第四話
夜の帳が降りると、月明かりも届かない森の中は穏やかな暗闇に覆われる。その闇の中で微かに光を放っているのは、ウェルチの家の窓から漏れる室内の明かりだ。
「……ふう」
紅茶のカップをテーブルに置いて、ウェルチは小さく息をついた。
夕食も食べ終わったし、そろそろ食器の片づけをして眠る準備をしなければ、と思う。明日の朝も早いのだ。身体も疲れているし、そろそろ眠気を感じてもよさそうなものなのだが、目は完全に冴えていた。
困ったなぁと再度ついたため息は先ほどよりも大きくて、静かな部屋にいやに大きく響く。
ずっと浮かない気持ちが続いている。日中にジーナから話を聞いて、それからずっとだ。
ティオが、貴族の娘達の婿候補に挙がっているという。ティオは夏頃から、それが目的と思われるパーティーに幾度か招待されているらしい。今回の急な客というのも同じ年頃の娘がいるというのなら、もしかしたら顔合わせを兼ねているのかもしれない。
あくまで噂話よと念を押しながらもジーナが話してくれたのは、ざっとこんな内容だった。
聞いた時は衝撃を受けたものの、少し考えてみればそれは当然のことだと思った。ティオは貴族の家の三男坊で、しかも成人している。そういった話のひとつやふたつ、あってもおかしくはない。
夏頃から、ティオがずっと忙しそうにしていることは知っていたものの、そんな理由があったとは考えもしなかった。
ティオに聞けば答えてくれたのかもしれない。けれど、春から夏にかけてはウェルチとティオの関係がぎくしゃくしていて聞ける状況ではなかったし、関係改善以降は、ウェルチ自身が秋の繁忙期の下準備で忙しくなってしまっていて、ゆっくりと話す時間が取れなかった。
知らなかったことも、知る機会がなかったことも仕方がないと思う。ただタイミングが悪かった、それだけだ。ティオの置かれた状況だって、貴族という立場を考えれば当然のことで、不思議はない。
そう分かっているのに、何故か気持ちが落ち着かず、もやもやとしている。
何で、こんな気持ちになるのだろう。その理由が分かれば少しはすっきりするのに。
「……答えを出すっていう約束が、守れなくなるかもしれないから……?」
ぽつりと、思いついたことを呟いてみる。
言葉にしてみてはじめて、それはあるかもしれないと気付いた。もし、ティオの縁談がまとまるようなことがあれば、ウェルチがティオの告白に答えを出す必要もなくなるし、返事をする機会も失われるだろう。
果たせなくなるかもしれない約束が気にかかっているというのは、ある。守れない約束はするなと生前の祖母に言われていたから、もやもやする理由のひとつではあるだろう。
けれど、こんなにも心が晴れないのは、それだけが原因だろうか。それ以外にも何かが心に引っかかっているからこそ、こんなにももやもやするのではないだろうか。
そんな風に思い悩みつつも紅茶のカップを再び手に取ると、そっと口をつけた。
ティオの現状を納得しているはずなのに、こんな風にずっと悩み続けているのだから、自分は思っていた以上に衝撃を受けているらしい。
もやもやとしつつも、どこか冷静にそんな分析をしている自分がいる。
祖母に、きちんと考えてから行動するようにと言われて考える癖がついているというのもあるが、ひとりきりでいるとつい思考に耽ってしまうというのも事実だ。周囲が静かなので、よくも悪くも思考がはかどる環境なのだ。
ジーナと話していれば、少しは楽なのかもしれないとは思う。この時期でなければ、ジーナの家に泊まって、色々と話し込んでいたことだろう。
だが、繁忙期のこの時期は商品が品薄になりがちなので、そうもいかない。家に帰って、薬を調合したり、明日町に行く準備をしたりとなかなか忙しいのだ。生活がかかっているのだから、なおさら頑張らなければいけない。
ウェルチは、もう幾度目だかも分からないため息をつくと、カップに残った紅茶を一気に飲み干した。
いつまでもこうしていても埒が明かない。
「……いいかげん、片付けよう」
小さく呟いて、食器を片づける。自分の分だけなので、そう時間もかからず食器を洗い終えたウェルチは、ふきんでテーブルを拭いていた。
その時だ。
こんこん、と静かな部屋にノック音が大きく響いた。ウェルチはふと顔を上げ、玄関の方を見る。
こんな遅い時間に来客もないわけではない。時には診療院からの使いが来て、急患のために薬を処方しに行くこともある。だが。
「――……夜分遅くに失礼します。こちらはリコの森の魔女殿のお宅で間違いありませんか?」
その言葉と、聞き覚えのない若い男性の声に、ウェルチはきゅっと眉を寄せた。
町の人は、ウェルチを二つ名では呼んだりしない。つまり、戸の向こうにいるのは、町の者ではないということになる。
「……どちら様でしょうか?」
やや低めの声を意識しつつそう応じると、戸の向こうから返答があった。
「警戒されるのは無理もないと思います。ですが、わたしは怪しい者ではございません。……アルバート伯爵家に仕える者です」
「アルバート、伯爵……」
小さくそらんじたその名前に、ウェルチは目を丸くした。その名に聞き覚えがあった。
確か、昼間にティオの家に急に来ることになった客の名が、アルバートではなかっただろうか。
「……何か、ご用でしょうか?」
そう言いながら、ウェルチは鍵を外して戸を開ける。やや不用心な対応だとは思う。相手が伯爵家の名を騙っている可能性もゼロではないからだ。
だが、こんな夜にわざわざ森の奥まで来て伯爵家の名を騙る意味もないように思われた。
戸を開けた先にいたのは、ウェルチと同じ年頃だろうか。やや幼さの残った顔立ちの少年だった。
戸が開いたことに安堵したのか、少年の表情が一瞬だけ緩む。だが、すぐに使用人の顔になると、深々と一礼し、ウェルチに一枚の封書を差し出した。
「どうぞこちらをお納め下さい」
真っ白な上質の紙で出来た封筒に、ウェルチは困惑する。
「ええと……わたしに、ですか?」
「はい。当家のご令嬢であるレティシア様より、あなたへの手紙を預かって参りました」
「え?」
ウェルチは少年から封書を受け取ると、裏面を返した。
立派な封蝋が押されており、繊細で綺麗な文字でレティシア・E・アルバートと書かれている。
「美味しいお茶を作っているあなたに、本日のお礼を申し上げたい、とのことです。そして、ぜひ頼みたいことがある、と」
どうぞ、今お読みください。そう言って少年は深々と頭を下げる。
「……」
頭を下げたままのこの少年は、ウェルチが手紙を読み、令嬢の頼みたいことに対しての返事を聞くまでは、この場を動くことはないのだろう。
ウェルチは無言で封を開けて、中から便箋を取り出した。そこには、やはり洗練された繊細な文字が並んでいる。
領主宅で出されたお茶に感動した。あのように美しいお茶は初めて見た。味も見た目にもとても楽しむことが出来、素晴らしい時間を過ごすことが出来た。出来ればもっとあなたのお茶を飲みたい。なので、もしよければ明日の午後にでもアルバート家の別荘に来てもらえないだろうか。
簡単にまとめると、手紙はこんな内容だった。
ウェルチは顔を上げて、レティシアからの使者の少年を見つめる。
「……レティシア様に、お伝えいただけますか? 明日の午後、おすすめのお茶をいくつか用意して別荘をお訪ねします、と。……本来ならば、わたしからもお手紙をしたためるべきなのでしょうが、このような口頭での返答になるご無礼をお許しください、とも」
「かしこまりました。……急なお願いをしているのはこちらです。引き受けていただき、感謝いたします。お嬢様に替わりましてお礼申し上げます。……それでは、わたしはこれにて失礼いたします」
頭を下げて踵を返そうとする少年を、ウェルチは呼び止めた。
そして、夜の森は危険だからと念のために獣除けの匂い袋を持たせる。暗い森の中を、手に持った明かりだけを頼りに歩く少年の背中が闇にまぎれるまで見送ったウェルチは、戸を閉めてかちゃりと鍵をかけると、深いため息をついた。
今日、領主宅を訪れた伯爵の娘。つまり、ティオのお嫁さん候補の女性に会うことになってしまった。仕事の依頼を受けた以上断ることも出来ないし仕方がないのだが、正直にいえば気が重い。
もう一度、レティシアの手紙に視線を落とす。香りづけをしてあるのだろう。真っ白な便箋からは仄かに甘い香りがした。




