過去の記憶か幻覚か
今日も私は疲れていた。残業と言う、給料もロクに出ない無駄な仕事をやらされているからだと思う。肉体的にはもちろん、精神も痛み、動くたびにギシギシと音を立てるため、動くのも億劫だった。
仕事場の友人達とも最近上手くいかない。友達が飲みに誘ってくれても、残業があるからと言って断り、その度に私の数人の友人達は口を揃えてこう呟く、「付き合い悪い」と。
家に帰って電気をつけても、誰も居ない。「ただいま」と言った所で、静寂に声が溶かされてしまう。ペットの一匹でも買えば大分楽になるのだけれど、生憎そのような金など無い。
帰り道、ただ目の前にある闇に視線を向けて、その先にある『何か』を見つけようとする。当然、見えるのは想像しているおぞましいものでは無く、犬や猫、襲われたらしき人など、ごく当たり前の、どこにでも転がっているような影だった。心のどこかで、闇に飲み込まれてしまいたいという欲求があるのかもしれない。
家に帰るのがとても嫌だった。帰れば、それだけで朝を迎えてしまうような気がしてならなかった。帰るべき場所なのに、そこに帰るのがとても恐ろしく感じた。そんな駄々が頭の中で暴れ回り、私はまた家への道から遠ざかった。
こんな私が癒される場所があるとすれば、電車の中だ。あのゆりかごの中で揺らされているような感覚だけが、私の心の支えだった。
行く当てがある訳ではない。それでも、私は駅の方へと足を進ませるのをやめなかった。
駅にたどり着くと、電車を待っているらしき数名がベンチに座って待っているのが見えた。時間表を見ると、ものの数分でそれはやって来るらしく、財布の中身を確認すると、ベンチに座り込んだ。こうやって待っている間に、私はいつも時計を眺める。カチ、カチ。その古びた音は、懐古に浸らせてくれる。私がまだ幸せだった頃の記憶を呼び覚ましてくれる。このまま眠ってしまえば幸せなのだが、そうしていると、私の隣に座り込んでくる人物がいた。
「お姉さん、一人?」
顔を上げると、三つ編みの、私と同年代らしい女性が私の顔を覗き込んでいた。
見知らぬ人とは口を合わせるのは得意ではない。それが故に、私はこのように話しかけられても何も言葉を発さなかった。
相手もそれを分かっているはずだ。私の顔を見れば、誰だって「病んでいる人」と察し、それ以上は話しかけてこようとはしない。
なのに。
「お姉さん、何かあったの? とても疲れ切った顔をしているけど」
そう呟いて、彼女は私の手を握って来る。あまりに暖かく、私の手は溶けてしまいそうだった。
「お姉さん、とても冷たいのね。何かあったんでしょう? その様な顔をしていればバレバレよ」
私の手を握るその手を、頬へと近づけて行く。頬に私の手が当たると、女性は甘えた様に頬にこすり付け、痩せ細った私の手を夢中で弄んでいた。
私は驚いて手を引っ込めようとも思ったが、そんな気力も湧かず、ただ弄ばれる自らの手を眺めていた。
しばらくそうしていると、女性は私の指にキスをして、それから私の手を解放した。
「ふふ。女性にこんな事をされているのに、表情を変えないのね」
くすくすと笑いながら、口元に手を添えるその仕草に少し見惚れていると、右側からかすかな光が見え、女性もそちらへと顔を向けた。
少しずつ光を発しているシルエットが明白になって来ると、私は立ち上がり、黄線の前まで足を進ませる。
――あっという間に電車は停車した。一つの車両しかない小さなフォルムについている二つの扉が開くと、私は後ろに振り向いた。
だが、先程までいたはずの女性の姿は無く、ただ、人のいない駅が視界に広がった。
とても、懐かしい感覚だった。人に手を触られるのも、指を舐められるのも。
扉が閉じてしまう前に、私は電車に乗り込むと、駅を眺めて――柱の陰から、女性がこちらに微笑んでいるのが見え、それを最後に電車は発車した。
このお話は、何年か前に書いたまま、ずっとしまいこんでいたものです。ふと思い立って、投稿することに決めました。せっかく書いたものなのに、誰にも見せないままなのはもったいないと思ったからです。
もし楽しんでいただけたなら、幸いです。