虹と呼ばれた竜
しきみ彰様主催
【ドラゴン愛企画】参加作品です。
私は竜だ。
世界で最も気高く崇高な存在だ、とは言わない。
ただ、この雄大な大地の遥か上空を気ままに飛びたいのだ。いつまでも何者にも邪魔されずに。
産まれたのがいつなのかは分からない。何年経つのかも知らないし、知る必要もない。飛べればいいだけなのだから。
私はこの世界で一番高い山の頂上に棲んでいる。
いつからだろうか、私よりかなり小さい動物がよく山を登って来る。
どうやらニンゲンと呼ばれる動物らしい。
あの小躯でよくもまあこんな辺鄙な所まで来るものだ。
私なんかは一つ二つと翼を羽ばたかせればすぐに大地に行ける。だがニンゲンは何日もかけて登り、また同じ時間を掛けて降りるのだ。
いつだか、地上にいたニンゲンを横目に塒に 帰り、起きては飛びまた塒に帰り、を十ほど繰り返した時に、前に見た地上にいたニンゲンがようやく登ってきた事があった。遅い。
だがこいつらニンゲンはあまり好きではなかった。
いや、ある時期までは好きではなかった。
何もしなければ私も怒らない。しかしニンゲンは事もあろうか私の翼の羽根をむしり、鱗をもぐのだ。
そう。私の翼には羽根が生えている。私と同じ種族の竜に今まで遭ったことはないが、珍しいそうだ。
私はニンゲンの言葉が分かる。最初は分からなかったが、こうして頂上にやってくるニンゲンを追っ払い続けていたら自然と覚えた。
「本当だ。この竜、翼に羽根が生えているぞ」
「気を付けろ。灰色は狂暴で巨大だ」
大抵このように言い、剣やら斧やら槍を構えてくる。
こんな時は
「グァッ」
と一つ吼えればニンゲンは動かなくなる。その隙に逃げてしまえば剣やらは飛んでこない。
やっかいなのは寝ている時だ。
気持ち良く寝ていると、稀に鼻を効かすのを忘れる。そんな時羽根をむしられ鱗をもがれるのだ。
痛みで起きると、
「灰色が起きた。撤退しろ」
とニンゲンは叫び、走り出す。
だが私は追わない。一つ「グァッ」と吼えるだけ。もう来るな、と言っているつもりだ。私はニンゲンの言葉は話せない。
ニンゲンは私の事を「灰色」と呼ぶ。
これもニンゲンの会話から覚えた。
確かに私の体は灰色だ。小さな畑程はあるだろう翼も、そこに生えた幾万の羽根も、ニンゲンの頭ほどある鱗も全て灰色だ。
名前はない。むしろ灰色が名前なのか。どうでもいいが。
この灰色の珍しい竜の羽根と鱗を求めてニンゲンはやって来るのだ。
煩わしい。
だが。
好きではないが、嫌いでもない。
好んで地上からこの高い山の頂上まで幾日もかけて登ってくるニンゲンが、嫌いではない。
むしろ愛しくも思う時がある。小さい体のどこにそんな情熱があるのだというのか。
不思議だ。
私はニンゲンの営みは知らない。この羽根や鱗が食い物にでも変わるのだろうか。
不思議だ。
だから私はニンゲンを食べたり殺したりはしない。吼えるだけだ。別に嫌いなわけではないのだから。
私が殺すのは、腹が減った時に食べる野生の馬や鹿だけだ。ニンゲンも牛や羊などを飼っているが、それは食べない。
大地の恵みだ。
私は排泄を地上で行う。それが馬や鹿が食べる草木になるのを知っているからだ。
そして眠くなったら頂上の塒に帰るのだ。
私はこの山が好きだ。
産まれた時からこの山にいた。
この高い山の頂上は雲よりも上にあるから、空が全部見える。どこまでも飛べる気がする。
塒の洞窟の奥に成っている果実も好きだ。
小さいがとても甘い。
いつだか、頂上まで来たニンゲンが塒の入り口で倒れていた事があった。
頂上へ来る途中に負ったのか、傷だらけだった。
物言わず剣も向けないニンゲンは初めてだったので、しばらく放っておいた。
ただ、このまま死なれては処理に困るし、ニンゲンは嫌いではない。生きて降りてもらいたかった。
だから、溜まっていた雨水を口ですくいニンゲンの顔にかけてやった。
私は舌でニンゲンの傷口を舐めた。ごろっと体が回ったが平気だろう。ニンゲンは意外に強い。私と同じならこれで傷も塞がるだろう。
ニンゲンは起きた。だがまだ体が動かないようだった。
だから渋々だが、洞窟の奥に成っている果実をニンゲンの近くに放った。数が少ないのであまりやりたくはないが。
ニンゲンはなんとか果実を食べた。傷は塞がったみたいだ。
ニンゲンは立ち上がり、私に対し頭を下げた。
あれは何だったんだろう。頭を下げるのは何を意味するのか分からないが、悪い気はしなかったので私は体を思い切り震わせた。
羽根が数枚落ちた。灰色ではなかったが、まあいい。気にしない。
ニンゲンは私をずっと見ていたが、思い出したように羽根を拾い、去った。
その時だけは、ニンゲンが少しだけ好きになっていた。
今思えばあのニンゲンを助けなければ良かったと思う。
あのニンゲンが去ってから、山を登ってくる数が多くなった。
今までは数人だったのが、もっと数が増え登ってくるようになった。だから寝ていてもすぐに分かる。
私は吼えた。吼え続けた。
殺すのは簡単だが、殺したくはなかった。
だからいつも吼えた。
時には剣やら斧やら槍以外に、弓矢で鱗を貫かれた。
それでも私は吼えた。吼え続けた。
殺したくはなかったから。
一際細い老人が出した青い炎で羽根を焼かれた事もあった。
それでもなお、私は吼えた。吼え続けた。
そしていつからか飛ばなくなった。
飛べなくなっていた。
翼はある。羽根もまだまだ残っている。
あの果実を取られたくなかったから。あの甘くて小さい果実。
あの果実は甘くて美味いが、数が少ない。
ニンゲンもあの果実を取りに来るようになっていた。
だから吼えた。飛ばなかった。
あの果実を取られたくなかったから。
もう飛べない。そう思っていた。
私は山の頂上から、雲がない日はずっと地上を見ていた。
空にはもう用はない。
だからずっと地上を見ていた。
私は目がいい。たまに遊びにくる鷲もそう言ってた。
ニンゲンが今日も戦っている。
かつて私を傷付けた剣やら斧やら槍やら弓矢やら炎やらで。
同じ種族だろう?何故殺す?
不思議だ。
種の繁栄は太古からの掟だろう?
不思議だ。
それでもニンゲンは嫌いではない。
私と違って儚いから。寿命が短いのを知っているから。
私はずっと空から地上を見ていた。
久しくニンゲンが来なくなったある日、一人のニンゲンが塒にやって来た。
「グアッ」
久しぶりだが、声は出た。
帰れ。殺したくはない。
ニンゲンは帰らなかった。
「グアッ!グアッ!」
帰れ。お前も羽根と鱗と果実を取りに来たのだろう。
「グアッ」
ニンゲンは帰らなかった。幾日も塒に居続けた。
「クァ」
吼えるのが馬鹿らしくなった。まだ帰らない。
私が吼えるのを止めた時、ニンゲンは初めて喋った。
「お前が灰色か。確かに狂暴だ。しかし灰色よ。お前の瞳はなぜ悲しそうなのだ」
私はニンゲンの言葉が分かる。だが話せない。
「クァ」
帰れ。何用だ。帰れ。私は話せないのだ。
「私は人間の争いを止めるためここに来た。灰色よ。私の言葉が分かるか?」
私はニンゲンの言葉が分かる。だが話せない。
だが話したい。このニンゲンと話したい。
「クァ!クァ!グアッ!」
吼えてしまう。違う。話したい。私はこのニンゲンと話したい。
話さなければいけない。
「グアッ!グアッ!グアッ!」
私は竜だ。ニンゲンではない。ニンゲンの言葉が分かる。
どうすればよいのだ、ニンゲンよ。
「灰色よ。お前の言葉、確かに聞いた。私は人間の争いを止めに来たのだ」
本当か?ニンゲンよ。本当なのか?本当に聞こえたのか?
「グアッ!グアッ!」
私は歓喜した。これほど嬉しい事は今まで一度もなかった。
「ああ。お前のその羽根と果実が欲しいのだ。それがあれば争いが無くなる」
「グアッ!グアッ!」
本当かニンゲンよ。本当にニンゲン同士が殺さなくてよくなるのか?
私はニンゲンが嫌いではない。
「ああ、本当だ。だからお前の虹色の羽根と果実をもらいたい」
虹色?
虹色とは?
私の羽根は灰色だ。虹とは雨上がりの空に浮かぶあの美しい半円だろう?
「ああ、灰色よ。お前は今、虹色になっている。その羽根が欲しい」
私はニンゲンの言葉が分かる。私が灰色と呼ばれているのも知っている。
このニンゲンは嘘を言っている。
「グアッ!」
帰れ。早く地上に帰れ。
嘘を言うニンゲンはいなくなれ。
「灰色よ。自分の羽根を見るがよい。その鷲よりも遠くを見渡せる目で」
私は驚いた。
ここはあの空か?
いつか飛び回っていたあの途方もなく広い大空か?
美しいと思った雨上がりの大空か?
あの虹が目の前に広がっている。あの美しい虹が。
私の羽根がかつて自由に飛んでいたあの空の虹になっていた。
「大昔、ある男がここにやって来たそうだ。その男に灰色よ。お前は羽根と果実をやった」
ああ。忘れもしない。傷だらけで倒れていたニンゲンだ。
私が水をやり、傷を舐め、果実をやったニンゲンだ。
「その男が持っていた羽根は虹色だった。今のお前と同じ色だ」
あの時の事は忘れもしない。
今までのニンゲンと違い、私から何も取ろうとしなかった。
頭を下げたニンゲンを、少しだけ好きになっていたから。
「あの男は英雄だった。あの羽根を持ち帰ると、昨日まで争っていた国が手を取り仲良くなった」
私はこのニンゲンが好きになった。ニンゲン全員ではない。この男を好きになった。
この男はニンゲン同士で殺し合うのを止めると言った。
あの争いを見なくてもよいのか?
「だから灰色よ。いや、虹よ。その羽根と果実をくれ。そうすればお前はまた虹の広がるあの大空を雄々しく飛べる。約束しよう」
本当か。男よ。本当なのか。
私はまたいつかの日みたいに、また自由に飛べるのか。
飛んでもよいのか。ニンゲンよ。
「クァ」
「ああ。本当だ。私が約束しよう。争いが終わったら、この山に人間を来させない。お前は自由だ」
私は思い切り体を震わせた。前よりも大きく、長く震わせた。
何百枚もの虹色の羽根が洞窟に舞った。あの日見た美しい虹が掛かったみたいに。
私は洞窟を出た。
あの男は美しい虹色の羽根と果実を持ち、洞窟から出てきた。
男よ。本当か。本当にまた飛べる日が来るのだな?
「クァ」
「ああ。虹よ。本当だとも。争いを止め、お前を自由にする。この山はお前だけのものだ。約束する」
男は山を降りて行った。
それから幾日も私は地上を見た。
幾日も幾日も地上を見ていた。
ずっと遠くの大地を、地上を、緑溢れるニンゲンの住む世界を。
ニンゲンが……、
ニンゲンが笑っていた。
ニンゲンが踊っていた。
あの男は約束を守った。あのニンゲンは私を自由にしてくれたのだ。
あの日から私は灰色でない。
私は、あの自由に飛び回っていた大空から見ていた雨上がりの虹と同じ色をしているのだ。
あの日から私は灰色でない。
私は竜だ。
ニンゲンの言葉が分かる。
そして、ニンゲンと少しだけ話せる。
私はニンゲンが好きだ。