序章 2
青臭い草木の香りと、何かが焦げたような臭いが漂ってきた。
うつ伏せに倒れていた春樹に意識が戻ると、倒れていたところの地面には草花が生えていた。
春樹は上半身を起こすと、焼け焦げていただろう服はどこにもなく、茶色くボロボロの布製の服とゴワゴワの革靴を着ていることに気がついた。
なんなんだ、と思いながら周りを見渡すと、10メートルほど先で古い家々が燃えているのが見えた。
男の怒声、女子供の悲鳴が聞こえ、燃えている木々の爆ぜる音、馬が疾走する蹄の音が響き渡った。
それは春樹には中世のヨーロッパの重装歩兵のような甲冑を装備した者共が、無抵抗な村に火をつけて、住民を斬り倒して蹂躙していく様子に見えた。
「いったい、何なんだ?」
春樹は先ほどの火災で死んだはずだと思っていた。瓦礫の重量で内臓が潰れ、その上に高音の炎に包まれていた。
それとも、とうとうストレスで自分は仕事中に頭がおかしくなってしまったのかと春樹は思った。しかし、妄想にしてはあまりに現実的であり、春樹は自分の目を疑いながら、樹木に身を隠して様子を伺っていた。
春樹の日常とは全く違う世界が目の前に広がり、春樹はただ混乱をしていた。
春樹がいたのは西暦2017年の日本だ。綺麗な水と、綺麗な空気と安全が無料で提供されている、いや税金などの対価は必要であるが、春樹の目の前に広がる光景とは全く縁のない世界に彼はいたはずなのだ。
剣が振りかざされて切り捨てられる、そんな世界にいたはずがないのだ。
重装歩兵は懐から薬剤の入っているようなガラス製の丸底フラスコを取り出し、二階建ての家屋に投げ入れると、その家屋の窓から強い光と共に爆音と火の手が上がった。手榴弾を部屋に投げ入れて制圧するようなもの、というよりは家々を燃やし尽くす為だけに投げ入れているようであった。
春樹は呆然と火の手が上がった家屋に気を取られていると、丸底フラスコを投げ入れた重装歩兵が急に燃え始め、踊り出した。燃え上がった重装歩兵を救出しようと、他の重装歩兵達が駆け出して来た。
火の上がっていない建物の陰から、村人が何かを叫びながら、重装歩兵に向かって指を向ける。すると指の先から紫色の矢が生まれた。指を振られると同時に紫色の矢は、重装歩兵たちの鎧を貫き、真っ赤な血液が飛び散った。
「おいおい、剣と魔法の世界なんてネトゲーかスカイ○ムの中だけにしてくれ」
春樹のつぶやきが終わる直前で、空気を裂くような音が走り、木に実物の矢が刺さる。
「うあああああああ!」
春樹は頭を両手で抱えて伏せた。続いて、2本、3本と空気を裂く音が響いては、矢が春樹の側を通り抜けた。
春樹は咄嗟に悲鳴をあげてしまったことに後悔した。すでに場所は知られてしまっていたのだろうが、春樹がここにいるとは知らなかったはずの人間も気がついたのだ。
「あっちにも反乱分子がいるぞ!」
仲間を殺されて血の気が立っている重装歩兵達が春樹に向かって来た。
事情を話して助けてくれるような状況にないと直感で感じた春樹は、地べたを這いずるように駆け始めた。
春樹は走るのには慣れていた。病弱な体のままだとダメだと思い、健康のために日々ジョギングをしていた。しかし、ジョギングはランニングシューズを履いて、平坦なアスファルト上でのことだ。今、春樹は根が立体的に這った森の中を、現代の靴とは全く違う、無骨な革靴で走るのだ。体力の消失よりも、足裏に走る痛みと、慣れない場所での移動に春樹は戸惑い、そして転倒した。
「くぅ……痛ってえぇ」
春樹は、そんなこと言ったってどうにもならない、と思いながらもつい言葉に出してしまった。転倒した時に手の平手を小石で傷つけ、赤い血液が滲んでいた。先ほどの重装歩兵は春樹のことを魔族と呼んでいたが、そんなことないじゃないか、と春樹は思った。
春樹が立ち上がった時には、重い重装歩兵の男達が5名、馬に乗った騎兵が2名、いかにも魔法使いのローブ、という感じのフード付きの黒いローブを着た者2名が、春樹には剣や弓を向けていた。
風を切る音が聞こえるのと春樹の左側下腹部に矢が刺さるのはほぼ同時だった。
痛みは感じなかった。それよりも体に矢が刺さり、血液が流れ出ていることを認知した春樹はショックで地面に膝がついた。
「いったい俺が何をしたってんだ……」
春樹の言葉に、重装歩兵の男達は次々と、
「お前ら反乱分子の言い分は聞かない」
「反乱分子のクズめ」
「どうした、得意の魔法攻撃はしてこないのか、ハッハッハー」
等と悪意を込めた言葉を投げつけた。剣を持った重装歩兵の一人が春樹に近づき、拳で顔面を叩きつけ春樹は後ろに倒れた。
春樹の口腔内は切れ、前歯が砕いて折れ、地面に転がった。
「おら、ジェスの分だ!」
重装歩兵は剣を春樹の左腕に振り下ろすと、春樹の左腕の上腕が断ち切られ、帯びただしい出血を始めた。
春樹は声にならない悲鳴を出すと、春樹の左腕を出すと切り落とした重装歩兵は楽しそうに笑みを浮かべて、次に春樹の右足を踏んで抑え、右膝に剣の先を置いた。
「これはテリーの分だ!」
重装歩兵は春樹の右膝に体重を込めて剣を沈めて、グリグリと動かし、そして切断に至った。
春樹は痛みで失禁をし、その様子を周りの重装歩兵達が嘲笑った。
―――なんでこんなことにならなければならない。
―――誰だってこんなことされていい理由がない。
春樹は間も無く出血で命を落とす。しかし、春樹は命乞いをしなかった。理由は、彼の胸には、ただ、ただ、純粋な怒りで満ちていた。
―――許さない、こいつらの命、奪い取ってやる!
春樹の視界の右下に『0』という数字が浮かんだ。しかし、彼はそのことには気がつかなかった。彼は怒りだけで右手を、自身の右足を切り落とした重装歩兵に向ける。
もちろん、手は届かない、何もできない。それに気がついた重装歩兵はさらにヘラヘラと笑い出して、右手も切り落とそうと剣を振るった。
しかし、重装歩兵は右手を切り落とせなかったし、そもそも、剣を振るうこともできなかった。彼は、剣を振り上げた瞬間、事が切れたのだ。
「おいおい、どうしたんだ、もう眠たくなったのか」
と他の重装歩兵が倒れた仲間を笑いながら近づこうとしたところ、彼も倒れた。マリオネットの糸が切られた様に倒れた。
異変に気がついた魔法使い風の男が春樹を見ると、春樹の左腕と右足が新たに生えていた。異形の形ではなく、元の形のままでだ。その証拠に切られた腕と足がすぐそばに転がっていた。
「とどめを刺せ! そいつも魔法使いだ!」
魔法使い風の男がそう叫ぶと彼もまた力なく地面にひれ伏した。
他の重装歩兵達の視線が倒れた魔法使い風の男の方へ向いた。その瞬間、春樹は、先ほど体の四肢が切られたことなど、まるで無かったかの様に立ち上がり、右下腹部に刺さった矢を抜き、そして、右手を重装歩兵達の方へ向けた。
すると、また次々と重装歩兵たちが倒れ、馬に乗った騎兵は馬と仲良く一緒に倒れた。
最後の魔法使いは、次々と倒れた彼らから赤い筋が伸びて、春樹の体の中に消えていったのが見えた。
とんでもない化け物に喧嘩を売っちまった、と彼は後悔するも、彼に命乞いの時間を与えぬまま彼からも赤い筋が伸びて、春樹の体に消えた。
春樹は9体と2頭の死体を前にして、息を切らしていた。
彼らは息をしていなかった。
春樹は恐る恐る脈を見たが、脈も止まっていた。彼らは確実に死んでいた。
落ちつけ、と春樹は自分に言い聞かせ、深呼吸する。
2回、3回、4回、と次第に回数を増やすに連れて、重装歩兵たちの死体から青白いモヤの様なものが見えた。
春樹は、そっと右手で触ろうとしたが、右手を向け、そのモヤへ意識を向けると、青白いモヤから水色の線が伸びて春樹の体へ向かって消えた。青白いモヤはそこから消えていた。
春樹は他の死体からも出ていた青白いモヤも触ろうと右手を近づけると、同様のことが起きた。
「なんなんだ、これ……」
春樹は、右手を対象に向けて『命を奪い取ろう』と思うと倒れ、そして、自分自身の体が回復のしていた。欠損していた部位すら元に戻っていた。
急に寒気とともに、背中から見られている様な感じがした。振り向くと同時に春樹の腹には紫色の矢が刺さっていた。
飛んできた方向を見ると、襲撃にあっていた村人達が20名くらいいた。
彼らの手元には紫色の塊がそれぞれ浮いていた。
「帝国の手先はみんな死ね!」
「死んでしまえ!」
「失せろ!」
―――この野郎
春樹はゆっくりと右手を彼らに向けて願った。
―――何もかも奪い取れ
村に残っていた全ての村人と兵士たちの命を奪い取り、青白いモヤを回収した。
その後、強い吐き気と頭痛で、足元がぐらつき、歩くのもやっとになった。春樹は炎の被害に遭っていない家を見つけると、汚いベットに横たわり、休憩した。
春樹は頭痛が治るにつれて、この世界が自分のいた世界と違うということに気がつき始めた。理由は中世ヨーロッパの世界のような村落と重装歩兵、魔法使いの存在、そして、民家にあった本の表紙の見たことのない文字。しかし、見たことのない文字の意味を春樹は理解おり、先ほどの殺し合いでの話し声の意味も理解できていた。
春樹は、民家の中にあった木桶に水が張っていたのを見て、顔と体についた汚れを布で拭うことにした。民家の住民は、すでに先ほどの兵士たちに殺されたか、それとも春樹に殺されたかしたはずで、もう誰の持ち物でもなかったのだから、自由に使うことにしたのだ。
春樹は木桶の水に薄汚れたボロ切れを入れようとして、水面に写った古くに見知った顔に驚いた。
春樹は28歳の日本人だったが、16歳くらいの年齢に戻っており、元より少し凛々しい顔立ちになっていた。瞳の色も焦げ茶色、髪も艶やのある黒色で短い髪型、身長は170センチメートルくらい、細身の体型であった。
そこで春樹は、今までの記憶を巡らせて、一つの決断を下す。
異世界に転生してしまったようだ、と。
春樹の視界の右下には小さく『38.7』と記載されていた。
これは恐らく、命を奪い取って自分自身に保管された数だ、と春樹は判断した。
彼が命を奪ったのは41名と7頭の馬だった。
この世界は人の命を1とし、動物の命を0.1としていた。
そして、命を奪った時、致命傷であろうと軽傷だろうと怪我をしていれば、そのまま貯め込もうとした命は消費され保管されない。
消費した時は腕と足を切り落とされたとき、矢を抜いて出血した時、紫色の矢を腹に受けた時の3回分だった。
溜め込んだ命はどうやって使うのか、これはわからなかった。
青白いモヤについては春樹の思いつくところでは、
―――魂だろうか
春樹は考えるのを一度やめて、興奮が冷めないまま無理やり眠りについた。
春樹の夢の中では死んだ兵士達と住民達、熱で溶けかかかった人形たちに襲われる夢を見続け、なかなか寝付けることができなかった。
朝になり、春樹は民家の中を探すと、地図が一枚出てきたことから、ここがサウスフローディアという村で、北に進むとフローディアという大きめの街があることがわかった。
どのくらい離れているかはわからないが、ここにいてもどうしようもないと思い、民家にあった革袋を失敬し、黒パンや干し肉を詰め込み、兵士の持っていた鉄製のナイフと小さな革袋に詰まっていた銅貨、銀貨を一袋ずつくらい、金貨3枚を死体から奪い、村を出た。