第七話
診療院の作業室の机にたくさんの紙を広げて、ウェルチは筆を走らせていた。けれど、次第にその動きがゆっくりとなっていき、ついに止まる。
まぶたがとろんと落ちて紺色の瞳が隠れる。そして、半ば無意識に机に突っ伏せようとしていた、その時だ。
「……失礼いたします。ウェルチ、今、大丈夫ですか?」
診療院の仮眠室を覗き込んだレティシアの声に、うたた寝をしかけていたウェルチの肩がびくりと震えた。
「ほあっ!? レ、レティシア様!?」
その反応に、レティシアは申し訳ないような表情をする。
「……ごめんなさい、寝ていたのね」
「いえっ! 大丈夫ですっ! どうかしましたかっ!?」
やや狼狽えつつ勢いよく立ち上がったウェルチは、レティシアが普段着のドレス姿ではなく旅装であることに気が付いた。
「……顔色があまりよくないですね。疲れているのではないですか? 休みなく働いているとジーナに聞きました。あなたが倒れては元も子もないのですよ?」
ウェルチの視線の意味には気付いているだろうに、レティシアはそんなことを口にする。旅装について尋ねようと思っていたウェルチは、予想外の人物の名前に目を丸くした。
「ジーナ、ですか? ……いつの間に、そんな話をするほど仲良く……」
その言葉に、レティシアは楽しそうに笑う。
「あら、意外ですか? まあ、そうかもしれませんね。……わたくしもそうそう町を出歩けませんから、ジーナに別荘に度々寄っていただいて、町の様子を話してもらっていたのです」
はじめて聞く話に、ウェルチは何度も瞳を瞬かせた。
「え……そうだったんですか……」
「ええ。……それで、体調はどうなのですか?」
再度問われて、ウェルチは微笑んで見せた。
「えと、体調は大丈夫です。……さすがに疲れてはいますが、そろそろ休めそうですから」
診療院にいる間も、栄養バランスのとれた食事と適度な睡眠は欠かさなかった。レティシアの言葉ではないが、治療を施す側が倒れては意味がない。
徹底的な予防も功を奏したのか、診療院で働いていた者達は誰ひとり罹患することなく治療をすることが出来た。
最初の患者が診療院に来てから、およそ半月が過ぎた。さすがに罹患者がゼロということはなかったが、それほどひどく流行することもなく、事態はほぼ収束している。
そうして時間的な余裕が出来たことで、少し気が抜けたらしい。記録簿を書いているうちに睡魔に襲われ、眠りに落ちかけていたのだ。
「それなら、いいのですが……。気を抜いたとたんに病気になったら、洒落になりませんよ。せっかく流行り病も落ち着いてきているのですから……。どうぞ、お体にお気を付けくださいね」
レティシアの気遣いの言葉に、ウェルチは微笑んで頷いた。
「ありがとうございます。……あの、レティシア様、その恰好は……」
「ああ、これですか? ……そろそろ、都に戻ろうと思いまして」
ウェルチにもお暇の挨拶をと思って参りました、とレティシアは綺麗な笑顔を浮かべて言う。
「え? 戻るのですか?」
「ええ。もともと、冬の滞在は二週間ほどと決めておりましたので。次の予定もありますし、そろそろ戻らねばならないのです」
「そうですか……。残念です」
ウェルチが表情を曇らせてそう言うと、レティシアは不思議そうに首を傾げた。
「あら? 残念に思ってくれるだなんて思いませんでした」
そう言ったレティシアの新緑の瞳が、意地悪そうに細められた。
「わたくしがいなければ、ウェルチは気兼ねなくティオ様とお付き合いできるのですし」
「う、ええええ!?」
予想もしなかった言葉に、ウェルチは奇声をあげてしまう。それを見たレティシアは口元を手で覆い、くすくすとおかしそうに笑った。
ふと、レティシアの表情がどこか神妙なものになる。
「わたくしは、ティオ様のことが気になっていました。だから、冬もこの町で過ごそうと思ったのです。……わたくしもきちんとティオ様のことを知って、出来ればティオ様にわたくしのことを好きになっていただければ……そう、思っておりました」
突然はじまったレティシアの話に、ウェルチは戸惑い、瞬きを繰り返す。レティシアの真意がさっぱり分からない。
「ただ、流行り病のことがありましたから……。十分に相手できなくて申し訳ないとティオ様には謝っていただきましたけど、事情が事情ですし、そんなことで怒りを覚えるほど小さな人間ではないつもりです」
そう言ってから、レティシアは深く大きなため息をついた。
「……けれど、あの方は一体何なのでしょう!? ウェルチはすごいだとか心配だとか、口を開けばウェルチのことばかり。……もう、ここまで徹底してウェルチの事ばかりだと、呆れるしかありません」
「…………」
言葉の内容になんと反応すればいいのか分からない。ここは黙っておくほうが賢明だろうと、ウェルチは口をつぐんだ。
あまりにも無神経だが、ティオもやはり恋愛方面では鈍いのだろう。でなければ、自分に好意を寄せてくれている女性の前で他の女性を褒めるような言動をするはずがない。普段は気遣いの出来る好青年のはずなのだが。
「あれはもう、お馬鹿さんとしか言いようがありません! ウェルチ馬鹿です!」
そう力いっぱい言い切ったレティシアは、ほうっと息をついた。そうしてすっきりした表情でウェルチを見て、晴れやかに笑う。
「なので、わたくしはヘタレなあの方を振ることにしました。あとは、あなたが責任を取ってくださいな。馬鹿につける薬はないといいますけれど……あなたは腕の良い薬師なのでしょう?」
「…………え?」
レティシアの話に何だか頭がついていかない。
お嬢様がヘタレとか言っていいのだろうか、これもジーナの影響だろうとかと、半ば現実逃避気味なことを考えつつぼんやりと聞き返すウェルチに、レティシアはつんと顔をそむけた。
「二度は言いません。……さすがに、そこまで親切にする気にはなれませんから」
そう言って、レティシアはウェルチに向き直ると、鮮やかに笑った。
「……それでは、わたくしはそろそろ行きますわ。ウェルチ、ごきげんよう。今度、お茶の依頼をしますから、よろしくお願いしますね」
そう言ってレティシアは綺麗に礼をすると、ウェルチの反応を待たずにさっさと仮眠室を出て行ってしまう。
ウェルチは呆然とした表情で風のように去っていったレティシアを見送りつつ、先ほどの言葉を脳内で反芻した。
レティシアが、振ると言っていた。誰を?
半ば眠りかけていた脳に、レティシアの言葉が徐々に染みわたっていく。
「……えええええ?」
数分かけてようやくレティシアの言葉の意味を理解したウェルチの間の抜けた声が、作業室に響き渡った。




