第五話
ティオを追って駆けていくウェルチの背がどんどんと小さくなっていく。
普通に考えたら、女が全力で逃げる男を追いかけても追いつくことは難しいだろうが、その辺はウェルチとティオだ。
ウェルチは小さい頃から森暮らしで体力があり、足腰は頑丈。対するティオは小さい頃は病弱で、丈夫になった今でも運動は苦手なようだ。そして、ウェルチは鞄をここに置いていってるので身軽だが、ティオは何か重そうな荷物を持っている。総合的に考えてもウェルチに分がある気がするから、まあ追いつけるだろう。たぶん。
大雑把にそんなことを考えつつウェルチを見送ったジーナは、肩にかかった赤茶の髪をはらうと両手を腰に当て、大きく息をついた。
「まーったく! 本当に手のかかる二人なんだから! 困っちゃうわよねぇ」
呆れたような口調でそんな風に言うジーナの口元には、苦笑が浮かんでいる。
今のこの状況は、とても鈍くて不器用なあのふたりらしいと言えばふたりらしくて、呆れるよりも先になんだか微笑ましい気分になってくる。
「……さて」
ジーナは一人テラス席に腰を下ろすと、だいぶ氷が溶けかけてきたアイスコーヒーにゆっくりと口をつける。
そして、先ほどまで向かいの席に座り、どこかおどおどと恋愛相談をしていたウェルチの姿を思い出していた。その姿は、十年ほど前のはじめて会った頃のウェルチを思い出させた。
ジーナとウェルチが出会ったのは、ウェルチが森の奥に引っ越してきた十年前だった。
あとあと聞いたとことによると、その日は薬師の仕事をする祖母のあとをついて歩き、初めて領主の家に訪問した日の帰りだったらしい。
ジーナの家のはす向かいがお菓子屋で、ウェルチとウェルチの祖母はそのお菓子屋に立ち寄っていた。そして、偶然そのお菓子屋の前を通りかかったジーナがウェルチに声をかけたのが、はじまりだった。
何でウェルチに声をかけようと思ったのか。そのきっかけは、さすがに覚えていない。
たぶん、見たことのない女の子がいるのが珍しくて興味を持ち、声をかけたのではないかとは思う。近所の同い年くらいの子はみんな知り合いだったので、知らない子がいたら、物珍しく感じたはずだ。
それでいてウェルチとのやりとりは、わりとしっかりと記憶していたりするのだから不思議だ。ジーナは緩やかに目を伏せる。その脳裏には、十年前の出会いが蘇っていた。
◆ ◆ ◆
「……あなた、はじめましてよね? どこの子?」
いつもの駄菓子屋に、初めて見る同い年くらいの女の子がいた。その子にそう尋ねると、その少女は一瞬びくっとして祖母らしき人のスカートに隠れかけた。けれど、同じ年頃のジーナの姿を見て、隠れるのを留まった。
「……あ、あの、わたし、森の奥から来たの」
おどおどとしながら、それでも少女はそう答える。ウェルチの祖母が、そんな孫の様子を見て、少し困ったように笑っていた。
ジーナは一瞬首を傾げたものの、すぐに町の人や両親がしていた話を思い出して、あっと声を上げた。
「森の奥って……もしかして、薬屋さんのおうちの子?」
「うん。薬屋さんはわたしのおばあちゃん」
こくんと頷いたウェルチは、幾度かのやりとりでようやく緊張を解いたらしい。先程のおどおどした様子はだいぶ薄れている。
森の奥に住むおばあさんがいること、そしてそのおばあさんがすごい薬屋さんであることは、この町では有名な話だから、ジーナもその薬屋さんの話は知っていた。
薬屋さんの作る薬がよく効くらしいこと。そして、最近やって来たらしい薬屋さんの孫が、お父さんとお母さんを亡くしたらしいことも。
ジーナは、ウェルチとお菓子屋さんの棚を見比べる。
「……お菓子を買いに来たの?」
「うん。……おばあちゃんが、ひとつ買っていいよって……」
ごほうびなの、とウェルチが嬉しそうに笑って言った。何のご褒美なのかが気になったジーナだったが、それを聞く前にウェルチの表情が困り顔になる。
「でも、いっぱいあって……どれにしようか決まらなくて……ちょっと困ってるの」
ウェルチの目線が、お菓子屋さんに所狭しと並べられたお菓子に移り、そして彷徨った。ジーナもまた、お菓子屋の棚に視線を向ける。
確かに、これだけいっぱいあれば、どれを選んでいいのか迷うかもしれない。
「ごほうび……。じゃあ、これは?」
そう言って指差したのは、ジーナが大好きなチョコチップクッキーだった。
「あたし、これ好きなの。おいしいよ」
そう言って、棚からチョコチップクッキーの袋を手に取る。小さなビニール袋の中には、チョコチップクッキーが三枚ほど入っていた。
それを、ウェルチに向って差し出すと、ウェルチはまじまじと袋を見つめた。
「チョコチップクッキー? おすすめなの?」
「うん!」
「えと、じゃあ、これにする」
ウェルチはそう言ってジーナから袋を受け取ると、祖母にチョコチップクッキーを差し出した。祖母は、じゃあお金を払ってくるからね、と店の奥に消える。
その背を見送りながら、ジーナは隣の少女を見つめた。
「ねえ、あばあちゃんがすごい薬屋さんなんでしょ? あなたも、薬屋さんになるの?」
「今、おばあちゃんに教わって、お勉強中だけど……。うん、なりたい。……おばあちゃんみたいな薬師に」
そう言った時、ウェルチのまとう空気が変わった。おどおどとした雰囲気が消え、凛とした表情になっていた。その紺色の瞳が、まっすぐに目標を捉えているのだと、そう分かった。
幼い子どもだったら、将来の夢といっても漠然とした憧れの職業を語ることが多いと思う。だが、ウェルチは違った。真剣に薬師を志し、その夢に向かって努力しているのだと分かった。
そんなウェルチを、ジーナは素直に格好いいと思ったのだ。
そして、目の前のおどおどしているのに格好いい少女に、興味と好意を抱いた。
「へぇ、すごい! 何だかカッコいいね!」
そう言うと、ウェルチは驚いたように瞬く。格好いいと言われるとは、思ってもみなかったのだろう。
「ねえ、あなた。また町に来る?」
「え? ……あ、うん。おばあちゃんがお仕事の時に一緒に、来るよ」
その言葉に、ジーナは満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、今度来た時は、一緒に遊ぼ! ……あたし、ジーナっていうの」
「あ、遊ぶ……。わ、わたしと、お友達になってくれる、の……?」
「そうだよ! あたしは、あなたと友達になりたいの! だから、遊ぼうって言ってるんじゃない! ね、今度、遊ぼう?」
やや強引なジーナの言葉に、ウェルチは数度瞬いた後、ふにゃりと嬉しそうに笑った。
「……うん、遊ぼうね。約束だよ、ジーナ。あのね、わたしはウェルチ。ウェルチっていうの」
そんなやりとりを、会計をすませたウェルチの祖母が店の奥から嬉しそうな笑みとともに見ていたのだった。
◆ ◆ ◆
からんと、アイスコーヒーの中のほとんど溶けかけた氷がたてる音で、物思いにふけっていたジーナは我に返った。
何だか、懐かしい場面を思い出してしまった。
今日のおどおどしたウェルチが、はじめて会った頃の印象とあまり変わらなかったせいだろう。
そう思うと、ウェルチは変わってないなぁと思わず苦笑してしまう。
少し人見知りで、人が好きなのにうまく接することが出来ない、そんな不器用な親友が幸せになってくれればいいと思う。
ティオのことだって昔からよく知っている。生粋のヘタレで頼りないところもあるが、優しくてまじめで、一途な人だ。領主の三男坊などという立派な肩書など関係なく、大切な友人を任せられると思っている。
だから、ティオの片思いが実ればいいと思うし、そのためなら相談なんていくらでも乗る。必要だと思ったら、背中だって押す。
「……頑張んなさいよ、ティオ。ウェルチは、自分のことに関しては、ほんっとに鈍いんだからね」
そう呟いて、グラスに刺さったストローを外すと、残ったコーヒーを一息に飲みきったのだった。




