第一話
木製のヘラを手にしたウェルチは、弱火にかけた鍋の中を覗き込む。
中身は、水分が飛んでどろどろに煮詰まった軟膏だ。ヘラでぐるぐるとかき回しながら出来具合を確認し、ウェルチはうんと小さく頷く。鍋から軟膏をすくいだしてボウルに移し、ボウルを冷水に入れて軟膏の熱を取る。そして、冷えた軟膏を小さな瓶に詰めてふたを閉めた。
そうして今度は、乾燥させた薬草を保管している棚に向かうと、必要な薬草を数種類手に取って、机の上に並べていく。
その薬草のうちのひとつを計量機に乗せて分量をきっちりと量り、すり鉢の中に落とす。その動作を別の薬草でも行い、用意していた数種類の薬草をすべてすり鉢の中に入れると、すりこぎを握りしめ、ごりごりと動かし始めた。
すり鉢の中で薬草が見る間に細かくなり、混ざり合っていく。
朝からずっと同じ作業を繰り返し、黙々と薬の調合を進めてきたウェルチは、ふと作業の手を止めて、ふうと息をついてテーブルに置いてあるタオルで額の汗を拭った。
窓は開けてあり風が通るようにしているとはいえ、先ほどまで火を使っていたから、部屋の中には熱が籠っていて、暑い。そのうえ、薬の調合は意外と身体を動かす作業なので、ずっと作業をしているとじわりと汗が滲んでくる。そして、同じような姿勢で作業をしていたため、気付けば肩や首が凝り固まって痛い。
ひとつ息をつき、凝りをほぐすように軽く首を回したウェルチは、ふと開け放った窓の方向に視線を向け、差し込む光の強さと眩しさに目を細めた。
外からは鳥のさえずりが聞こえてくる。
ウェルチの住む家と作業場兼保管庫を囲む森の木々たちの緑が、日に日に色濃く深くなっていくのが目に見えて分かる。この場所に差し込む日差しは木々に遮られそれほど強くはないものの、木々や草花の様子から夏の気配を感じるようになってきた。
気温も日々高くなっているけれども、森の中は木陰が多いせいかやや涼しい。動けば多少は汗ばむものの、極端に暑くもなく雪が降ることもないこの時期は、町まで歩いていくには一番よい季節だ。
ウェルチは定期的にこの森の最寄りにある町を訪れている。調合した薬や自家製の薬酒、ハーブティーやアロマオイルを売り、その代金で森の中では手に入らない日用品を購入するためだ。
そして、今日は町へ向かう日なのだ。そう長く手を止めてもいられない。
ウェルチはすりこぎを握り直すと、再びごりごりと薬草をすり潰す。規則正しい音とともに、薬草の匂いが室内に満ちていく。
そうして丹念にすりつぶし粉状になった薬を小さな瓶の中に入れて封をしてから、その瓶と先程詰めた軟膏の瓶の側面に、薬の名前を書いたラベルを丁寧に貼った。
そこまでの作業を終えると、手元にあったリストの最後の二行にぴっと斜線を引く。これで、この一週間のうちに書簡で依頼を受けていた分も含め、予定していたすべての薬の調合を終えたことになる。
診療院に納品予定の調合したばかりの薬と、前回町を訪れた時に頼まれた数種類のお酒や茶葉、町から戻って以降に書簡で追加発注された薬、そして露店で売るための商品が今回町に行くにあたって必要な品だ。
念のためにリストと薬を照合しながら、薬の瓶を愛用の肩掛けの鞄に詰めていく。そんなに難しい作業ではないのに、ウェルチの表情はどこか堅く、動作も重い。気乗りがしないという心情が、顔や動きに滲み出ている。
ふう、とウェルチが無意識についたため息は、ウェルチひとりしかいない静かな部屋に妙に大きく響いた。
「……あ」
その音で自分がため息を漏らしていたことに気づいたウェルチは、ばつが悪そうな表情をして、口を手で覆った。
領主や町の人たちからの町で暮らさないかという誘いも断り森の中で一人暮らしをしているウェルチだが、別に町が嫌いだというわけではない。
やや人見知りで、人混みは苦手ではあるし人付き合いが上手いともいえないけれど、あの町の人はみんな、優しくて親切だ。大切な友人だっている。
それでも、薬草が一年中採れて水が綺麗なこの森でのひとりきりの生活を選んだのは、ウェルチ自身だ。
けれど、この森でこんな風に好きに生活が出来るのはあの町の存在あってこそだと、そう思っている。この森もなくてはならない大事な所だが、あの町だって大切で、大好きな場所だ。それなのに、町に行こうとすると気が重くなる。
それにはとても深い理由があった。
冬から春へと移り変わる季節に起こった一連の出来事を思い出し、ウェルチの頬が瞬時に朱を帯びた。
あれから、かなりの月日が経っている。それなのに、記憶はまったく薄れていってくれない。それどころか、濃く鮮明になっていっているような気さえする。
そんな風に考え出すと、あの町の領主の三男坊であるティオの酒に酔いつつも真剣な銅褐色の瞳と、ウェルチを好きだといった柔らかい声音をつい思い出してしまう。そんなだから、記憶が薄れないのだと分かっていてもだ。
ウェルチは頬を染めたまま思い切り顔を横に振った。
「うう……もう、随分と前のことなのに、いつまでもこんな状態でどうするの……! いい加減、落ち着かなきゃ。……ティオさんにも、いつまでもこんな態度じゃ悪いじゃないの」
一応声に出して決意表明のようなものをしてみるものの、その声は非常に弱々しくて、我ながら頼りないとしか思えなかった。
頬の熱は簡単に引きそうもなく、自分の感情を制御できない。そんな自分が、なんだか情けない。
季節は春をとっくに過ぎて、既に夏に移り変わろうとしているのに。
「……だめだなぁ、わたし」
ウェルチはあまりにも情けない自分に落ち込んで肩を落とすと、深いため息をついた。
私的な事情を思えば気が重いことには変わりはないが、あの町に行かないという選択肢はない。
あの町には、ウェルチの薬やお酒や茶葉を待ってくれている人たちがいるのだ。その人たちに迷惑をかけるわけにはいかない。他人に迷惑をかけるのが性格的に許せないというのはあるが、そもそも約束を破るようでは、薬師としての信用問題にもかかわる。
そして、ウェルチの家の日用品の在庫がいささか心許ないので、買い足さないと生活が厳しいという、とても現実的で切実な理由もあったりもする。
ウェルチは、いつの間にか完全に止まっていた作業を再開させた。
先程よりは若干手際よく鞄の中に薬の瓶とお酒の瓶、茶葉を数種類、アロマオイルの小瓶をいくつか入れる。必要なものを全部入れ終ると、肩掛けの鞄はぱんぱんに膨れ上がった。見た目からして、かなりの重量感だ。
これでよし、と小さく呟いて頷くと、手際よく薬草の調合に使用した道具を片づける。テーブルの上やテーブル周りの床を簡単にだが掃除して、つけていたエプロンを外し、替わりに薄手のケープを羽織った。
そうして、やたらと大荷物になった肩掛け鞄を持ち上げてみると、見た目と違わずずっしりと重い。
「う、わ……。よい、しょっ……!」
思わず掛け声をかけながら鞄を肩に掛け、胸元で揺れる獣避けの匂い袋を一度ぽふんと叩いた。そうすると、獣が嫌う独特の香りが袋から広がった。
森の中にあるウェルチの家から町までの道はきちんと整備されているし、匂い袋があるので、ある程度の安全は確保できる。
だが、それでも何が起こるかは分からないから、護身用の武器は忘れない。狩りに使うこともある弓矢の方がウェルチは得意なのだが、こう荷物が多いと弓矢を構えることすら難しい。なので、町に行くときはナイフを腰のベルトに下げることが多い。
そうして出掛ける準備をきっちりと整えると、ウェルチは作業場の窓の戸締りを確認し、外に出て扉に鍵をかけた。
こんな森の中にぽつんと佇んでいる家と作業場だけれど、まがりなりにも薬師の家である。作業場には高価な薬品や劇薬、それに祖母から受け継いだ貴重な文献などもあるから、戸締まりはいつも念入りだ。
特に比較的森の奥まで足を踏み入れやすいこの時期は、貴重品を狙う不届き者も森の奥までやって来やすいということになるのだから、入念な戸締りが必要となる。
しっかりと戸締りをしたウェルチはくるりと家に背を向けた。
ふと顔を上げて、大きく息を吸う。幾度か深呼吸を繰り返して森の新鮮な空気を肺に満たす。そうすると、少しだけ気分が落ち着いた。
「……よしっ! 行こうっ!」
ウェルチは小さく気合いを入れると、肩からずれかけた鞄を持ち直し、ゆっくりと町へと続く道を歩きだしたのだった。