5. 晴の憂鬱
その後も千種と勇との小競り合いは続いた。
最初の騒動で勇も意固地になったのか、休み時間、昼休みなど、空いた時間にはいつも以上の頻度で晴に接触してきた。しかしその度に追い返そうとする千種と衝突しては、晴になだめられるという事態を繰り返した。時折、螢一が、諍いを止めるためなのか、単に下心的な興味に駆られてなのかは分からないが、2人の間に割って入ることはあっても、先刻同様に無残な姿を晒すという結果に終わるだけだった。
しかし、晴にとって針の山を裸足で歩いているような辛い時間も、ついには終りを迎える時が来た。その時間を告げる、祝福の鐘の音が学校中に響き渡ると、晴は大きな安堵の溜息をついた。
「お、終わった…」
晴は思わず机に突っ伏しそうになったが、こらえてすぐに荷物を鞄に詰め出す。千種がやってきてからというもの、晴にとって安息の地と言えるのは、最早家しかなく、すぐにも学校から離れて逃げ込みたかった。
「さあ、チグサさん、帰ろう!」
―勇は部活に行くから、これ以上トラブルが起きることもない…はず…
「承知した。あの”おとこおんな”に絡まれる前に参りましょう」
晴は、背後か感じるおどろおどろしい念を、敢えて無視しながら素早く席を立つ。しかし、それを上回るスピードで帰り支度を終えた勇が、覚えてろよと言わんばかりに千種をひと睨みして、教室を出て行く姿が見えた。千種も露骨に敵意をむき出しにした表情で、その背中を睨みつけた。
―ああ…明日は一体どうなるんだ…
先程までは今日一日が終わったことに安心していた晴だったが、今ではもう明日のことで、不安で一杯になってしまっていた。
「…くよくよしてても仕方ない、今日は帰ろう…」
千種に声をかけて帰ろうとした瞬間、
「まさか、そのまま帰れるなんて、思ってないわよね…?」
教室入り口近く、ドアのところには、葵が待ち構えていた。
「…うそぉ…」
「ん?若…じゃなくて、ハルさん?何だか呼ばれているみたいでござるが…」
かくして、晴の辛い一日は延長戦へと突入した。
先日と同じように静かな生徒会室には、しかし先日とは違って晴と葵の他に千種の姿があった。
あのとき葵に呼び止められた晴は、朝の葵の剣幕を思い出して一瞬生きた心地がしなかったが、実はその葵は真名から説明を受けていて、既に千種が従姉妹であるということを知っていたのだった。今回呼び止められたのは、いつもの仕事の為だと知った晴は胸を撫で下ろしたが、学校から離れられないことには大きな不安を感じていた。しかし、まさか自分の仕事が滞っているのに呼び出しに応じない訳にもいかず、案の定着いて行くと聞かなかった千種を渋々引き連れて、生徒会室へとやって来たのだった。
葵はまず千種に椅子を勧め、晴にはそこら辺にでも座っておけと言わんばかりに、手をパタパタと振って促す。晴としては、勝手知ったる生徒会室である。葵に言われるが早いか、すでに自分の指定席に腰掛けていた。どうやら、葵の方は千種に興味を持った様子で、全員が腰掛けると、早速自己紹介をしようと持ちかけてきた。
「さてと…じゃあまずは私から。白石葵です。生徒会の書記長をしてます。ハルとは中学の頃からの…ま、腐れ縁てところかしら」
葵は胸を張ってハッキリとした口調で話す。その物怖じしない堂々とした態度を、晴は羨ましそうに眺めていた。
―アオイはすごいなぁ…
晴には、初対面の人間への自己紹介という行為は、かなりハードルの高いもののように思えた。そもそも、自分をどう特徴づけて他人に説明すれば良いのかピンと来ないのだ。
―アオイみたいに肩書も無ければ、何か得意なことがあるわけでもないし…
少し考え込んでいた晴だが、葵の自己紹介が終わって、千種のが始まるとすぐにそちらに意識が向く。もちろん、好ましくない発言があれば即座にフォローするためだ。
一言一句、教室で喋った内容と全く同じ自己紹介を聞きながらも、晴は内心気が気ではなかった。千種は晴とその親しい女子との接触を絶とうとしているように思えたからだ。それは千種自らが言うところの、千種の帯びた使命から考えると、納得の行く話ではあった。”女難”と言っても、悪い女に引っかかって身を滅ぼすのか、男女のいざこざから刃傷沙汰に巻き込まれるのか、その具体的な内容はまったく分かっていない。しかし、その言葉の意味するところからすると、それをもたらすであろう女性との接触を極力避けておくというのは、全く理に適っている。
今回、葵に対しても勇のように接する可能性は高いと、晴は判断したのだった。
―うぅ、何だか胃が痛い…お願いだから、即手打ちとかそういうのはやめて…
しかし、以外にも千種の物腰は柔らかだった。
「…ということで、よろしくお頼み申す」
「あれっ!?」
晴が眉間に皺を寄せている間に、気付けば千種の自己紹介は終わっていた。そのあまりのあっけなさに、思わず変な声を上げてしまった。
「何よ、ハル。いきなり大きな声を出さないで」
「あ、ごめん…」
―??…普通だ…
「でも、話に聞いてたとおりね。言葉遣いがそのまま時代劇じゃない。でも、それで日本語を覚えられるなんて、すごいね」
「ハッハッハ、恐縮でござる」
千種の言葉遣いを除けば、至って普通の2人の会話を聞きながら、晴は違和感を覚えた。
―ユウの時と全然違う…何でなんだ?
晴は、目の前の女子2人の会話を呆然と聞きながら、この不可解な事態に考えを巡らせる。葵は勇ほど攻撃的ではないにしても(というか、勇も初対面の相手に対して攻撃的に接することはしていないはずだが)、教室から生徒会室までの晴と葵とのやり取りを見ていれば、それなりに親しい間柄だということは分かるはずだ。
「さあて、雑談はこれくらいにして…ハル!あんたは昨日の続きよ。これぐらいなら一人で出来るでしょ」
ぼうっとしていたところに、突然葵から書類の束を手渡される。昨日入力していた書類の残りのようだったが、思いがけず、その量が少なくなっている事に気付いた。
「うわっ、…あれ、何だか少し減ってない?」
「貸しよ、貸し。楽しみにしてるわ、返してくれるのを」
葵はフフッ笑うと、書棚の中からファイルを取り出しながら、
「チグサさん、ゆっくりしてってね。といって、暇を潰せるものはないけど…」
と千種に声を掛けて、自分の席でその中身を確認し出す。
晴は、千種に一言断りをいれて、受け取った書類の内容をこの前と同じように打ち込み出す。千種は少し所在無さげにしていたが、すぐに晴の作業に興味を持ったのか、晴の腰掛ける椅子の後ろ辺りから、はー、とかへー、とか感心の声を上げながら見入っていた。
「…ハルさん、それは何をしているのでござる?」
興味を抑えきれなくなった千種が、晴に尋ねる。晴が座る椅子の後ろに立って、その肩越しにモニタに顔を近づける。必然的に、千種の顔が晴の顔の真横に来る。
「うわぁっ、近い近い!」
吐息が掛かる距離まで千種の顔が近づいて来た事に驚いた晴は、顔を赤くしながら椅子を滑らせて、距離を取った。
「ちょっとー、神聖な生徒会室で、イチャイチャは禁止よー」
葵は書類に目を落としたまま、2人をからかった。
「そ、そういうんじゃなくて…」
しかしそんな晴とは裏腹に、千種はパソコンの画面を興味深そうに覗いていた。
「ハルさん、なかなか面白いので、このまま見学させて貰ってよろしいでしょうか?」
「…何が面白いのか分からないけど、別に良いよ」
ー見てる分には大人しくしてるかな…
そう考えた晴は、千種にどうぞと椅子を勧めて(しかし作業の支障にならないように少し距離を取って)、作業を再開した。千種は晴の背中越しに、パソコンの画面を静かにじっと見つめている。どうやら晴の目論見は当たったようだった。
―でも、どうしてユウとアオイとじゃ、こうも対応に差があるんだろう…
目下の問題が落ち着くと、晴の頭には先ほどの疑念が再び浮かんでくる。晴は書類の打ち込み作業を続けながら、昨日からの千種とのやり取りを思い返していた。
―千種さんは、女難から僕を守るって言ってた
カタカタ―
―そうなると、女性であれば誰であれ…場合によっては親類ですら、僕の将来を脅かす災難の一つに成り得るってことだよね…
カタカタ―
―だとすると、母さんにも敵対的じゃなかったのは…
カタカタ―
―…うーん、これは聞いてみが方が早い…か?
カタカタ―
「ハル…ん」
―答えてくれるかどうか…
カタカタ―
「若様…若!」
「はいィッ!?」
千種の大声に驚いた晴は、パソコン机の柱に強かに膝を打ち付けた。
「アイタタタタ…」
「わ…ハルさん、なんだか文字が意味不明でござるが…」
千種の言う通り、パソコンの画面には、明らかに書類とは異なる内容が打ち込まれていた。どうやら晴は考え事と作業とを同時に出来る器用なタイプではなかったらしい。
「ちょっと、大丈夫?……机」
「うん、大丈夫…ってそっち?…」
葵は、膝をさすりながらうずくまる晴を一瞥すると、
―ワカ…ワカ……和歌?なんでいきなり和歌なのかしら…
などと見当違いな考察をしながら、それでもすぐに手元の書類に視線を戻し、スピードを落とさずに読み進めていく。その姿は、さながら部下の報告を聞きつつ資料に目を通す、やり手の管理職のようだ。
―考えてても仕方ない、とりあえず仕事を片付けよう…
晴は眼前の書類を前に、一人腕をぶした。
「いやぁ、中々面白いものでござるな!」
「…ホント?楽しんでもらえたようで良かったよ」
満足気な笑みを浮かべる千種と、書類と格闘して消耗しきった顔の晴が生徒会室から出てきたのは、作業を初めてから1時間程度経過したころだった。
集中してからの晴は、実にスムーズに仕事を処理していった。葵から「いつもそうなら良いのに」と皮肉を言われながらも、傍らで作業を見ていた千種がいつ飽きて何をし始めるかわからない状況では、少しでも早く片付けるために集中せざるを得なかったのだ。
「アオイ殿は良かったのでござるか?」
よく軋む旧校舎の廊下を歩きながら、2人は通用口のある新校舎へと向かう。
「あぁ、アオイはまだやることがあるんだって」
「お忙しい方なのでござるな」
晴は、そうだね、と頷きながら、今日に限らずこれまでも、葵の勤勉さに何度となく助けられてきた事を考えると、頭が下がる思いだった。葵が今日居残りしたのも、晴だけでは捌き切れない仕事を処理しているであろうことは、先ほどちらりと見た机上の書類の山からも、容易に想像できた。今日は特に、千種がいたこともあったのだろう。
「…ほんとにそうだね…」
そんな葵へ畏敬の念を抱くのと同時に、それに及ばない自身に対する情けなさが突如として晴の心を曇らせ、先ほどまでの仕事をやりきった清々しい気持ちをすっかり吹き飛ばしてしまった。晴は、無理に笑みを浮かべながら言った。
「アオイは僕と違って、仕事も、勉強もできるから…」
「何の、若様もしっかりとお勤めを果たされたではありませんか」
あんなの大した仕事じゃないよ、と俯きながら歩く晴の言葉を遮るように、千種は言った。
「仕事に大したも何もありませぬ。その難易、責任の大小が異なるのは致し方ないこととして、内容に大小も、優劣も、貴賤もござらん。どんな仕事であっても、与えられた勤めを全うするということは、大事なことでござる」
千種は更に続けた。
「今日の若様の仕事は、葵殿のため、引いてはこのガッコウのために、必要なものだったのでござろう。その一つを、大事も無く勤め上げられたのですから、堂々と胸を張っておれば良いのです」
そう言い終えた千種は、隣を歩く晴に、ニッと笑いかける。
千種の、その可愛らしい顔付きには似合わない、白い歯が見えるほどの豪快な笑顔を見て、晴は一瞬息を飲んだ。
「…っ」
すぐに我に返った晴は、思いがけない千種の言葉とその無邪気な笑顔に一層動揺して、千種から顔を逸らした。しかし、千種はふいっと顔をまた前に向けると、そんな晴に構わず廊下をずんずん歩いていく。その姿を見ながら、晴はついさっきの自分の軽率な発言を悔いた。
―…ダメだな、僕は…
晴は、時折顔を覗かせては苦しめるそのものの正体を、まだはっきりと把握できずにいた。発作のように、突如として自分でもコントロールできないほどの劣等感が心を支配する。今回の件でも、晴としては、葵が自分より優れているということは前々から分かっていたことなのに、それでも突然気分が落ち込んでしまう。当人である晴ですら、今の時点では、ただ自分に対する自信をあまり持てていないことが、その一因だろうという程度のことを、理解しているに過ぎなかった。
―…でも…
しかし、千種の先ほどの言葉は、そんな晴の心を覆った厚い雲を少しだけ晴らした。千種の普段の言動からして、それが社交辞令から出たものでないことは晴にもすぐに理解できたし、何より会ってそう間もない千種から認められたこと自体が、純粋に嬉しかった。
「…チグサさん…ありがと」
晴は、俯きがちに、しかし今度は顔を少し赤くして、恥ずかしそうに小さな声で呟いた。しかし、ふと隣を見ると、その言葉を伝えるべき相手の姿はそこにはなかった。進んでいったであろう前方にもその姿はない。呆気に取られた晴の耳に、どこからともなくその声が聞こえてきた。
「若ー、どこから戻れば良いのですかー?」
「なんで、道分かんないのに先に行くの!?」
晴は駆け足で千種の声のした方へ向かう。その足取りは、先ほどと比べると幾分か軽くなっていた。