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1. 晴れ、ところによりにわか雨

 みーんみんみんみんみーん。


 輝く太陽、紺碧の空、そこに浮かぶ入道雲。

 軒先の風鈴、蚊取り線香、扇風機。

 流し素麺に西瓜、アイスクリーム、バーベキュー。

 お祭りに浴衣、白い砂浜に水着の女の子―。


 夏休み―。

 多くの生徒、学生諸氏にとって、まさに至福とも言える時間―。


 だが、それも永久に続くわけではない。


 街中を歩く制服たちの冴えない表情が、その時間が終わって間もないことを物語っていた。しかし、そんなことはお構いなしに、登校時間にも関わらず空に燦然と輝く太陽が容赦なく肌を焼き、それに呼応した蝉たちの大合唱が耳をつんざく。


 「はぁ…、なんで夏休みってあっという間におわるんだろう…」


 全国で、一体何人が同じようなため息を付いただろうか。

 夏休みが終わったことへの人並みの寂しさを口にしたのは、県立八千曲高校2年、熊川 晴<クマガワ ハル>だ。中肉中背で、やや目尻が垂れ下がっている事を除けば至って標準的な顔立ちをした、一般的な男子高校生だ。

 その晴が、学校名物の"無言坂"を息を弾ませながら登っていく。

 校門まで続くその坂は、そのあまりの傾斜に言葉少なになるということで、代々学生たちの間で語り継がれている呼び名だ。そして、その呼び名の由来通り、周りの学生たちも皆息を切らせながら黙々と歩いていた。


 「よう!ハル!」


 そんな坂のことなど関係ないかのように溌剌とした声が、晴の背後から聞こえた。友人の一人、結城 勇<ユウキ ユウ>だ。


 「あ、ユウ、おはよう」


 「なんだよ、朝っぱらから疲れた顔しやがって」


 「この坂を平気な顔で登れるのは、ユウとか運動部の子くらいでしょ」


 確かに、勇の体は無駄なくしっかりと絞られていて、肌はすっかり小麦色に焼け上がっている。短めに切り揃えた髪といい、全身から体育会系の爽やかさが溢れていた。


 「なら、うちの道場で鍛えてやろうか?体も丈夫になるし、こんな坂でヒィヒィ死にそうになることもなくなるぜ」


 「…多分、体が丈夫になる前に死にそうになるだろうから、遠慮しとくよ」


 「ちぇっ、連れねぇなぁ」


 そんな他愛の無い会話をしながら無言坂を登っていくと、10分程度で八千曲高校の正門に到着した。


 実際、無言坂を平気な顔で登る勇は、空手の有段者だった。 

 勇の家では空手の道場を営んでおり、勇自身も師範である祖父に幼い頃から鍛えられ、今では県内有数の実力者として名を知られる程だ。

 家も近く幼い頃から行動を共にしてきた晴にとって、ガサツで負けん気が強いが、明るく単純明快な性格の勇は、時に頼れる兄のようでもあり、時に世話のやける弟のようでもあった。しかし、厳密にはこの表現は正しくない。勇は―


 「げ、またかよ・・・」


 下駄箱の扉を開けた勇が溜息を漏らす。晴が中を覗き込むと、いかにも女の子からのラブレターと思しき可愛らしい封筒が何通か、上履きの上に重ねられているのが見えた。


 「お、相変わらずモテモテだね。朝からラブレター貰うなんて」


 「よせやい、女が女にラブレター貰うなんて、ただの笑い話にしかなんねーよ」


 勇は女の子だった。


 幼い頃から空手を叩きこまれた勇は、すっかり世間一般の女子とは一線を画す存在になってしまっていた。特に言葉遣いは致命的で、普通の男子と同程度、ともすれば男子よりも粗い言葉遣いをする時もあるほどだった。今でこそ男子が声変わりした為聞き違えることもないが、小学生の頃はその風貌と相まって、傍から見ると男の子とまったく違いが分からない始末だった。

 しかし、男勝りだが人情に厚く明るい性格、運動神経の良さ(あと豊満な胸)などもあって、高校の人気者の一人でもあった。さらに言えば、一部女子の間では熱狂的な人気を誇っていて、八千曲高校女子裏番付、”抱かれたい女子”のNo.1に長らく君臨していた。


 「いいなぁ、ラブレターなんて貰ったこと一度もないよ」


 晴は下駄箱から上履きを取り出しながら、羨ましそうに言う。その言葉に勇は少し眉をひそめたが、手早く手紙を鞄に入れると、うんざりという表情で応えた。


 「うーん、こういうのは苦手なんだよなぁ…なんだか回りくどいっていうか…不意打ちのようでさー」


 上履きを履いた二人は、いつもの様に教室への廊下をすたすたと歩き出す。


 「俺なら…そうだな、正々堂々と校舎裏に呼び出して…」


 なんだか、”ちょっとツラ貸せ”って言われてる様に聞こえるな…、と思いながらも、もちろん晴は口にはしなかった。勇の顔を見ると、割に真面目に答えているように見えたからだ。


 「あ、ハル、お前今ケンカの呼び出しみたいだと思っただろ…」

 

 「い、いや…そんなことは…」


 そんな晴の心情を、さすがに長い付き合いの勇はあっさりと見透かした。晴はドキリとしながらも、そんなことないよと苦笑いして見せたが、その釈明は通じなかった。


 「へっ、どうせ俺には校舎裏で愛の告白なんて、似合わねーよーだ」


 勇は、晴に向かってべぇと舌を突き出すと、ひらりと身を翻して、2階へと続く階段を1人先に駆け上がっていく。体のバネを効かせて飛び跳ねるその姿は、幼いころに遊んだスーパーボールを彷彿とさせた。


 「…あちゃー…」


 ― 後で謝っておこう…


 1人残された晴は、勇の後を追って1段ずつ階段を登った。



 2-1の教室は、いつものように朝の教室特有の騒がしさで包まれている。晴はクラスメート達と朝の挨拶を交わしながら窓際の自分の席に向かうと、主人である晴を差し置いて腰を下ろしている、不埒者の姿があった。


 「よう、ハル」


 「おはよう、ケイ」


 そう言って席を明け渡したのは、晴の中学からの友人、豊 螢一<ユタカ ケイイチ>だ。仲間内では"ケイ"と呼ばれている。整った顔立ちに加え、ひょうきんな性格で事情通でもある螢一は、勇と並んで学校の人気者だ。ただ、一つだけある問題を抱えていた。


 「いやー、相変わらず、勇はユッサユッサと良く揺らしてるな」

 

 「…朝の挨拶の次に来る言葉がそれかな?」


 鼻の下を伸ばす螢一を見て、晴は呆れ顔で応える。

 螢一の唯一の問題、それは、平均的な一般男子高校生よりもスケベという点だった(平均的な一般男子高校生も大概スケベだが) 。いや、正確にはオープンスケベと言うべきか。”男はすべからくスケベ”を標榜しているだけはあり、TPOを無視したその言動は広く男子から尊崇の念を集めているが、言うまでもなく女子からの評判は落としている。しかしそれでも女子からも一定の人気があるのは、螢一のルックスの良さが関係しているのだろう。

 螢一に言われて、晴は同じ列の最後尾にある勇の席をちらりと見る。勇は一人ぶすっとした表情で、頬杖をついて窓の外を見ている。


 「あー…朝ちょっとね…」


 「なんだ、また夫婦喧嘩か」


 螢一がふっと笑いながら言い放つ。


 「まあ、お前たちの場合、ユウが亭主でお前が奥さんてとこだけどな」


 螢一は何かにつけて、晴と勇の関係を面白半分にからかう。晴は、螢一の飄々とした態度や物言いにいつも言いくるめられてしまい、それをむず痒く感じながらも、友人との些細なやり取りとして純粋に楽しんでいた。


 「…そう、なら、僕は良い主夫になれるかな?」


 ただ否定するのでは面白くない。晴はニヤリとしながら螢一に尋ねた。


 「おお、ハルならなれるさ。俺が嫁に貰いたいくらいだよ」


 「謹んで辞退します」


 「何だよ、頑張って養うからさあ」


 今回も会話の主導権は螢一にあるようだった。


 ふと教室の時計を見た螢一が、そろそろ時間かと席を立ち、仰々しく晴に座るように促す。晴もそれに応えて、苦しゅうない、とばかりに席についた。螢一は自分の席へ戻ろうとした去り際に、勇の席をちらりと見て言った。

 

 「あまり引きずらないうちに仲直りしとくこった。ま、言うまでもないだろうけど」


 「ああ…うん、分かってるよ。ありがとう」


 それを聞いた螢一は、返事代わりに手を振りながら自分の席へ戻っていった。


 ―…それにしても―


 晴は、教室に入った時から感じているじっとりとした気配に振り返る。もちろん、その気配を発しているのは勇である。目が合うと、途端にプイと目を逸らされてしまった。

 普段はさばさばした性格の勇だが、時折拗ねてしまうと長引くことがある。螢一もそれを知っていて、先程のアドバイスをしてくれたのだろう。


 後でちゃんと謝っておこう…


 そこに予鈴が鳴り響く。

 晴は教科書を机の上に並べながら、長く暑い一日の始まりにため息混じりに頬杖をついた。



 「はぁ…終わった…」


 最後の授業が終わり教師が退室すると同時に、晴は固まった体を伸ばしながら、あくびを噛み殺した。

 すでに時間も4時を回っていたが、太陽は真昼のそれと殆ど変わらないかの様に、濃い青空に高々と輝いている。周りの生徒達も、今日一日の苦行を乗り切った余韻に浸りながら、そそくさと帰宅の途につく者、そのまま教室に残って話に花を咲かせている者、部活へ行く者など、放課後の使い道は様々である。


 晴の目が、ふと教室の時計に止まる。


 「あ…今日はあの日か。早く行かなきゃ」


 予定を思い出した晴は手早く荷物をまとめると、足早に教室を後にしようとした。


 「おーい、ハル」


 後ろから勇に呼び止められた。勇の機嫌はすっかり治っているようだったが、晴はその為に、学食Aランチのエビフライを供物として捧げていたのだった。


 「どうしたの?」


 「今日、いつものとこ行くんだろ?これをあいつに渡しといてくれよ」


 勇は鞄から小さな手提げ袋を取り出すと、晴に手渡した。


 「なにこれ?あ、いつものマンガか」


 確かに、文庫本程度の大きさの本が2冊ほど入っている様だった。


 「そうそう、こないだ借りたやつ。今日中に返してくれって言われてんだけど、今日は会えそうに無いから」


 「分かった、渡しとくよ」


 勇は、頼むな、と言い残して教室を去ろうとしたが、教室の扉に手をかけた瞬間ピタッと立ち止まって振り返った。


 「言っとくけど―」


 「分かってるよ、『中は見るな』、でしょ?」


 「そゆこと」


 手をひらひらと振りながら、今度こそ勇は教室を後にしていった。

 晴は、たまに勇からこうしたお使いを頼まれることがある。ただ、勇と”あいつ”との本の貸し借りは、晴にはその内容を秘密にしておきたいらしく、どんな本を貸し借りしているのかまでは分からなかった。

 ―まぁ女の子同士のやり取りだし、男子に知られて面白くないこともあるだろうし。

 晴はいつもの様に受け取った本を袋ごと鞄に入れながら、何気なく教室を見回す。螢一の姿はすでに無かった。予定が合えばいつも一緒に下校するのだが、今日は晴がすぐに帰れないことを察知していたのか、すっかり綺麗に片付けられた机が、すでに主が帰宅したことを物語っていた。


 「さあて、行くか」


 ハルは鞄を抱えると、クラスメイトに別れの挨拶を済ませ、足早に教室を立ち去った。



 ハルたちの通う県立八千曲高校は、創立20年程度と、割に歴史の浅い学校だが、”文部ぶんぶ両道”を校訓に掲げ、通常の授業のみならず、部活動などの課外活動にも力を入れている。その結果、運動部、文化部ともに、県内外で開催される大会などでは、表彰台を飾る常連校である。


 そんな八千曲高校では、すべての生徒が必ず何かしらの部活動に所属する必要がある。勇は言わずもがな経験を活かして空手部に、螢一は単に楽そうだという理由だけで文芸部に所属していた。そして晴はというと…


 「失礼しまーす」


 ―相変わらずここの扉は建付けが悪いな…


 晴が、ぐっと力を入れて扉を押し開いたその部屋には、『生徒会室』の札が掲げられている。

 晴は部活動に所属しない代わりに、生徒会事務局の構成員として、校内奉仕という形の課外活動に参加していた。八千曲高校では、必ずしも部活動に参加する必要はなく、晴の様に生徒会やその下部組織に属するなど学校運営に携わる場合、課外活動に参加していると認められるのである。


 「遅いっ」


 扉を開けきるか否かというところで、凛とした鋭い声に叱責された。


 「ハル、あんた、いつもいつも微妙に遅刻するのは何でなの?あと5分早く来れば間に合うっていうのに」


 「ごめんごめん、ちょっと間に合わなかったね」


 晴が後ろ頭を掻きながら、バツが悪そうに謝ると、目の前の女子生徒が、吊り上がった瞳でキッと睨みつけてきた。

 良く手入れされた、肩まで有るお下げの黒髪、清潔感のある整えられた身なり。後はメガネでもあれば誰がどう見ても”委員長”と呼ばれるに相応しい風貌のその女子生徒は、キャビネットに几帳面に保管されていた書類の束をひとつかみ取り出すと、晴の目の前の長机にこれ見よがしに積んでみせた。


 「その"ちょっと"でやらなきゃいけない事が少しでも出来るとは思わない?ハ・ル・く・ん」


 女子生徒はハルの鼻先に顔を近付けて、意地悪そうに目を細めて笑った。


 「次回は善処します…」


 「よろしい。じゃあその書類、今日中に打ち込んでおいてね」


 もうどんな言い訳をしても無駄だと悟った晴は、諾々と従った。

 晴がこの白石 葵<シライシ アオイ>と出会ったのは中学生の頃だ。元々勇を通じて知り合ったが、ある時一緒にクラス委員を務めた事がきっかけでより親しくなり、そこに螢一も加わって、今では校内、校外問わず、4人が一緒にいる事が多い仲良しグループである。成績優秀、持ち前の強い正義感と相まって、様々な役務を歴任してきた才媛で、今では生徒会書記の長を務めている。ただし、歯に衣着せぬ言動から、他人の好き嫌いの評価がはっきりと別れる人間ではあった。


 「あ、そういえば」


 「なに?」


 ハルはユウから預かった手提げを鞄から取り出す。


 「これ、ユウから」


 「あ、ありがとう」


 鞄から取り出されたものを見てすぐに察した葵は、半ば晴から引ったくる様に受け取った。


 「…ユウのやつ、ハルに預けるのはもうやめてって言ったのに…」


 葵は手提げをそそくさと自分の鞄に仕舞いこみながらボソリと呟く。


 「なにか言った?」


 「なにも!さあ仕事に集中して」


 「…はーい…」


 ため息混じりに返事をしながら積まれた書類の束に目を落とす。各委員会の議事録メモや、各部から上がってきた会計報告など、なんらの興味も沸かない書類ばかりが重なっている。晴は、これらの書類をパソコンで清書したり、データを入力したりと、葵が管轄する書記局業務の一端を担っていた。


 ―うわぁ…これだと暗くなるまで帰れないかなぁ…


 夏休み前、学期末に様々な委員会が開催されたこともあり、普段の量より5割は多いその書類を前に、晴は重たい手つきでパソコンのキーボードを叩き出す。葵は別の仕事があるのか、鞄を置いたまま何処かへ行ってしまったようだった。


 「がんばろう…」


 生徒会室には誰も反応する者はいない。晴はひたすら書類とモニタとを見比べながらキーボードを叩くという過酷な作業に見を投じていった。


 晴がしばらく作業を続けていると、後ろの方で重たい扉が開く音がした。ふと振り返った瞬間、甘い香りが鼻をくすぐる。見ると、葵が購買の自販機でカップコーヒーを買ってきてくれたようだった。


 「お疲れさま。どうぞ」


 「あ、ありがとう」


 葵は、晴と2人で仕事をしているとき、必ず何かしら差し入れを持ってきた。書記長という立場柄、晴に対してあれこれと口やかましくなりがちな事に、多少なりとも負い目を感じているようだった。


 「で、もう終わりそう?」


 葵は、長机の向かいの椅子に腰掛けながら、尋ねる。


 「そんなに早くできません、書記長」


 そりゃそうか、と言いながら、葵は書記長用のノートパソコンを席から持って来ると、晴の前に積まれた書類の束を半分取り上げて、キーボードを叩きだした。


 「あ、アオイ、手伝ってくれるの?」


 「勘違いしないでよ。ハルが終わるのを待ってたら、私まで帰るのが遅くなっちゃうでしょ」


 葵は黙々と作業をしながら言い放つ。しかし、言葉とは裏腹に、その表情はどこか優しげで、晴はそんな葵の姿を手を止めて見入っていた。その事に気付いた葵は顔を赤くして晴を睨む。


 「何を見てんのよ!手が止まってるわよ!誰のせいで残ってると思ってんの!!」


 葵が睨みながら凄まじい勢いでキーボードを叩く。2人しかいない生徒会室に、打鍵の音がことさらに響き渡った。


 「そうでした…」


 我に返った晴は、とりあえず目の前の仕事に集中する事にした。



 9月の6時はまだ日が高い。夏の盛りに比べれば空は幾分色付いてはいるが、それでも日中とそう変わらない明るさで、帰宅の途についた晴達を照らしていた。


 「あー、疲れたねえ」


 晴は固まった身体をほぐそうと、背伸びをしながら上半身を左右に倒す。首と腰のあたりでコキリと骨のきしむ音がした。


 「半分は私ですけど?」


 隣を歩いていたアオイが間髪入れずツッコむ。


 「もちろん感謝してますよ。おかげで明るいうちに帰れたしね」


 「全くよ」


 結局、あれから1時間程度で終わらせることができたのは、確かに葵が手伝ってくれたお陰だった。晴ひとりでは、日が沈んでもまだ足りないぐらいだっただろう。晴はその点については素直に感謝した。


 ふたりは他愛のない会話に花を咲かせながら、無言坂を下って行く。登校時の上りは確かに辛いが、下校時の下りの際も脚に力を入れなければならない事に変わりはない。この坂の存在は、学生たちの体力レベルを、頼みもしないのに底上げしてくれていた。


 「そう言えば」


 葵がふと尋ねる。


 「最近ユウの家、道場の方って行ってるの?」


 「い、いや、ここしばらく顔出してないなぁ」


 晴はギクリと一瞬固まって、バツが悪そうに応えた。


 実は、晴は小学生の頃、勇の道場に通っていた時期があった。だが、そもそも根が優しすぎる晴には向かなかったのか、中学へ進学する前に自分から辞めてしまったのだった。とはいえ、勇との親交に影響があるわけでもなく、しばしば家へ遊びに行ったりと、何かに付けて顔を出してはいた。


 「そう。たまには顔を出して上げたほうが良いわよ。ユウのおじいさんが寂しがってるんじゃない?」


 「そうかもね…」


 勇の祖父は結城流空手道場の師範を務めていて、齢65にして筋骨隆々のむくつけき大男である。名を平十郎<ヘイジュウロウ>と言う。

 鋭い眼光に屈強な肉体と、見れば誰もが畏怖するであろう容貌だが、晴にとっては、小さい頃から今でも、実の孫である勇以上に晴のことを可愛がってくれる、第三のお祖父ちゃんとも呼べる人物だった。


 「ただね…最近道場の跡を継いで欲しいって話が、5分おきには口をついて出てくるんだよね…」


 今のところ結城流空手の跡継ぎはいない。代々、結城家の男子がその技の全てを受け継いできたのだが、平十郎の息子、すなわち勇の父親は、厳しい修行や跡継ぎとしての重圧からの反動か、普通の会社員としての生活を選んでしまった。

 しかし皮肉な事に、その娘である勇は平十郎の血を濃く受け継いだのか、武道家として優れた資質を持っていた。それを見抜いた平十郎は、幼い勇をあの手この手で懐柔し、洗脳し、そして鍛え上げ、結城流空手の使い手として見事に育て上げたのだった。

 だが、結城流を残すという意味では、どうしても男子が結城家に必要だった。残念ながら平十郎自身も平十郎の息子夫婦もあまり子宝には恵まれず、勇が唯一の孫だった。そこで目を付けたのがハルである。晴が道場に入ってきた時は、平十郎は小躍りするほど喜んだものだった(逆に辞めていった時の落胆ぶりは酷かった)。

 そうした訳で、晴は小さい頃から、結城家の跡取りとして嘱望されてきた。それはつまり勇と婚姻を交わして、婿養子になれと言っているのだった。


 「まぁ、もうユウはは結婚できる歳だしね。おじいさんもそろそろスパートをかけたいんじゃないの?」


 「えーっと、僕の意見は…」


 「良いじゃない、古いとはいえ、立派な道場に加えて、もれなくユウが付いて来るのよ」


 「そんな、テレフォンショッピングじゃないんだから…」


 実際、渦中の晴としては、家を継ぐだの婿養子だのと言われたところで、どうしていいか分からずにただ混乱しているだけだった。ただ、平十郎の熱心さだけは、ひしひしと伝わっていた。

 ―ハル坊、頼むこの通り― 

 平十郎が晴に懇願する表情は真剣そのもので、そんな姿を見ていると、そのうち情にほだされて首を縦に振ってしまいそうで怖かった。


 「…なんてね。進路もまだ決まってないハルに、家を継げだなんて無理な話よね」


 「…今一番言われたくない事を…」


 晴の表情を見て、葵が無邪気に笑う。生徒会室で見せた表情とは違う素の笑顔に、思わず晴も相好を崩す。頭が良くて、面倒見が良くて、ちょっと意地悪で、たまに抜けているお姉さん。晴にとって葵はそんな存在だった。

 その時、晴の顔をポツリと何かが濡らした。


 「あ、降り出した」


 そう間を置かずに、雨粒はどんどんと大きくなり、音を立てて降り出した。


 「夕立だわ」


 気付けば、先程まで空を赤く染めていた太陽はすっかり厚い雲に隠されて、周りも薄暗くなっていた。


 「じゃあね!今日はお疲れ様!」


 2人はすでに無言坂を下りきっている。そこはちょうどT字路になっていて、ここからはそれぞれ家路が反対方向だった。


 「あっ、傘、家ならあるよ!」


 晴の家はこのT字路から5分程歩いたところにある。一方、葵は、バス停までの道のりに加えて、降りてから家までもまだ距離があった。


 「良いわよ、バス乗ってる間に止むかもしれないし。また来週ね!」


 話してる間に濡れるのも癪とばかりに、葵は鞄を頭の上に掲げながら、バス停の方向に駆け出した。晴もその姿を見届けると、同じ様に雨をかわしながら、家路を急いだ。



 無言坂を下ったT字路を左に曲がって道沿いに進むと、右手に勇の道場兼実家が見えてくる。その右隣の小路を少し進むと左に見えるのが晴の家だ。晴の家と勇の家は、庭で隣り合っている形だ。

 水浸しになった勇の家の横道を駆け抜けると、にわかに稲光りがした。


 「うわ!やばいやばい」


 ゴロゴロと音がなる前に、晴は家に駆け込むことが出来た。


 「ふぅ…」


 玄関に逃げ込んだハルは安堵の息を吐く。久しぶりに走った事もあって、まだ息が弾んでいる。

 頭は鞄で守られていたが、足元はすっかり濡れてしまっていた。グジュグジュと気持ちの悪い感覚を足の裏に感じながら呼吸を整えたハルは、いつもの様に帰宅したことを告げる。


 「ただいま~」


 しかし、帰ってくるはずの声は聞こえなかった。


 ―おかしいな、今日は父さんも居るはずだけど…ちょうど雷が鳴っていたから、聞こえなかったのかもしれない…


 居間の方は明かりが点いているようだった。

 待っていても、濡れネズミとなった自分を助けてくれる人間は現れそうにない。しぶしぶ、玄関のあがり口を濡らさない様に四つん這いになりながら、廊下を進んですぐの浴室からタオルを引っ張り出し、濡れた部分を一通り拭くと、居間に向かって歩いて行く。


 その時―


 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 激しい悲鳴が聞こえた。


 ―父さんの声だ!


 晴は慌てて駆け出す。


 「どうしたの!?」


 居間の扉を開けると同時に、突然明かりがフッと消えた。直後に凄まじい雷鳴が響く。どうやら雷の影響で停電したようだった。


 「ハ、ハル…」


 本来なら、外はまだ多少は明るい時間帯だが、激しい夕立を降らせている厚い雲のせいで薄暗く、部屋の中の様子は明かりの無い状況ではほとんど分からない。それでも目を凝らして見ると、そこにはどうやら父と母に加えて、もう1人居る様だった。


 「…」


 もう一人の人物が、無言で立ち上がる。晴に向き直ったようだ。

 一瞬、稲光が部屋の中を照らす。その人物が右手に握っていたものが、ギラリと光を反射した。


 ―あれは…


 鈍い金属光沢、細長く鋭い形状。これを何処かで見た記憶が、晴にはあった。


 ―…刀!?


 「う、うあ…」


 「おぉっ、若様!お探ししましたぞ!」


 正体に気付いた晴が悲鳴を上げるや否や、その人影が胸元に飛び込んできた。


 「えええぇっ!?」


 何が何だか分からず混乱する晴を抱きしめるその人物は、相当な力の持ち主だった。ぐいぐいと締めあげれれるにつれ、晴の顔から血の気が引いていく。


 「ぐぐ…く、苦しい…」


 晴も精一杯の力で抵抗してみたが、最後は言葉にもならない状態だった。


 ―…なんか…いい匂い…??…


 晴は鼻をくすぐる甘い香りとやわらかな感触に包まれながら、ゆっくりと意識を失っていった。




 みーんみんみんみーん…


 今朝も快晴。相変わらず早起きの蝉達は、一夏の命を燃やし尽さんと懸命に鳴いている。


 「はぁ…」


 ―あれ、そういえば前も同じような溜息ついてなかったっけ…


 しかし、今日は短い夏休みを惜しんだり、無言坂を疎ましく思ってため息をついたわけではなかった。


 「えっと…」


 「チグサとお呼びください!」


 晴のテンションとは正反対の溌剌とした声が、耳に障る。


 「えっと…チグサさん?お願いだから目立つことはしないでくださいね…」


 「承知致した!」


 ―不安だ。全く不安だ。


 晴は怪訝な表情で隣の少女を見つめた。その視線に気付いた少女は、ニッコリと微笑んで、歩みの遅い晴を急かす。


 「さあさあ、こんなところでぐずぐずせず、がっこうなる場所へ参りましょうぞ」


 晴の手をぐっと掴んで、力強く坂を登り始めた。


 「あああ…行きたくない…」


 晴は半ば引きずられる様に、昨日とは違う理由で重くなった足取りで、坂を上っていった。

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