第七話
ひやりと、額に冷たい何かを感じたような、そんな気がした。
ことこととお湯が沸き立つような音が微かに耳に届く。規則正しいその音は、とても耳に心地よく聞こえた。ゆっくりと目を開けたウェルチの視界に広がったのは、見慣れた自宅の天井で。
ああ、そうか。わたし、夢を見ていたんだ。そう思い至って懐かしい余韻に浸りかけたが、ふと目線だけを動かすと窓から射す光がまだ明るいことに気付く。
そもそも、南東向きのあの窓からあの角度で光が射すということは、時刻はまだ昼間ということになる。
ウェルチは数度瞬いた。
自分は何で昼間から眠っているのだろう。朝はちゃんと起きた気がするのだが、それも夢だったのだろうか。まったく状況が飲み込めず、もっと周囲を見ようと僅かに首を動かした。すると、額から白い何かが落ちる。
「……タオル?」
掠れた自分の呟きではっと我に返った。微睡んだままだった思考が、徐々に現実に戻ってくる。同時に、先ほどまでの出来事も思い出してきた。
そうだ。自分は確か、試練も兼ねてティオとともに森の奥に薬草の採取に向ったはずだ。その記憶は森の奥で薬草やハーブを摘んでいたところでぷつりと途切れている。
だったら、何で自分は自宅のベッドで眠っていたのだろうか。
「……えーと、あれ? ……わたし……?」
状況がよく分からないままゆっくりとベッドに上体を起こすと、がたんと何かを倒したような音が狭い室内に響いた。
「ウェルチ! よかった、気づいたんだね!? って、あああ! 椅子倒しちゃったっ」
声のした方向を見ると、台所に行こうとしていたのかこちらに半ば背中を向けかけたティオが、その状態で動きを止めていた。
ウェルチの小さな声に振り返った状態らしく、顔だけはしっかりとウェルチを見つめている。その足元には、ティオの言葉通り椅子が倒れている。
「……っていうか、まだ起きちゃだめだよ! 熱があるんだから!」
慌てたようなティオの声と言葉に、ウェルチはぼんやりとティオを見つめたまま、数度瞬いた。
「……ティオ、さん……? え……熱?」
「そう。……ちょっと待ってて」
そう言って、ティオは小走りで台所の方に消えた。そしてしばらくして、トレイにティーカップをふたつ乗せて持ってくる。仄かな甘い香りとカップから立つ湯気で、カップの中身はホットミルクだと分かった。
ティオはベッドの脇にあるサイドテーブルにトレイを置くと、そのうちのひとつをウェルチに手渡した。
カップを手に取ったウェルチは、喉がひどく渇いていることにようやく気付く。ふうふうと息を吹きかけてそっとカップに口をつけると、身体の中からじんわりと温まってくる。ウェルチは思わずほうっと息を吐いた。
ウェルチがホットミルクを飲んでいる間に、ティオは倒れていた椅子を直してベッドの側に運ぶと、その椅子に座る。そうして、ティオもカップを手に取ると、ホットミルクを飲みつつ話し始めた。
「……君は森の奥で薬草を取っている時に、倒れたんだ。……そのことは、覚えてる?」
「……はい。森の奥に行ったところまでは覚えています」
しばし考え込むようにしてから、ウェルチはこくりと頷く。そして、ふとあることに気付き、数度瞬いた。
「……もしかして、ティオさんがここまで運んでくれたんですか?」
「僕以外、他に誰かいる?」
ティオに苦笑気味に問われて、それもそうだとウェルチもまた苦笑した。
あの場にはウェルチとティオの二人しかいなかったのだから、倒れたウェルチを連れ帰ってくれたのはティオしかいない。一度森を出て助けを呼んだ可能性もないわけではないが、それならばこの家ではなく町の診療院に運ばれるだろう。
そんなことは考えずとも分かりそうなものだが、きちんと思考が働いてないあたり、確かに熱はあるらしい。
それにしても、まさかティオがウェルチを抱えてここに戻ってこれるほどたくましく成長しているとは思わなかった。
ウェルチの中のティオのイメージは初めて会った時の病弱な印象から変わっていなかったのだが、こういった出来事が起こるとティオも立派な成人男性なのだと認識を改めなくてはならない。
そして、認識を改めてみれば、どうしても森の奥で倒れた自分をティオが抱えて歩く場面を場面を想像してしまう。誰も見ていなかったとはいえ、その光景は想像するだけで何だか恥ずかしい。いや、もしかしたら負ぶってくれたのかもしれないしとも思ったが、お姫様だっこよりはマシとはいえ、どちらにしろ恥ずかしいことには変わらない。
そんな風に自分の感情が動くとは思ってもみなくて、ウェルチは慌てた。
そんなウェルチの様子が少しおかしかいと感じたのか、ティオが心配そうに首を傾げる。
「……ウェルチ? 大丈夫? 気持ち悪くなったとか?」
「え、えっと、あの、違うんです。大丈夫です。……ご心配をおかけしました。ありがとうございます」
よくよく考えてみれば、朝の眩暈も立ちくらみなどではなく熱のせいだったのかもしれない。それにしても、薬師なのに自分自身の体調管理すらも出来ないとは、情けないことのこの上ない。
ウェルチの言葉に、ティオはほっと安堵の息をつく。それからティオはまっすぐにウェルとを見た。
「ウェルチ」
表情を改めて強い調子でウェルチの名を呼んだティオの、今まで一度も聞いたことがないほど固い声音に、ウェルチは反射的に居住まいを正す。
「は、はい」
「どうして、こんな無茶したの。熱があるのに、あんなところまで行くなんて」
ティオが怒っているのだと気付いたのは、情けないことにその言葉の後だった。
熱で頭が回っていないというのはあるが、それ以上に今までティオから怒られたことが一度もなかったし怒ったところを見たことがなかったので、分からなかったのだ。
「ご、ごめんなさい。……熱があったの、気付いてなかったです」
言葉にしてみれば、より情けない気分になった。ウェルチはしゅんと項垂れた。
ティオが怒るのも当然だ。ウェルチだって、ティオや他の友達が似たような無茶をしたら怒るだろう。
「……薬師としても失格ですね、情けないです……。ご迷惑をおかけして、すみませんでした……」
ティオが小さく息をついた。ウェルチは項垂れたままでいたので、ティオがどんな表情をしていたのかは分からない。
「……でも、よかったよ。あそこで倒れたのが、僕が一緒にいる時で」
それは確かにその通りだ。もし一人で森に入った時に倒れても、助けてくれる人は誰もいない。あの場所に一人倒れたままで無事でいられるとは思えない。たとえ獣に襲われなくても、夜になれば凍えてしまうだろう。
そう思ったら、ぞっとした。
「ティオさん、ありがとうございました。……今後はもっと気を付けます」
「うん。そうして。……ウェルチは自分のことにちょっと無頓着な時があるから」
ウェルチが顔を上げると、ティオの表情が固いものから柔らかい微笑へと変化する。
ティオの言葉にウェルチは苦笑した。それは祖母にもよく言われていたことだった。
「……よくご存知で」
「それは……ずっと、見てたから」
「幼い時からの付き合いですものね」
ウェルチの言葉に、ティオの肩が目に見えてがくりと項垂れる。
何だろうこの反応はと疑問に思いながらも、ウェルチはよしっと顔を上げた。
ティオは優しい。けれど、この優しさはウェルチへではなく、彼が愛おしく思う女性へと傾けられるべきものだろう。
一抹の寂しさを感じながらも、ウェルチはホットミルクのカップをサイドテーブルに置くと、ベッドから抜け出した。
「ウェルチ? まだ寝てないとダメだよ!」
「そこにあるものを取るだけなので、大丈夫です。……当初の目的をお忘れですか?」
心配そうなティオに微笑みを向けてそう言いつつ、台所の冷暗所に向う。背後でわずかに首を傾げていたティオがあっと小さく声を上げた。
「勇気の出る薬っ!」
ウェルチが倒れたことに動転して、当初の目的をすっかり忘れ去っていたらしい。ティオの子どものような反応にウェルチは小さく笑いつつ、冷暗所から小さな瓶を取り出した。栓を抜き、中の液体を手近なグラスに注ぐ。
グラスに注がれた液体の色は仄かな赤だ。
ウェルチは小瓶を冷暗所に戻すと、グラスを大事そうに持って、ティオの元に戻った。
そして、グラスを差し出す。
「……これが、祖母が領主様にお渡ししたものです」