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ぼくなんて消えちゃえばいい

作者: 輪竹裕理

※墨汁PのKAITO曲と同名ですが無関係です

 ぼくなんて消えちゃえばいいと、これまでに何度願っただろう。

 しかしただ願ったところで神ならぬ身で消えることなど容易にできるわけもなく、かといって人としてふさわしき行動に移るわけでもない。

 ぼくは駄目な人間だ。

「あの子は、駄目だね」

 両親がため息交じりにそう言っているのを何度聞いたことだろう。しかしそれに対する反骨精神とかは、ぼくの中ではとうにすり減って消えてしまっている。だってそれが事実だから。

「佳文はできる子なのに、どうしてあの子はああなのか」

 頭の出来がよく一流大学に進み一流企業へと就職し、自立して、後は結婚だけという段階の、バラ色の人生を謳歌している弟の佳文へ、嫉妬を抱かなくなったのはどれくらい前だろうか。帰省するたびに寄生して生きている兄に上から目線で説教するのが鬱陶しいが、彼ほどの立派さを持てるくらいならぼくとてこんな風に引きこもったまま三十を半ばまで生きていない。

 ぼくは駄目な上に生きている価値もない最悪の役に立たない人間だ。生まれてきたことがもはや申し訳ないほどだ。そのくせ自分で終わらせることもできないクズ野郎だ。

 本当に今すぐに、消えてしまえたらいいのに。


 このままじゃよくないことくらい、ぼくにだって分かっている。だけど高校の途中からこの生活を始めてしまった筋金入りにしてプロレベルの引きこもりであるぼくであるから、まず現状を差し引いても就職など夢のまた夢だ。

 中卒で職歴がなくこの年齢で、いったいどこが雇ってくれると言うのか。おまけに家族以外の人間とは喋ることすらなかった重度のコミュ症で、まず家から出ることから始めなくてはならないというのに、ぼくときたら部屋から出て家の中をうろつくことすら、勇気のいる行為なのだ。

 それでも以前は、もう少し部屋を出ることも頻繁で、うろうろもできた。しかし親の目はいつまでたっても怖くて、見つかる度にため息と小言を聞くのもつらかったので、次第にその回数は減って行った。

「あんた、そろそろなんでもいいから働いてみたらどう?」

「お母さんたちもじきに年金暮らしなんだよ」

「親がいなくなったらどうするの。佳文に頼るのはやめなさいよ? あの子にだって生活があるんだから」

 もう嫌になるくらい分かっていることだ。ネチネチと繰り返される言葉たちはぼくの背を蹴ったり押したりしながら自室へと追い立てた。目障りだから出てくるなと言われているかのようでもあった。

 そんなぼくも最近では、存在を無視されている。

 廊下ですれ違っても目も合わないし小言もない。どうやら両親はぼくをいないものとして扱うことに決めたらしい。追い立てられるものはなくなったけれど、いたたまれなさは変わらない。

 せっかく久しぶりになけなしの勇気を振り絞って何かをするために部屋から出たのに、何をするのか忘れてしまった。仕方なしに部屋に戻ろうとすると、両親の話し合うぼそぼそと押し殺したような陰気な声がふすま越しに聞こえてきた。

「今年は佳文は帰るのか」

「ええ、年末には帰ってくるって」

「そうか……楽しみだ。……もうそれくらいしか、楽しみがないな」

「やめてくださいよ、お父さんったら」

 そう言いながらも二人の口ぶりから、弟の帰省に心が浮き立っているのは明らかだった。佳文の好きなのものを作ってやらなくてはと言いながら、そろって買い物に出る様子だった。

「いやだわあ、お父さんの運転、荒いから」

 以前であれば、家にいるという理由から有無を言わさず強制的に運転手役を押し付けられていたぼくだったが、どうやらそれすら当てにされるのをやめたらしい。運転役すら与える価値もないのだろう。失望しているとは到底思えない浮き浮きとした両親の後姿を玄関の向こうへと見送ると、家にはぼくと静寂だけが残された。

 そういえばこの運転免許は一大決心をして会得したものだった。しかしそれが社会へ出るための足掛かりになるかと言えば誰にでもとれる資格であるだけに意味はなく、ぼくはこうして今日も外には出られずにいる。

 結局何もしないまま、ぼくは部屋へと帰ってきた。施錠した窓はいつ開けたのかも知れないほどに固く錆びついているが、昼でも開けることすらないカーテンが遮っていて部屋の中にいてはそれを知覚することもできない。

 模様替えなど全くする気もないので、配置は高校の頃から変わっていない。物欲がそもそも麻痺しているのか、何かを欲しがることも稀だったため、増えてもいないのが滑稽だった。

 不気味なほどに薄暗く、完璧なほどにほの暗い。

 時を止めたままほとんど動くことのない部屋の中では、全てがシルエットと化して真っ暗な何かとしてぼんやりとそこに存在していた。もちろんそれは主たるぼくも例外ではない。

 ぼくは、もはや部屋を構成する秩序のような何かの、一部だ。

 寝て、起きて、息をするだけ。何をする気にもなれないし、できることもない。家族からもすでに見捨てられているのだから、本来ならここにいることすらお門違いだ。たとえぼくだけが最後まで、ぼくを見放さないとしても。

 強いていえば、すべきことなら、あと一つだけあるのだけれど。

 その時、ピンポーンとインターホンが無粋にして無遠慮に鳴り響いたため、ぼくは無秩序な思考の渦から抜け出さざるをえなかった。

 不意の来客。しかし両親はおらず、ぼくは応対する勇気すら持てない。こういう時はひたすらに息を潜めてやり過ごすしかない。留守を確かめたのちに不法侵入してくる泥棒かもしれなくても、自宅警備員にすらなれない。

 ぼくは、他人が怖い。あまりに人とかかわらずに生きてきたせいだ。

 だからじっとやり過ごす。電話があっても同じだ。ぼくを引きずり出すことは叶わない。例えば家が火事になって、火炎に包まれでもすれば話は別だろうけど。

 しかし待てども妄想の産物である炎はぼくを取り巻きもせず、ただただ冷たいばかりの硬質なインターホンが鳴り続けるばかりだった。

 早く諦めろ。この家には誰もいないんだから。

 だがぼくのささくれた願いが叶うことはなかった。なんとインターホンの主はあろうことか、そのまま玄関の扉を開いたのだ。

 なんで鍵開いてんだ?

「なんで鍵開いてんだよ、不用心だなあ」

 ぼくの心の中の意見を口に出してぼやきながら図々しく侵入してくる声には、聞き覚えがあった。

 あの声は、わが弟の佳文だ。

 どうやら両親と行き違いになったらしい。

「ただいまー、誰もいないの?」

 わかりきったことを言いながら佳文は、土産らしい紙袋を下げて上り込んできた。どっこいしょなどと年老いた言葉を吐いている。しかし考えてみれば彼も、独身とはいえもう三十路だ。年を取るはずである。

 そんなことを考えているとぼくは自然に、部屋から出ていた。帰省する弟を出迎えるなど、どれくらいぶりか。もしかしたら初めてかもしれない。

「おかえり」

「あー、疲れた。帰省ラッシュとか、どうにかなんねえかね、あれ」

 けれどぼくは靴を脱ぐ弟の背に、それ以上何を言うべきかも分からずに黙って立ち尽くすしかなかった。毎年同じことを言ってるとか、実家は田舎なんだから仕方ないとか、そんな当たり前の言葉すら出てこなかった。

 どうせ言ったって、ぼくを詰る言葉に変わるだけだ。どんな取るに足らない世間話でもそれは同じこと。気が付くとぼくは呆れられ、説教される身に回る。それはぼくがろくでなしだから仕方ないと言えば仕方ないことだけど、気持ちのいいものであるはずもなく、不愉快になってそのまま部屋へ閉じこもる速度を多少、変えるだけのこと、その程度の影響力しか持てないのであれば、あえてそこに乗っかる必要もないのだ。

「あれ、この靴まだ取ってあんのかよ」

 三和土の隅に置かれた新品同様の、きちんと揃えられて靴底が浮き上がることすら奇跡のような靴を見て、佳文はひどく驚愕を示した。

 確かに家から出ることを拒否しているぼくには無用の長物だ。靴箱の中に仕舞われていなかったことはぼくとしても驚くところだが、それは親の最後の望みかもしれないし、とにかくぼくの意思でそこにあるのではない。

 それなのに佳文の驚き方ときたら、まるでその場にはふさわしくない、例えるなら靴を食器代わりにしてカレーを食べる非常識な人を非難するような響きが含まれていて、さしものぼくもかちんとくる。

 ぼくがこの家にとって不要物であることは認めよう。ぼくが欠けたとてこの家の秩序は保たれるし、むしろ欠けた方が円滑に進むこともあろう。その一部を失って困るのはぼくの部屋くらいだが、あれはぼくそのものだからいっそぼくごと切り離した方がいいかもしれない。

 しかしだからってそんな言い方はないのではないか。

「取ってあったら悪いのかよ。それとも時代遅れだとでも言いたいのか」

 ぼくはぼそぼそとこもるような声で精いっぱいの反論をした。普段声を出すことがないから、心底怒っていてもこんな暗闇のような声しか出ないのだ。

「はあ、しょうがねえなあ」

「しょうがないとはなんだ、失敬だろ」

「まあ別に、だからって俺が勝手に捨てたりはできないけどさ」

 佳文はため息交じりにあからさまに疲れた声を吐き出して、立ち上がった。弱弱しく肩をいからせるぼくをちらりとも一瞥せずに、すれ違いざまにこう言う。

「未練がましいんだよ」

 みしり、と体重を受けた床が軋む音がした。ぼくは咄嗟に、弟を振り返った。それは、あんまりな言い草だった。撤回しろと言うつもりで、手を伸ばした。かたくなにぼくを無視する弟の肩を。

 けれど、ぼくの手は。

 するりと、音もなく、すり抜けた。

 何にも触ることのできないまま、その手はふらりと宙を舞って落下していった。誰も制止も受けることなく、佳文はそのまま居間へと入って行った。

 ああ、そうか。

 ぼくは遅ればせながら悟る。弟に触れられなかった己の手を見ながら。

 ぼくは既に、死んでいるのだと。

 生きてなんかいないのだ。とっくに。

 居間から、チーンというか細い鐘の音が聞こえてきた。正しくは居間の奥にある仏間からだ。

「ただいま、兄貴。……なんつってな」

 おどけたような佳文の声。きっと手を合わせているのだろう。見えないが、気配でわかる。そこには兄であるぼくを見下したような響きは少しもなかった。嘘だと思うほどに悲しげで、聞いたことがないくらいに優しかった。

 心底、悼んでいる。

 それでさらに、確信する。

 家からぼくは、とうに失われていた。

 死んでいるのだ。

 いつからだろう? どうしてだろう? 時も要因も思い出せないけど、死んでいることは明らかだ。

 けれどぼくは器を失って居場所を失っているのに、まだこんなところをうろうろしている。誰にも届かない声を時々発しながら。

 ぼくはゆるりと踵を返して、部屋へと戻った。開閉した記憶のない扉は閉まったっきりだ。

 誰にも開けられることのない扉の中には、停滞した時間が埃となって降り積もっている。何も思い出せないけどきっと、引きこもったまま死んだのだろう。社会復帰は結局、できなかった。ぼくは部屋と共に死んだのだ。

 そう思うと、この閉じた部屋が急に憎たらしくなった。生前、親に小言を言われた時や弟に舐められた時に覚えたそれは遊びだったのではと疑うほどの、純然たる怒りが、ぼくの内側からふつふつと湧き上ってきた。

 引きこもった末に部屋と心中なんて、馬鹿みたいだ。

 その上こんな風にまだ家の中にいるなんて、糞みたいだ。

 これ以上ここにいちゃいけない。ぼくのいるべき場所はここじゃない。ここは、生きている人が暮らす家だ。

 死者は、あるべき場所へ!

 引きこもり生活は、正真正銘、終わりなのだ!

「ぼくは、消えなくちゃいけないんだ!」

 バン! と扉が、開いた。ぼくじゃないし、佳文でもない。まして出かけていた両親でもない。

 それは勝手に、開いた。

 続いて窓が、ガラリというには乱暴に、ガラスをたたき割りそうなほどの勢いで開いた。カーテンがめくれあがって、部屋中を嵐のような風が吹き抜ける。舞い上がった埃がぼくにぶつかってくるが、何も感じることのできぬ身なので、それはぼくをすり抜けて家の中へと散って行った。

「な、なんだあ?」

 音に驚いた弟が、仏間から出てきた。そして開けっ広げに開けっ放しになっているぼくの部屋の様子を見て、ぽかんと目と口を開く。

「兄貴……?」

 カーテンが開いたことで、部屋に光が満たされていた。埃が舞う中、もしかしたら佳文にぼくの姿が見えたのかと一瞬思ったが、目は合わなかった。最後の最期まで。

 だから見えてはいなかったのだろう。ただそこが、ぼくの部屋だったからという、きっとそれだけだ。

「なんだ? ポルターガイストか……?」

 ぼくは呆然とする弟の横をすり抜けて、開いた窓の桟を思いきり蹴った。そこから飛び出すことに、少しの恐怖もなかった。冬の風の冷たさを僅かたりとも感じることなく、まるで春の陽気が駆け抜けたかのようなキラキラした中に身を躍らせた。

 ぼくは消える。願いが叶うこともあるのだ。実際は死んでしまっているのだから、その前に叶っているのだけど、それはなんだか悲しいことなので考えるのをやめにする。

 だけどもまさかこんなに前向きな思いで消えることができるなんて、思ってなかったけどね。

 後ろ向きな思いでは未練となって残ってしまうからだろう。ぼくの靴をいつまでも捨てられない両親のように。

 では諸君、ぼくは消える。さようなら、永遠に。できれば皆に、ささやかな幸がありますように。


end

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