第五話
森も奥の方になると日の射さない場所も多く、目的地までの道中はまだ雪が溶けていない箇所も多かった。なかなかに体力と集中力を必要とする行程だったと思う。
「ねっえ、ウェルチ……。こ、こんな雪ばっかりの状態で、薬草って生えてるのっ!?」
息を切らせているため妙なアクセントになりながら、ティオが不安そうにウェルチに尋ねた。
まあ、普通はこんな雪深い中に薬草が生えているとは思わないだろうから、ティオの疑問はもっともだ。
「大丈夫ですよ」
だが、周りが銀景色ではウェルチの言葉には説得力の欠片もなかった。事実、ティオも信じられないとでもいうような顔をしている。
「……着けば、分かりますよ」
そう言って、ウェルチは小さく微笑む。あの不思議な場所を見たら、ティオもきっと驚くだろう。
そして、ふたりは目的の場所に到着する。
「う、わぁ……!」
その場所を見たティオは、今までの疲れも忘れたかのように、感嘆の声を上げた。
予想通りの反応に、ウェルチは穏やかに笑う。
周囲を崖に囲まれた場所に、色々な種類の草花が生い茂っている。まだ雪深いこの時期でもそんな光景を見ることが出来るのは、その場所だけ雪がまったく積もっていないからだ。
その不思議な光景を、ティオは目を細めて見つめていた。
「森の奥にこんな場所があるんだね。……すごいなぁ」
日に日に温かくなっているとはいえまだ寒さを感じることも多い時期に、これだけ青々と草花が生い茂っている景色というのは、確かに珍しいだろう。ウェルチがこの場所に手を加えるのはほんの少し、雑草を抜いたりするくらいだ。ほぼ自然に任せてこの状態なのだから、すごい。ここだけ季節が違うのではないかと思わず錯覚してしまう。
ティオがほうっと感嘆の息を吐くのを聞きながら、ウェルチはそうですね、と頷いた。
「祖母が見つけた場所なんです。どんな季節でも草花が枯れることのない場所なんですよ。何でここだけそうなのかは、祖母にも分からなかったみたいですが……」
ずっと各地を放浪して薬師として腕を振るってきたため『流浪の魔女』とまで呼ばれていた祖母。彼女にこの国に永住することを決意させたのが、この場所の存在だったという話だ。
そう言うと、ティオが柔らかく笑った。
「研究熱心だったウェルチのおばあ様らしいね。……それにしても、不思議な光景だなぁ。何で雪が積もってないんだろう?」
足元を見て、ティオが首を傾げる。
「それも、調査中です。わたしも色々と調べているんですけれど……」
この場所の地面が他より温かいこと、そして土壌の栄養が豊富であることは分かっている。しかし、そもそもなぜこの場所だけ地面の温度が高いのか、土壌が豊かなのかなど、まだまだ分からないことだらけだ。本当に、不思議な場所だ。
「……まるで、何かに守られているみたいに見えるなぁ。この場所に魔法がかかってるみたいだね」
「……わたしも、そう思います」
ティオの言葉に、ちょうど今朝この森に対してそんなことを考えていたことを思い出した。柔らかく微笑んだウェルチを見たティオが、嬉しそうに笑う。
「よし! それじゃあ、薬草の採取しないとね。何を取ればいいの?」
「えーと、そうですね……」
ウェルチはきょろきょろと周囲を見回しつつ、ゆっくりと歩く。そして二種類のハーブを摘み取ると、それをティオに渡した。
「これとこれをお願いします。鞄に入っている袋いっぱいになるように。……棘がある草もありますから、怪我には注意してくださいね」
「うん、分かった」
ティオは素直に頷くと、ふと首を傾げた。
「……ウェルチから不思議な香りがするような気がする……」
「え!?」
内心どきりとしたが、何とか表情には出さずにすんだ。ウェルチは小さく首を傾げる。
「……そうですか? ティオさんとお会いする直前まで作業場にいたから……。ハーブの香りが移ったんでしょうか……」
「そうなのかな。……それにしては香りがきついような気もするけど……」
ウェルチは嘘をつくのが苦手だ。だからあまり突っ込まないでほしいと思いながら、ティオの言葉を否定し続ける。
「え、そうですか? この場所には色々なハーブが生えてますから、その香りじゃないでしょうか?」
「ええ~? ……うーん。そうなのかなぁ……」
やや納得のいかない様子でしばらく首を捻っていたティオだったが、まあそれほど気にすることでもないかと指示された薬草を摘みはじめる。
その様子をしばらく見守っていたウェルチは、ティオに気付かれないように微かに安堵の息を吐いた。
ティオに背を向けると、そっと胸元を抑える。すると、胸元から一瞬、強い香りが漂った。そこには首からぶら下げた匂い袋がひとつあった。獣除けに調合した、匂い袋だ。
ウェルチは、森に入る時はいつもこの匂い袋を持ち歩いている。
祖母直伝のこの匂い袋のおかげで獣に襲われる心配は少ないわけだが、これの存在が今ティオにばれてしまうのは都合が悪い。安全だと分かってしまえば、ティオを試す意味がなくなってしまう。
かといって、匂い袋を持っていかないという選択肢はなかった。ティオを危険な目に合わせるわけにはいかないし、万が一危機に陥ったらウェルチではティオを守ることはできない。
ティオの身の安全の確保が第一と思えば、匂い袋を持つのは当然の対応だ。けれど、同時にティオを騙しているということになる。そう思うと、罪悪感に胸が痛んだ。
だが、こういった薬を売る時に相手を試すというのは祖母から受け継いだ薬師としての方針だ。たとえ、顔なじみのティオが相手でも、崩すわけにはいかない。
祖母やウェルチが受けてきた数ある依頼の中には、貴族からの媚薬の依頼をはじめとした心に作用するような薬の調合依頼もあった。
そういった依頼に対して、貴族は得てして報酬に糸目をつけず依頼理由を語ろうとしない。どこか後ろ暗いところがあるからだろう。だから、祖母は金銭以外の部分で対価を求めるようになった。
その過程でのやり取りなどで、依頼人の人柄や依頼をしてきた理由を探り、見抜くのだ。
自分の調合した薬がどのように使われ、どのような結果をもたらすのか。それが分からないことには調合の依頼を受けない。それが己の仕事に責任と誇りを持っていた祖母の薬師としての姿勢だった。
自分の調合する薬が悪用される恐れもあると分かっていたからこそ、自分の仕事に責任を持つためにそう決めていたのだろう。
そして、その姿勢を貫く意思は祖母の背中を見て育ったウェルチの中にもある。
だから、ウェルチも祖母と同じように依頼人を試す。自分の仕事に責任を持ちたいというのもあるが、他人の心も自分自身の気持ちも、金銭を対価に手に入るようなものではないと、そう思うから。
「……でも、今回はちょっと、やりすぎだったかなぁ……」
薬草に伸のろのろと伸ばしかけた手を止めて、ウェルチは小さく呟くと、ため息を零した。
幼い頃から顔なじみであるティオの人柄は試すまでもなく、よく知っている。
出会った頃のティオは、体が弱くてすぐ泣く少年だった。
年下のウェルチがティオを慰める様子を見て、大人たちが苦笑しつつも微笑ましい視線を送っていたことを、今でもよく覚えている。
今はウェルチよりも背も高く、身体も丈夫な青年へと成長したティオ。けれど、その心根は全く変わっていない。小さかった頃と同じ。優しいままだ。
ティオはウェルチが調合した薬を悪用したりはしないだろう。もし、万が一そんな事態が来たとしても、優しい銅褐色の眼差しを辛そうに歪めながら、相談に来るに違いない。
ティオの様子を見れば、彼がどれだけ真剣かは分かる。別にここまでして試す必要はなかったかもしれない。
ティオは信頼に足る人物だと分かっている。だというのに、試さずにいられなかったのは何でだろう。
その時、ふとプロポーズをしたいのかと尋ねた時のティオの照れた表情が、脳裏に浮かんだ。すると、何だかもやもやが強くなる気がする。それは、自分の行動を後悔しているからだろうか。
「……勇気の出る薬、なんて……」
だが、ウェルチの言葉はそこで途切れた。
薬草に伸ばした手が、ぶれて見えた。かと思うと、視界が白くかすんで、身体がふらつく。
「……あれ……?」
何だかおかしい。うまくバランスが取れない。そう思った瞬間、上体がぐらりと傾いた。
「ウェルチー、これくらいで……ウェルチ!?」
焦ったようなティオの声を聞いたのを最後に、ウェルチの視界は暗転したのだった。