第二話
「……噂をすれば何とやらってやつね……」
ジーナの小さな呟きを聞きながら、ウェルチは努めて冷静にティオを見た。
顔を見るのも声を聞くのも久しぶりで、ひどく緊張して、胸が高鳴る。浮き立ったこの心がどうかティオにばれませんようにと思いながら、ウェルチは小さく息を吸って、席から立ち上がった。
笑顔が強張らないかが心配だったが、思ったよりも自然に微笑むことが出来た。
「……お帰りなさい、ティオさん。戻ってきていたんですね」
「うん、ただいま。今、帰って来たところなんだ。……やっぱりウェルチはここにいたね。よかった、会えて」
心底安堵したようなその様子が、単純にウェルチやジーナとの再会を喜んでいるようには見えない。
それに、よく見ればティオは旅装のままだ。町に着いてから自宅にも寄らず、まっすぐにこのカフェにやって来た、ということらしい。
何かがおかしい。ウェルチは小さく首を傾げた。
「……何か、ありましたか?」
「うん。都で、ちょっと気になることがあったんだ。院長先生とウェルチには知らせた方がいいことだと思って」
この町で院長先生と呼ばれる人はひとりしかいない。この町唯一の診療院の先生だ。そんな人とウェルチには知らせた方がいいと思うことが、都であったという。
ティオのその言葉の意味に気付いたウェルチの瞳が、途端に詳しく細められた。
「……都で、何か気になることがあったということは……流行り病かなにかですね?」
半ば確認するような問いかけに応じるかのように、かつんと靴音が響く。
「……都で風邪によく似ている病が流行しているのです。その病気がこの町でも流行るのではないか、とティオ様は懸念していらっしゃるのですわ」
鈴の鳴るような美しいその女性の声を、ウェルチは知っていた。驚きに目を見開き、カフェの出入口に再び視線を向ける。
開け放たれたままの戸の近くに、この庶民的なカフェには似つかわしくない、薄茶の長い髪を綺麗に巻いた新緑の瞳の美少女が立っていた。
「レティシア様!?」
ウェルチに呼ばれたレティシアは、物珍しげにカフェを見回しながら、ウェルチ達の方に歩み寄ってくる。
「ええ。お久しぶりですね、ウェルチ。……あなたは、ウェルチのお友達かしら?」
レティシアに視線を向けられたジーナは少し緊張した様子で立ち上がった。
「はい。ジーナと申します」
「わたくしはレティシアです。どうぞお見知りおきくださいませ」
ジーナに綺麗な笑みを見せたレティシアは、ウェルチに向き直る。黙って思考を巡らせていたウェルチは、レティシアの視線を受けて顔を上げた。
「……風邪に似た病、ですか。風邪ではないのですね?」
「ええ、風邪とは似ているが違うものだと都のお医者様からは聞きました。……突然、高い熱が出るという症状があるそうです」
「……突然、ですか?」
ウェルチは医者ではないからおいそれと判断は下せないが、それは確かに風邪とは違うように思える。
風邪の多くは症状の経過は緩やかなものだ。突然高熱を出すというような症状もないわけではないが、たいていは咳や鼻水など初期症状があり、そこから熱を伴うことが多い。
いきなり高熱を出した人が多数いたというのなら、確かに都では風邪に似ているけれど風邪ではない病が流行っているのだろう。
「うん。あと全身がだるくなったり、食欲がなくなったりするみたい。……院長先生には、国の医師会から連絡がいってるかもしれないけど、ウェルチは独立した薬師だから、そういう情報がすぐにはこないでしょ? だから、直に聞いてきた僕から伝えた方がいいかもしれないと思って。そうすれば、院長先生とも連携が取りやすいだろうし」
それで、この町に帰って早々、ウェルチがいそうなこのカフェに寄ったというわけか。
ウェルチは、小さく唸った。
「そう、ですか……。そういうことなら、わたしはこれから院長先生の所にお伺いしようと思います。今のところ院長先生からは何も聞いてはいませんが、今ならなにか病について連絡が届いているかもしれませんし」
ウェルチの言葉に、ティオはひとつ頷いた。
「僕も行くよ。父にも報告しなきゃいけないし、院長先生のお話を聞いておきたいんだ」
「分かりました」
真剣な表情で会話を交わすウェルチとティオの間には、当然のごとく恋愛めいた雰囲気など欠片もない。
ウェルチもは現在、完全に薬師モードになってしまっている。ティオがカフェに入って来た時は緊張していたようだったのに、今はそんなこともすっかり忘れ去っているのだろう。
ジーナはこっそりと肩を落とした。そんな場合ではないことは分かっているのだが、それでも落胆してしまうのだから、仕方がない。
そして、そんなふたりを静かに見守るレティシアに、そっと声をかけてみた。
「……レティシア様は、ティオ様のこと、好きなんですか?」
空気が読めていないうえに場違いな質問であることは分かっているが、こんな時でもなければ、このご令嬢と話す機会など二度とないに違いない。
貴族の令嬢が町娘のくだらない問いにきちんと答えてくれるとは思えないが、だからといってこの機会を逃すのはあまりに惜しい気がした。
率直な質問に、レティシアはちらりとジーナを見た。
「……ああ、町でも噂にもなっているでしょうし、あなたも知っているのですね。ティオ様がわたくしの婿候補の一人だと」
そう小声で言ってから、レティシアはふわりと微笑む。
「その質問には……残念ながら、まだお答えすることはできません」
ジーナはぱちくりと瞳を瞬かせた。
「……まだ、ですか?」
「ええ。……まだ、わたくしの気持ちも、質問にはっきりとお答えできるほど固まってはおりませんので。……ただ、気に入っている、気になっている男性のひとりがティオ様であるのは、確かです。……わたくしの父と母は、わたくしが好意を持った男性の中から婿を決めたいと言っておりますので、そもそも気に入らなければ婿候補にはなりえないのですけれど」
レティシアの小声だがはきはきとした返答に、ジーナは驚きに目を見開いた。真面目な返答を貰えるとは思ってもみなかった。無視されるかもしれないとすら考えていたのだ。
「……具体的にティオ様のどこが気に入ったのか、聞いてもいいでしょうか? あの人、自他共に認めるヘタレ、じゃなくって……えっと、情けない人ですよ」
ジーナの言葉に、レティシアはくすりと笑った。
「あなたは、率直な人ですね。ずいぶんとものをはっきりと言うのに嫌な感じがしないのは、嫌味がないせいかしら……。わたくしの周りにそういう人はいないから、何だか不思議に感じます。……ウェルチには、ウェルチのことをまるで自分のことのように気にかけてくれる、素敵な友人がいるのですね。……とても羨ましいですわ」
そう言って目を細めたレティシアの瞳には、羨望の色が見えた。最後の言葉は、お世辞でもなんでもなくレティシアの本音だったのだと伝わってくる。
貴族は面倒な礼儀やしきたりが多いとは思っていたが、身分が高くなると友人を作ることすら小難しくなるのだろうか。
レティシアの言葉にどう返せばいいのか分からずジーナは押し黙ってしまう。そんなジーナの態度に失言をしたと気付いたレティシアは、小さく咳ばらいをした。
「……ごめんなさい、関係のないことを言いました。お忘れくださいな。……ティオ様が少し頼りない方であることは、わたくしも分かっています。けれど、同時に勇敢なお心を持っていらっしゃることも、とてもお優しい方だということも、知っています」
レティシアのその言葉に、彼女の侍女を助けたのはティオだったということを、ジーナは思い出していた。
「……ティオ様のことを、原石のような方だと、わたくしは思っているのです。だから、あの方のことが気になるのです」
「……原石、ですか?」
一応問い返しては見たものの、ジーナにはレティシアの言いたいことがおおよそ分かっていた。
「ええ。磨けば光る原石。……わたくしが磨く、というのも素敵だと思いません?」
そう言って浮かべたレティシアの微笑は、ジーナでさえ息を呑むほど美しかった。
そして、ヘタレと言われた当人たちは、この後についての打ち合わせに集中するあまり、今のふたりのやりとりに全く気付いていなかったのだった。




