第六話
レティシアの満面の微笑みを前に、ウェルチは口元が引きつりそうになるのを必死でこらえていた。
何だろう。レティシアの笑顔はとっても綺麗だ。なのに、怖い。
さっきまではそんな空気など微塵もなかったはずなのに。あの穏やかな雰囲気は、いったいどこに行ってしまったのだろうか。
それでも、仕事はきっちりとこなさなければならない。客人として招かれたとはいえ、ウェルチは仕事の依頼を受けてここにいるのだ。
「わたしも、レティシア様にお会いできてとても嬉しいです」
にっこりと笑顔を浮かべてそう言うと、肩掛けの鞄から持って来たお茶を取り出し、テーブルの上に並べた。
少し冷ややかな色をしていたレティシアの瞳が、興味深そうに輝いた。お茶に対する興味は本当なのだろう。ウェルチはひとつひとつ手に取って、丁寧に説明をしていく。
レティシアが小さく首を傾げ、ぽつぽつと質問をしてくる。ウェルチはその問いかけにも丁寧に答えた。
ただそれだけの単純な作業なのに、場の空気は先ほどから張り詰めたままだ。なんとも気疲れする予想外の事態に、ウェルチはただ困惑するしかない。
ジーナに鈍いと指摘され、自分でも鈍い自覚はあるが、さすがにこれは分かった。
もしかして、もしかしなくとも。これはレティシアに牽制されているということではないだろうか。
そもそもわたし自分の気持ちすらよく分かってないんですなどとこの場で言えるはずもなく、ウェルチは内心冷や汗を浮かべつつ、何とか笑顔を保っている。
一体、ティオはレティシアにどんな話をしたのだろう。
少なくとも、レティシアはティオを気に入っていて、そのティオがウェルチを気にかけていることは分かっているのだ。
もしかしたら、ティオのウェルチへの恋心にも気付いているのかもしれない。
でなければ、こんな風に牽制される理由が分からない。
ウェルチの説明を受けて、レティシアはいくつかのハーブティーを選んだ。
「ハーブティーってこんなに種類があるのですね。恥ずかしながらわたくし、先日までマローブルーというお茶を存じ上げませんでしたの。今日は、とても勉強にになりました。興味深い時間を過ごさせていただきましたわ。感謝いたします」
ハーブティーの袋を両手で包み込むように持って微笑むレティシアの言葉は、本心からのものに思えた。
「ハーブティーはたくさん種類がありますし、カモミールなどの有名なものと比べると、マローブルーは知られていませんからね。レティシア様がご存じないのも、無理はありません」
ウェルチは営業用の笑顔を浮かべたまま、残ったハーブティーを鞄にしまった。
「……本日はありがとうございました」
頭を下げてそう言うと、レティシアはにこりと笑った。
「こちらこそ、お礼を申し上げなければなりません。……わたくしはしばらくこの町に滞在する予定です。どうか、また遊びにいらしてくださいね」
疲れるから謹んで遠慮したい。そんな本音を飲み込んで、ウェルチはにこりと笑みを浮かべる。気を抜いたら笑顔が引きつりそうだ。
空いたままの窓から、強い風が吹き込んできた。外からの強い風を受けて、レースのカーテンがふわりと大きく膨らむ。
「……風が、強くなってきましたね」
「そうですわね。風に冬を感じるようになってきましたわね」
「はい。……もう直に、この町にも雪が降り始めますよ」
「ああ、もうそんな季節なのですね」
そんな他愛もないやりとりをしてから、ウェルチは暇の挨拶をしようと立ち上がり、レティシアに向かって頭を下げる。
「それでは、わたしは――……」
だが、ウェルチは途中で言葉を飲み込むことになった。女性の悲鳴が、屋敷に響き渡ったからだ。
何事かとウェルチとレティシアは思わず顔を見合わせる。その間に、ばたばたとこの部屋に足音が近づいてきた。
「――お嬢様!」
そしてノックもなく慌ただしく開かれた扉と駆けこんできた侍女の姿に、レティシアは不快そうに眉をしかめた。
「何です、お客様の前で騒々しい」
「も、申し訳ございません!! ですが、お嬢様! お逃げください!」
「え……?」
その言葉にウェルチが表情を険しくし、レティシアが小首を傾げる。レティシアの反応に、侍女は焦ったように叫んだ。
「火事です! 一階が燃えているんです!! 早く、お逃げください!!」
「えっ……!?」
動揺した様子のレティシアの動きが止まる。ウェルチは鞄を肩からかけると、レティシアの手を取った。
「行きましょう! レティシア様!」
「ウェルチ……!」
有無を言わさずにレティシアを引っ張って、ウェルチは部屋の外に出た。
途端に焦げ臭いにおいが鼻についたが、とりあえず見える範囲に火の手はなさそうだ。ウェルチは空いている方の手で鞄からハンカチを取り出しながら、後ろを振り返る。
「レティシア様、ハンカチとか、口を覆えるような布はお持ちですか?」
「え……」
事態についていけないのだろう。どこか呆然とした様子のレティシアがぼんやりとウェルチを見る。その手にぎゅっと握られているのは、先ほどウェルチが渡したハーブティーのみだ。ハンカチを持っているような様子はない。まあ、別荘とはいえ自宅にいるのだから、ハンカチを持ち歩いてなくても、何らおかしくないのだが。
「レティシア様、これを」
予備のハンカチなんてもってたかしと思う前に、侍女がポケットに入れていた白いハンカチを取りだし、レティシアに差し出した。
「……あり、がとう……」
呆然と受け取ったレティシアに、ウェルチはそのハンカチで口と鼻を覆うように言う。どれくらいの規模の火事かは不明だが、煙など吸わない方がいいに決まっている。用心に越したことはない。
そして、ウェルチは侍女を見た。
「あなたもです。他になにか口元を覆える物はお持ちですか?」
「わたしはこれで大丈夫です」
侍女は自分がつけていたエプロンの端を思い切り引き裂き、その布で口元を覆う。そして、ウェルチ達を先導するように走り出した。
別荘の内部はだいぶ煙が充満しているが、ウェルチ達がいた部屋は出火元からは離れているらしい。特段危険な目にもあわず、火傷ひとつ負うことなく三人は別荘の外に出る。
ウェルチ達から少し遅れて、屋敷に待機していたらしい侍女たちが飛び出してくる。
少し離れた場所の窓ガラスがぱりんと割れ、窓から炎が噴き出す。それを見た侍女たちが悲鳴を上げた。完全に混乱しきった様子の侍女たちに、ウェルチの紺色の瞳が険しく細められた。このままでは、被害が拡大してしまうかもしれない。
「誰かっ……消防団へ、通報しましたかっ!?」
状況を確認しなければならない。声を張り上げて尋ねるウェルチに、侍女の一人が怯えた様子で頷いた。
「ちょうど、ひとり、男性の使用人が戻って来たので、その者に……」
その様子を呆然と見つめていたレティシアが、ゆっくりと別荘に視線を向け、糸が切れたようにがくりと地面にくずおれた。そして、細い両手で顔を覆う。
「どうして、こんなことに……」
侍女の誰かが燭台が倒れたんです、と呟いた。今日は空気が乾燥しているし、風が強い。何かに燃え移ればあっという間に燃え広がってしまうだろう。
ふと、レティシアが顔を上げ、周囲を見回す。
「……エレン?」
レティシアがぽそりと呟いたその名前に、ウェルチははっと顔を上げて辺りに視線を巡らせた。
足の不自由な年配の侍女の姿は、見渡せる範囲にはどこにもない。
「エレンは……エレンはどこ? 誰か、エレンを見まして!?」
レティシアが立ち上がって叫ぶ。だが、侍女の誰もが首を横に振るだけだ。
そして、侍女の中のひとりがあっと声を上げた。
「た、確か、休憩室に入っていかれたのを見ました……」
それを聞いたウェルチは肩に掛けていた鞄から防寒用のケープを取り出すと、鞄を放り投げた。ケープを手にしたまま視線を巡らせる。こういった屋敷には、防火漕も兼ねて噴水があったりするものだ。
目当ての噴水を見つけたウェルチは、ケープを抱えて噴水へ走る。
そしてケープを噴水の水に浸した。水はかなり冷たいが、今はそんなことを言っている場合ではない。事は一刻を争うのだ。
ウェルチの一連の行動を目で追っていたレティシアが口を開く。
「……ウェルチ?」
「休憩室はどこですか? 出火元から近いのでしょうか?」
レティシアが何をしているのかと暗に問いかけているのは分かったが、それには応じず、ウェルチは侍女に尋ねる。
消防団の到着を待っていたら、手遅れになる。急がなければ。
「ええと……」
侍女の説明を聞きながら、ウェルチは水をたっぷり含んだケープを身にまとおうとした。その時だ。
「何しているの、ウェルチ。……火傷したらどうするんだ」
横からひょいとケープを奪われる。かけられた声はいつもの穏やかな調子とは違って、強張っていた。
ウェルチははっと顔を上げる。
「ティオ、さん……?」
「取り残された人がいるんだね? どこ?」
険しい表情で問いかけながら、ティオは自分の頭上でケープをぎゅっと絞った。その水を頭からかぶり、全身を濡らして、もう一度ケープを水に浸す。いつものほんわかとした穏やかな雰囲気はどこにもない。
いつもとは別人のようなティオの様子にウェルチが息を呑んだのは一瞬だった。そして、躊躇わずにティオの質問に応じる。
「休憩室です。足の不自由なおばあさんが、そこにいるようです。場所は……」
「大丈夫。父上について、何度かこの別荘に来たことがあるし、こういう別荘は造りはどこも大抵一緒だから、だいたいは分かるよ。……ウェルチはここをお願い」
そう言うと、ティオはウェルチの返事も聞かずに、びしょ濡れのケープを抱えて別荘へと駆けていく。その足取りに少しの迷いも見えなかった。




