第六話
視界に映るのは何度も訪れ、見慣れたはずの領主の屋敷の一部屋。なのに、何故だろう。違和感を覚える。
特に変わったところはないのに、なにかがいつもと違うように感じるのは、何が原因なのだろうか。そう考えて、ふと気づく。自分の目線がいつもよりかなり低い。
「ウェルチ」
柔らかな呼びかけに顔を上げると、隣に立つ祖母とウェルチの視線が合った。目を細めて微笑む祖母を見つめながら、ウェルチはぼんやりと思う。
ああ。わたし、今、夢を見ているんだ。
ウェルチは時々、夢の中で「これは夢だ」と自覚できることがあった。夢だと自覚できるときは、過去の出来事を夢見ていることが多い。
幼い頃の自分の目を通して夢の世界を見ているのに、意識はどこか別の場所にあって思考しているような、そんな不思議な感覚。例えるならば紙芝居か演劇を見ているような感覚が近いだろうか。
これもそんな夢のひとつだと、そう気づく。
そんな夢の中だとしても祖母に会えて、その笑顔を見ることが出来たのは嬉しい。
けれど同時に、夢の中でしかウェルチが大好きな祖母の優しい微笑みを見ることは叶わないのだという現実を突き付けられる。
そして、祖母を見つめていると懐かしさと寂しさで胸が締め付けられて、切ない気分になった。
祖母の姿は半年前に看取った時よりも幾分か若かった。ウェルチが幼い頃の事のようだから、それも当然ではあるのだが。
これは、いつの出来事だろう。
寂しさを胸に抱きつつもそうぼんやりと思っていると、祖母は長いスカートをさばき屈みこんだ。そうして、幼いウェルチの顔を覗き込んで、目線を合わせる。
「……これは、ウェルチがぼっちゃまに出したのかい?」
そう言って祖母が指差したのは、まだ幼さの残る少年が両手に包み込むように持っているティーカップだ。そのカップにはお茶ではなくぬるま湯が入っており、そこからはほんの僅かではあるが清涼感ある香りが漂っている。
その香りの正体は、ユーカリのアロマオイルだ。
「うん!」
ウェルチは祖母の問いかけに力いっぱい頷いた。
「あのね、ティオくんのね、咳がとまらなくなっちゃったの! とっても苦しそうだったの。でね、おばあちゃんが咳にはユーカリがいいって、この前、わたしにお話ししてくれたでしょ?」
幼い自分のその言動に、ウェルチはこれがいつの出来事かすぐに思い当った。
十年ほど前。ウェルチが祖母に引き取られて森の奥に来たばかりの頃の出来事だったが、この日の事をウェルチはよく覚えている。
ティオに薬を調合していた祖母について町にやって来たウェルチが、ティオとはじめて出会った日だ。
祖母の後を着いて歩いて訪れた、領主の屋敷。
今まで見たこともない立派なお屋敷に驚きつつ通された部屋で出会ったのは、ふわりとした茶色の髪に銅褐色の瞳の、ウェルチと年の近そうな少年だった。ベッドに腰掛けて羨ましそうに外を眺めている、どこか線の細い印象の少年。その少年こそ、ティオだった。
両親と住んでいた町から森の奥に越して来て、年の近い子どもに会ったのはこの時がはじめてだったと思う。
この時からやや人見知りだったウェルチだが、それでも同年代の友達がいないのは寂しく思っていた。祖母とティオが話しているのを見ながら、このお兄ちゃんはお友達になってくれるかな、とどきどきしていたことを、今でも強く覚えている。
そして、祖母がティオの薬を煎じに席を外している間に、当時気管支を患っていたティオの咳が止まらなくなってしまったのだ。
目尻に涙を浮かべて激しく咳き込むティオの姿があまりに苦しそうで、ウェルチは何とかしなきゃいけないと思ったのだ。
薬を持ち歩く祖母の真似をしていくつかのアロマオイルやハーブティーをポシェットにいれていたウェルチがしたのは、ティーカップに注いだお湯の中にユーカリのアロマオイルを垂らすことだった。
祖母から、ユーカリのオイルは咳を和らげる効果があること、そして蒸気を吸入させる方法がいいということを教わっていたからである。
そして、それは何とか成功したらしい。完全に咳が収まることはなかったが、吸入を繰り返すことでティオの呼吸はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
そのことを一生懸命身振り手振りも加えて説明するウェルチの言葉を、祖母はうんうんと頷きつつ聞いていた。
「おばあちゃんが教えたこと、ちゃんと覚えててくれてたのかい?」
「うん!」
力いっぱい頷くと、祖母が嬉しそうに笑ってくれた。
「そうかい、そうかい。ウェルチ、よくやったね」
そう言って、祖母が頭をわしゃわしゃと撫でる。その言葉が嬉しくて、誇らしくて。でもどこか照れくさくて、ウェルチはそれを誤魔化すかのようにえへへ、と笑った。
祖母はウェルチを引き取ってから、自分の知識を惜しみなく与えてくれた。今思えば、この時からすでに自分が亡くなった後のことを考えていたのだと思う。
祖母が亡くなってウェルチが一人きりになっても、自分の力で生きていけるように。そんな願いを込めて、自分の技術や知識、持てるものの全てをウェルチに託した。それは、目に見えないけれどとても大きな財産だ。
祖母と孫のやりとりを眺めていたティオが、にっこりと笑う。その両手には、とても大事な宝物でも扱うかのようにカップを包み込んだままだ。
「ウェルチのおかげで、随分と楽になったよ~」
その言葉は、よく覚えている。そしてその後に続いた言葉がとても嬉しかったことも。
「ウェルチはすごいねぇ。おばあちゃんに色々と教わったことを、ちゃんとできるんだもん。頑張ってる証拠だね~。ウェルチは、きっといい薬師になるね。……ウェルチのおばあちゃんみたいな」
その時、既に祖母はウェルチにとって憧れの存在だった。
薬師としてよく働き、たくさんの人を助け、様々なことを知っている祖母を素敵で格好いいと思った。
両親に会えない寂しさを誤魔化すように始めた薬の勉強にも、本気で夢中になり始めた頃だった。
だから、祖母のようになれるというティオの言葉が嬉しかった。そして、祖母に教えられた知識でティオを助けられたことが、本当に嬉しかった。
「……ありがとう。ウェルチのおかげで助かったよ」
ティオの感謝の言葉に照れるウェルチの肩を、祖母がぽんぽんと優しく叩いた。
祖母に対しての憧れだけでなりたいなぁと漠然と思いはじめていた、薬師という職業。
けれど、ティオに感謝の言葉をもらって、初めて本気で薬師になりたいと思えた。自分の力で、人を助けられる祖母のような薬師になりたい。そう願った。
大きくなるにつれて薬師も人を助けるばかりじゃないと知ることになるのだけれど、それでもウェルチの目指すところは、幼い頃から何ひとつ変わらない。
自分の作る薬で、人を助けたい。自分の力で誰かを助けられる人になりたい。
そんな風に思わせてくれたのは、祖母ではなくティオだ。
幼い時のこの出来事がなければ、ウェルチはここまで真剣に薬師を志さなかったかもしれない。
ウェルチに確かな目標を与えてくれたこの日。ウェルチにとって、何よりも大切なこの日のことをティオは果たして覚えているだろうか。
懐かしい光景を夢見て、ふと、そんなことを思った。