
文字から視線を外し、本を閉じる。鼻の付け根を揉んで軽く目のマッサージをしてから、僕はスッと立ち上がった。一度伸びをして背骨を鳴らしては、徒歩で家に帰る。
ゴーストをやっつける古い映画の歌を口笛で吹きながら、今読んでた本について色々と考えを巡らせて歩いていた。
この本の内容はその映画よりもおどろおどろしいのだが、それでも若干内容が似通ったものだった。
となるとオチは……
そこまで考えた時。玄関に手をかける直前。
目があった。
幽霊とではない。赤い服を着た女性とだ。それも僕と同年代くらいの。
どこかで見覚えがあるような……
ふと思い出した。
そうだ、電車で少し気まずくなった女性だ。同じ駅で降りたので別に会うことが不思議ではないのだが……
とりあえず、先ほどと同じように会釈をする。だけれど彼女は今度は会釈を返してくれず、ただ僕を見ていた。
なんなのだろうか。そう疑問に思いながらも、ホラー小説を読んでいるせいかすこし不気味に思った僕は、そそくさと家の中に入っていった。
なぜ彼女はただただじっと僕を見ていたのだろう。少々ゾッとした予想が湧いてきたので、頭を振ってその予想を振り払う。
早く食卓につこう。
「あら、慎ちゃん。また大きくなったんじゃない?」
居間に入ると、隣の家のおばさんがいた。どうやら今日は一緒にご飯を食べるらしい。
隣の家のおばさんに抱いている印象は、人が良い、というものだった。ぼくのいつもニコニコしていて、若干ふくよかな体を震わせながら楽しそうに笑う。そんな人だと思っている。
「ウチにもこの間親戚の子が来てな。丁度一年くらい前やわ。慎ちゃんと同い年やから、仲良くしたってな」
隣の家のおばさんは、微笑みながらそういった。同い年くらいの子、か。もしかしなくても、さっきの女性じゃ……
ピンポンとインターホンが鳴った。
お婆ちゃんがドアを開けに行く。
僕は、不安感、そして気まずさのようなものに支配されてていた。
その後お婆ちゃんが連れてきたのは、やはりというべきかさっきの女性だった。
「えっと、永倉 宙乃です」
そう言った彼女は、今度はしっかりと僕を見た。肩のあたりまで伸ばした髪を手で払いながら。
近くで見ると彼女の瞳は、まるで宇宙のようにキラキラ輝いていて、同時に吸い込まれるようなとても深い黒色だった。