第八話
グラスに注がれた赤い液体をじいっとを見つめたティオが、ごくりと息を呑む。
「これが……勇気の出る薬?」
緊張した面持ちでグラスを受け取ってそう尋ねるティオに、ウェルチは曖昧な微笑を浮かべた。
「……ウェルチ?」
ウェルチの様子がおかしいことに気付いたのか、ティオは顔を上げる。その顔がすぐに心配そうな表情になった。
「大丈夫? 具合悪いの?」
そうではないと、ウェルチはふるふると首を横に振る。その動作を見たティオは、小さく首を傾げた。
「じゃあ、どうしたの?」
「……わたし、ティオさんに謝らないといけません」
「……謝る?」
そう切り出すと、ティオが不思議そうな表情をする。そんなティオをまっすぐに見つめながら、ウェルチは言葉を続けた。
「……その液体は、確かに祖母が領主様にお渡ししたものと同じものです。でも……勇気の出る薬なんてないんです。魔法はお話の中だけの力で、わたしには魔法なんて使えません。……おとぎ話に出てくるような魔法の薬なんて、存在しないんです」
ウェルチの言葉に、ティオは数度瞬いて、グラスの中の液体とウェルチを見比べた。
「……え? どういうこと? でも、父のプロポーズの話は本当だよね?」
その問いに、ウェルチは頷く。多少面白おかしく脚色していたとしても、ティオの父がウェルチの祖母の元に勇気の出る薬を求めてやって来たこと、そしてこの赤い液体を手渡したこと。そのあと大胆プロポーズをしたことも本当だ。
「これが勇気の出る薬じゃないなら……これは、一体なんなの?」
「……それの香りを嗅いでもらえますか?」
そう言われてグラスに顔を近づけたティオは、僅かに目を細めた。
「……バラと、アルコールの香り……?」
正解だ。ウェルチはこくんと頷く。
「はい。バラの花びらで香りづけした、祖母直伝のハーブ酒です。……祖母が領主様にお渡ししたものは、お酒だったんです」
たとえ魔女と呼ばれようと、祖母にもウェルチにも魔法の薬を生み出すことは出来ない。この世に魔法なんてないのだから。
そもそも、勇気を出すなんて薬でどうにか出来るものでもないと思う。鎮静剤や精神清涼剤など心に働きかける薬は確かに存在するけれど、それは気分の安定を図るためのものだ。
中には確かに気分を高揚させるものもあり、勇気を出す薬というのは、どちらかというとそちらに近い物なのかもしれない。けれど、どんなに気分が高揚してても、最後の一歩を踏み出せるかは、その人自身の心の問題であり、薬でどうにかなるものではないだろう。
結局、どう考えたところで勇気を出す薬など存在しないのだ。
そこで、祖母が渡したのがこのお酒だった。他のハーブ酒より少しだけアルコール度数が高く、バラの薫り高いお酒。
本来、バラの香りは心を落ち着かせる効果があるのだが、想いを告げようと意気込んでいた領主は、バラの香りで花束を連想したのだろう。だから、バラの花束を渡してプロポーズしようと思ったのは、当然のことのように思う。
領主はお酒を一気にあおると、そのまま町の花屋に駆け込み、それからプロポーズに向ったとのことだ。
領主があまりお酒に強くなかったことも、大胆プロポーズに一役買ったのだろう。
バラの花束を掲げつつの愛の詩を詠うなどという大胆なプロポーズ。そこにお酒の勢いがまったくなかったかと問われれば、ウェルチに否定出来る要素はない。普段、真面目な領主の姿を知っているだけに、なおさらだ。
「……だから、勇気の出る薬なんて、ないんです。……なのに試すようなことをして、迷惑をかけて……本当に、ごめんなさい」
そう言って深く深く頭を下げる。
それから、ウェルチは頭を起こしてティオと視線を合わせた。勇気の薬イコールお酒という事実があまりに衝撃的だったのか、ティオはグラスを持ったままぽかんとウェルチを見ている。
「……でも、ティオさん。あなたは一人でここまで来て、森の奥まで一緒に行ってくれました。倒れたわたしを見捨てることなく、ここまで連れ帰ってくれました。……それは勇気がなくては出来ないことだと、わたしは思います。あなたに勇気の出る薬なんていらないです」
ウェルチの言葉を、ティオは黙ったまま聞いている。
「……ティオさんなら、大丈夫。大丈夫ですよ」
そう言ってウェルチは微笑む。ティオが小さく息を呑んだ。
「……ウェルチ、ありがとう。君にそう言ってもらえて、すごく嬉しいよ。……でも、僕……」
何かを言いかけてティオは口をつぐむ。そうしてしばらく黙り込んでいたティオの表情が何かを決意したものになった。
そして、次にティオが取った行動は、ウェルチが予想もしないものだった。
グラスに注がれたハーブ酒をぐいっと一気に飲み干したのだ。
「っ!? ティオさん!?」
「――……っ!?」
ティオが小さくむせる。無理もない。この酒のアルコール度数はそれなりに高い。少量を氷を溶かしながら少しずつ飲むか、水か炭酸水で割って飲むことを推奨しているようなお酒である。それを一気に飲むなんて、とウェルチの顔が青くなる。
アルコールを急激に摂取すれば、中毒症状を起こす心配だってあるのだ。
「なななな、何してるんですか!? だ、大丈夫ですか!? み、水っ! 水飲みます!?」
「ウェルチ」
空になったグラスをサイドテーブルにことりと置いて、ティオがウェルチを見つめてくる。その頬が仄かに赤い。
いくら度数の高い酒とはいえ、こんなすぐに顔に出るくらいだから、父親と同じようにティオはお酒に弱いのだろう。ならば水を持って来た方がいいだろうかと思うのだが、その場に縫いとめられたように動けなかった。
原因は分かっている。ウェルチを見つめてくるティオの銅褐色の瞳が、思いのほか真剣なせいだ。その瞳にまっすぐに見つめられると、身動きをすることすら憚られた。
「ティオさん、あの……」
沈黙に耐えきれなくて、緊張しつつも口を開いたウェルチの言葉を、ティオが遮った。
「僕が好きなのはウェルチだよ」
「…………はい?」
ティオの言葉が理解できなくて、何か聞き間違えたかと瞬くウェルチに、ティオはもう一度ゆっくりと口を開く。
「好きだよ。ウェルチのことが、好きなんだ。……だから、僕とずっと一緒にいてほしいって言おうと思って、それで今日、ここに来たんだ」
突然のその言葉に、ウェルチは紺色の瞳を瞬かせることしか出来ない。
「でも、いざウェルチを目の前にしたら緊張して言えなくて……。どうしようって思ってたら、とーさんのプロポーズの話を思い出したんだ。……それで気付いたら、勇気の出る薬が欲しいなんて、口走っちゃってて……」
お酒のせいか、少しだけティオの口調が間延びしている。けれど、その言葉にこめられた気持ちが真剣だというのは、きちんと伝わってきて。
呆然とするウェルチに、ティオはそう言って淡く苦笑する。
「情けないよね。自分でも、そう思う。……でも、気持ちは本当だよ。今言った、僕の言葉に嘘はない。……きみのことが、すきなんだ……」
少しだけ怪しい呂律で、けれどはっきりとそう言うと、ティオはふわりと優しい笑みを浮かべた。その言葉に、ウェルチは何も返せない。呆然とティオを見つめるだけだ。
そんなウェルチの目の前で、笑顔を浮かべたままのティオの上体がぐらりと揺らいだ。そして、先程までウェルチが眠っていたベッドに倒れ込んでしまう。
ベッドに上半身だけうつぶせの状態になったティオは、すぐに安らかな寝息をたてはじめた。
「……え?」
ティオの言動と行動のすべてについていけなくて、ウェルチはぼんやりとまばたきを繰り返しつつ、ベッドに顔を埋めたティオを見下ろす。
ティオの何だか幸せそうで満足そうな寝顔を見つめているうちに、思考が少しずつ戻ってきて、ティオの言葉が心にしみわたっていく。
「……ええ?」
そうして、ゆるゆるとティオの言葉の意味を理解したウェルチは、紺色の瞳をこれ以上ないくらい大きく見開いた。
「えええええ?」
ウェルチは自分の頬に手を当てる。鏡を見れば、きっと今の自分の顔は赤いのだろう。熱のせいではない頬の熱さと速まる鼓動に戸惑う。
好きだなんて、そんなことをいわれても困る。けれど、困っているはずなのに、心のどこかが温かい気持ちになっている。
こんな風に浮心がき足立っているのは、心臓が高鳴っているのは、何でだろう。
自分がどうしたいのか、どうすればいいのか分からない。どうにもそわそわして落ち着かない。
「ど、どうしよう……。わ、わたし……どうすれば……」
小さな家にウェルチの困惑した声だけが響く。
ウェルチの戸惑いの心を作った原因は、やや不自然な体勢ながらも幸せそうな寝顔でベッドに突っ伏したままだ。
春に咲く花のごとく自分の中にほころびかけた感情の名を、ウェルチはまだ知らない。