第二話
広大な森を抜けてから数十歩ほど先に、数メートルの高さの塀と門が見える。その門から先が町だ。町は上空から見ると円形をしており、町の中央にある噴水広場からは東西南北の四方向に向かって大通りが敷かれている。北方向の大通りの先には領主の屋敷があり、その他の三方向の大通りはそれぞれ町の外に繋がっている。
ウェルチが今いるのは、東側の門だ。そこから、町の中に入ると、ウェルチは大通りから一本奥に入ったやや細い通りに入る。目的の場所が大通りではなくこの道の先にあるからだ。
この細い通りをまっすぐに歩いた先の住宅街の一角が、町に到着したウェルチが一番に目指す場所だ。
その場所には普通の建物よりは大きめの、生活するための住宅とはやや趣が異なる白い建物が建っている。その家を囲う柵には小さな看板が取り付けられており、そこには大きな文字で診療院、とだけ書かれている。
診療院に、特に名前はついていない。この診療院はこの町唯一の診療院だから別に名前がついていなくても困らないというのが、院長先生の考えらしい。
診療院の扉を開ける前に、ウェルチは鞄の中からハンドタオルを取り出し、額の汗をぬぐった。今日の気温は歩くのにはちょうどよかったのだが、さすがに荷物が重かったせいか、思っていた以上に汗をかいてしまった。
ふう、と息を吐きつつタオルを仕舞い、重い鞄をかけなおすと、扉に手をかける。
「こんにちは~。薬師のウェルチです。薬を届けに来ました~」
明るい声で挨拶をしながら診療院の扉を開けると、扉に取り付けられた鐘がカランカランと軽やかな音をたてた。
その音に反応して、待合室の椅子に座る老人の傍に膝をついて会話を交わしていた、白衣を着た三十代後半くらいの男性が振り返る。
「ウェルチさん、こんにちは」
「若先生、こんにちは」
若先生と呼ばれた中年の男性は穏やかに微笑む。この町唯一の診療院を切り盛りしているのは、ウェルチの目の前の若先生と、その父親の院長先生、そして数名の看護師たちだ。
この場に姿のない院長先生は、若い頃は国中を放浪し、治療して回る腕利きの医者だったらしい。そんな話を、生前の祖母はウェルチによくしてくれた。
同じく各地を巡り『流浪の魔女』と呼ばれていたウェルチの祖母とは顔を会わせる度に酒を酌み交わす戦友のような仲だったとのことだ。
そのことを院長先生に尋ねても笑ってはぐらかされるので真偽の程は不明だが、医者としての腕が確かなのは間違いない。
なにせ、院長先生に診て貰うためだけにこの町を訪れる人もいるくらいなのだから。そして、その院長先生に医療をみっちりと仕込まれた若先生もまた、かなりの名医だ。
「おやあ、ウェルチちゃん。久しぶりだねぇ」
若先生と話をしていた老人がほけほけと笑う。その老人に、ウェルチは微笑みながら軽く頭を下げた。
「お久しぶりです。この間挫いてしまった足の具合はどうですか?」
「若先生に診て貰ったし、ウェルチちゃんの薬も、ちゃんと塗ってたからねぇ。お陰さんで杖をつけば歩けるようになったよ」
そう言って老人は傍らの杖を掲げてみせる。その言葉と元気そうな様子に、ウェルチは嬉しそうに笑った。
「それはよかったです。でも、治りかけが肝心ですから、無茶はしないで下さいね?」
「はいよ~」
老人が楽しそうに返事をする。その時、診療院の奥から看護師が老人の名前を呼びながら歩いてきた。これから診察が始まるのだろう。
看護師が老人の傍に立ち、支えるように手を添える。それに縋るようにしながら老人はゆっくりと立ち上がろうとする。ウェルチはそれを見守りつつ、肩掛けの鞄を下ろして近くのテーブルに置こうとした。
あまりの重さに持っているのが辛くなっていたのだ。その手から、若先生がひょいと鞄を取り上げた。
ウェルチは紺色の瞳を数度瞬かせて、若先生を見上げた。
「え……?」
「鞄の中身はいつもの薬ですよね。持っていきますよ」
「わわっ! すみません、若先生。ありがとうございます」
若先生に頭を下げた後、ウェルチは立ち上がって片腕を看護師に支えられた老人に向き直って会釈をする。
「それでは、わたしはこれで失礼します。お大事になさってくださいね」
その言葉に、老人は手をひらひら振って応えた。
ウェルチは、若先生の隣に並んで診療院の廊下を歩く。若先生が、肩掛け鞄を持ち直して、小さく苦笑した。
「……それにしてもこの鞄、随分と重たいですね。森の奥からこれを持ってくるのは大変だったでしょう? お疲れ様でした」
若先生の労いの言葉に、ウェルチは恐縮してしまった。
「す、すみません。それ、酒瓶が重たいんだと思います。……みなさんが、おいしいと飲んでくれるのが嬉しくて、ついたくさん持ってきてしまったんです。……なので、重たいのは自業自得なんです」
そう言うと、若先生は穏やかに目を細めて笑った。
「ああ、なるほど。この前、友人の家でウェルチさんの果実酒をいただきましたが、確かにおいしかったですよ。私は普段、あまりお酒は好んで飲まないのですが、調子に乗っておかわりをしてしまいました」
その言葉に、ウェルチはぱあっと顔を輝かせた。
「本当ですか!? ふふふ、気に入っていただけたなら嬉しいです」
丹精込めて作ったのものを褒めてもらえると、やはり嬉しい。こういった言葉があるから、もっと良い物を作ろう、美味しくなるようにしようと頑張れるのだ。
「あ、よかったらおひとついかがですか? サービスしますよ」
そう言うと、若先生がウェルチを見下ろして、数度瞬いた。
「え? でも、そのお酒も売り物でしょう? いいんですか?」
「はい! せっかくですし、いつもお薬をご贔屓いただいてますから」
「お、ウェルチちゃんのお酒~。いいよねぇ。わしも好きだなぁ~」
「わひゃっ!?」
がらりと薬の保管室の扉が開き、声をかけられる。そのいきなりの出来事に、ウェルチは思わず悲鳴をあげた。
「ありゃ? 驚かせちゃった~。あっはっはっは~」
「い、院長先生!」
「父さ……先生!」
ウェルチと若先生が同時に口を開く。扉の向こうから顔を出したのは、白髪に白い立派な髭をたくわえた白衣の老人だ。
「すまんね~。酒って聞こえたから、ついつい」
そう言って朗らかに笑う。その手には、あの老人に出すものなのだろうか、いくつかの薬の瓶が握られている。ちょうど、薬の保管室から薬を持ち出すところだったらしい院長先生に、ウェルチはぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。院長先生」
そんなウェルチを見て、院長先生はにこにこと笑う。
「こんにちは、ウェルチちゃん。お仕事ご苦労様~」
「いえ、あの、驚いちゃってすみません。頼まれていた品をお持ちしました」
「いやいや。いきなり声かけたこっちも悪いしねぇ。ごめんね~、驚かせて。薬はいつものとおり、息子に渡しておいてくれる?」
ウェルチは、はいと頷く。元々、その予定だったので特に異論はない。この診療院の薬の在庫管理を主に行っているのは、若先生なのだ。
「……ところで、お酒は梅酒がいいなぁ~」
いきなり話を変えた院長先生のその言葉に、ウェルチは数度瞬いたあと、思わず破顔した。
「あ、今日、ちょうど持って来てます。自信作です! 薬と一緒にお渡ししますね」
「うん。それも息子に渡しといて。いやぁ、今日の晩酌が楽しみだなぁ~。これで、午後も頑張れるよ~。じゃあ、わし、これから診察の時間だから~。いつもありがとうね、ウェルチちゃん。またね~」
ひらひらと手を振りながら、院長先生は診察室へと向かっていった。
その足取りは軽快で、年齢を全く感じさせない。とはいってもいつも飄々とした院長先生の実年齢をウェルチは知らないのだけれど。
三十代後半くらいの若先生の父親なのだし、そもそも各国を放浪していた時代が祖母と同じということはそれなりの年齢のはずなのだが、年を感じさせるのは白い立派な髭と白髪という見た目くらいだ。
若先生は、もう父さんは……とでもいいたそうな表情でため息をつくと、ウェルチに苦笑を向ける。
「……では、薬の確認と……次回の発注もお願いします」
「はい」
ウェルチは微笑んで頷くと、若先生とともに保管室に入っていった。
◆ ◆ ◆
そして、診療院を後にしたウェルチはこの町の中心部にある噴水広場にやって来た。太陽はまだ高い場所にあって、随分と日が延びたなぁと思いつつ、商品を売る準備を始める。
準備とはいっても、広場の端にある貸し出し所で移動式テーブルを借りて、いつもお店を広げている場所まで引っ張っていき、そこに商品を並べるだけなのだが。
この広場は、事前に領主に申請を出していれば商売は自由だ。そして一度登録をすれば、商売に必要な道具も安く貸し出してくれたりする。さすがに、森の奥からテーブルを引っ張ってくることは出来ないので、ウェルチとしてもこのシステムは大変助かっている。
いつも人が行き交うこの場所でお酒や茶葉、アロマオイルを売っているので、ウェルチの姿を見かけた人々が、続々と広場に集まって来ていた。
そして、ウェルチが準備を終えたのとほぼ同時に、町民たちはウェルチの元へとやってくる。
「ウェルチちゃん! この前の酒、もう一本ほしいんだけどよ!」
「あ、ありますよ。どうぞ」
「このお茶くださ~い」
「は~い!」
そんなやりとりを繰り返してるうちに、時間はあっという間に過ぎ去っていく。
そうして一時間も経たないうちに、ウェルチの持ってきた荷物は見事に空になっていた。そのかわり、金銭での売買以外にも物々交換も受け付けているので、魚の薫製や干物、ハム、珍しい香辛料などでいっぱいになっているのだが。
これは帰りの道程も大荷物で大変そうだなぁと思いつつ、ウェルチはてきぱきと後片付けを始める。
「……ウェルチ、終わった?」
そんなタイミングを見計らったかのように声をかけてきたのは、ウェルチと同じ年頃の少女だ。その少女を見たウェルチの顔が、綻んだ。
「ジーナ! うん、終わったよ。あとは、片付けるだけ」
ウェルチと同い年で少し気の強そうな印象の、まっすぐな赤茶の髪と深い青の瞳を持つジーナは、ウェルチにとってこの町で一番の友人、つまり親友だ。
ジーナはウェルチの荷物をのぞき込み、瞬く。
「……そうみたいね。それにしても、いつもながらすごい荷物ねぇ」
感心したように呟くジーナに、ウェルチは微笑んだ。
「ね~、すごいよね。ありがたいなって思うよ。それに、わたしが作ったものでみんなが喜んでくれてるみたいで、嬉しい」
その言葉にジーナもまた小さく笑ったあと、あっと声を上げた。
「ウェルチ。あんた、まだ時間あるわよね?」
ジーナの問いに、ウェルチは小さく首を傾げた。ウェルチが町に来たときは、仕事の後に一緒にお茶を飲むのが習慣になっている。改めて時間があるかどうかを確認されたことなど、ほぼないに等しい。
「うん、大丈夫だよ」
何でそんなこと聞くんだろうと不思議に思いながらそう答えると、ジーナは満足したようにひとつ頷き、まじめな表情でウェルチを見つめて、こう言った。
「あたし、あんたに聞きたいことがあるのよ」




