第一話
暦の上では既に春なのだが、まだ寒い日も多いこの時期。
ここのところずっと暖かく穏やかな春の陽気が続いていた。しかし、今日はというと昨日までの気候がまるで嘘のように冷え込んでいる。
「……わあ~。やっぱり今日寒いなぁ……」
小さな家の窓を開けて顔を外に出したウェルチは、吐く息が白く煙るのを見て、紺色の瞳を丸くした。
顔をひっこめて窓を閉めると部屋の中をぱたぱたと移動し、ハンガーにかけてあった厚手のショールを手に取った。
ここ最近は暖かい日が続いていたので使うことのなかったショールだ。そろそろしまった方がいいかと考えていたりもしていたのだが、こういきなり気温が下がるとしまわずにおいてよかったなと思う。
ウェルチはそれを肩に掛けると、家の外に出た。
昨日までの暖かさで雪はだいぶ溶けていたけれど、まだ地面のそこかしこが白く染まっている。特に、日の当たらない木陰などは、まだ真っ白だ。今日の寒さで地面が凍っているだろうから、歩くのにも注意をしなければならないだろう。
少しずつ冬から春へと移り変わっていく、この季節。日々近づいてくる春の足音に浮き足立つ時期ではあるが、同時に気候が安定せず体調を崩しやすい時期でもある。
それは町の中に住もうが、森の中に住もうが同じことだ。
豊かな自然だけが特色の小さな国。その国の中でも辺境にある町の傍に広がる大きな森が、この森だ。
この小さな家は、その森の中を三十分ほど歩いた場所にぽつんと建っていた。
そこでウェルチは暮らしている。身寄りはいないため、一人暮らしだ。
両親は、ウェルチがまだ幼い頃に事故で亡くなってしまった。
そして、一人残された小さなウェルチを引き取って育ててくれた祖母も、半年ほど前に天の国へと旅立ってしまった。この小さな家と家の裏手にある作業場兼保管庫である小屋、そして地元の領主は元より近隣諸国の貴族からも絶大な信頼を寄せられていた祖母の、薬師としての技術と知識、貴重な道具や書籍をウェルチに遺して。
「ううっ、さむっ……」
ウェルチは足元に気を付けながらも、小走りに作業場に入る。作業台の奥の棚には今までに調合した薬や乾燥させた薬草などがきれいに並べられている。近くの椅子の背もたれにショールをかけたウェルチは、早速それらの在庫確認を始めた。
こういきなり冷え込むと、体調を崩す者も少なくない。町人や領主、そして町にある診療院から急な薬の調合依頼があるかもしれない。そうなった時に、今は薬はないですと言うことにはならないよう、備えておかなければ。
ふと、作業台の上に置いたままになっていた手紙に目が留まる。その宛名に書かれた『リコの森の魔女殿』の名に、ウェルチは無意識にため息をついた。
祖母の跡を継ぎ本格的に薬師として仕事を受けるようになってから、およそ半年。いつの間にかウェルチはそんな風に呼ばれるようになっていた。リコの森に住む薬師の調合する薬はまるで魔法のように効く。そんな話からついた二つ名らしい。
若い頃は放浪癖があったという祖母も『流浪の魔女』と呼ばれていたという話だ。
魔法なんておとぎ話の中にしか存在しないのに、自分が魔女と呼ばれるなんて何だかおかしい。ウェルチは小さく苦笑いを浮かべた。
その二つ名には敬意と称賛だけではなく、畏怖と微かな嫌悪感が混じっている。そのことに気付かないほどウェルチも子どもではない。
魔女は魔法で奇跡を起こすが、同時に人を呪うことも出来る存在だ。薬だって使い方によっては毒にもなる。『魔女』という言葉にはそんな皮肉が込められてもいるのだろう。
森の奥で生活していて得体が知れないところがあるのも、こんな二つ名がついてしまった原因だろうとは思う。『流浪の魔女』と呼ばれた祖母も、神出鬼没で正体不明だからこそ、そんな風に呼ばれたのだろう。町に住めば、少しは印象も変わるのかもしれない。けれど、ウェルチはこの森が気に入っていた。
自然豊かなこの国の中でも、こんなに緑あふれた森はなかなかないだろう。冬でも緑が枯れることはなく、年中薬草やハーブを手に入れることが出来る。そして、この家の近くには質の良い湧き水があるので、薬を精製するにはうってつけの場所なのだ。
薬師にとっては、宝の山のような森だ。もしこの世界に魔法があるのなら、この森は確かにその不思議な力で満ち溢れているのだろうと思わせるほど生命力豊かな森。
町に住まないかと声をかけられることはある。特に、祖母を亡くしてひとりきりになった時は、町のみんながウェルチの事を気にかけ、心配してくれた。
町の領主などは住むところは用意するし、領主の屋敷に住んだっていい、何だったら後見人になるとまで言ってくれたほどだ。
そんな風に声をかけられることも、気にかけてもらえることも、とてもありがたいことだと思うし、嬉しい。けれど、ウェルチはここから離れるつもりはなかった。
生活用品だって週に一回くらい町に買い出しに行けば、十分に事足りる。町での生活と比較すれば不便ではあるのは確かだけれど、それ以上にこの森での暮らしはウェルチにとっては魅力的なのだ。
そんなことを考えつつ、棚の下の方の薬草をチェックし立ち上がる。すると、不意にぐらりと視界が揺らいだ。反射的に目を閉じ壁に手をついて、眩暈をやり過ごす。
「……やだ、立ちくらみ……」
眩暈が引いたところで目を開けて、ウェルチは小さく息をついた。それから、よしっと気合を入れて顔を上げる。
薬を調合しようにも、薬草の在庫がいささか心許ない。ここよりもさらに森の奥に調達に向わなければならないから、今日は忙しくなりそうだ。
森の奥に向かうならばしっかりと準備をしなければと作業場から出たウェルチは、家の前でどこかそわそわとした様子で佇む人影を目にし、数度瞬く。
柔らかな茶色の髪に銅褐色の瞳の細身の青年は、遠目にみてもかなり挙動不審だ。明らかに不審人物だけれど、ウェルチは特段慌てることはなかった。その人物をよく知っているからだ。
「……ティオ、さま?」
それはリコの森一帯も含めた近くの小さな町を治める領主の、三番目の息子の名前だ。ウェルチの声と呼びかけに、青年がぱっと顔を上げた。
「ウェルチ!」
ウェルチはティオに歩み寄りながら、周囲を見回す。ティオ以外、誰の姿もない。領主の三男坊ともあろうお方が、お供もなく一人で来たらしい。
「どうかしましたか? こんなところにおひとりで……気管支の薬ですか?」
ティオは幼い頃は体が丈夫ではなく、特に気管支を患うことが多かった。そのため、祖母に連れられて薬を届けに行くことも多々あったのだ。
そんな経緯があったから反射的にそう尋ねていたのだけれど、ウェルチの問いかけにティオが困ったように微笑んだ。
「今はもう丈夫だよ。ウェルチも知ってるでしょう? それに具合が悪かったら、僕はここには来れないよ」
言われてみれば、それもそうだ。何だか間の抜けた質問をしてしまった。
だが、ティオは王都近郊の貴族と比べれば質素な暮らしぶりだとはいえ、貴族の一員である。領地である町中ならまだしも、こんな森の奥まで護衛も連れずにひとりで出歩くとは、貴族という肩書を思えばいささか非常識な気がする。そして、何よりも不用心なのではないだろうか。
そう思って伝えると、ティオは不思議そうに瞬いた。
「でも、ウェルチはひとりでここに住んでるじゃない」
「わたしとティオ様じゃ、立場が違います。こんなところにひとりで来ちゃいけませんよ。危ないじゃないですか」
「立場なんて関係ないよ。男の僕がひとりここに来るのが危ないなら、女の子がひとりで住んでるのだって危ないよ? それに、今日ここに来たのは……僕の、個人的な用事のためだしね。……一応、父にはひとりでウェルチの所に行くって伝えてあるよ?」
警護をつけずにここまで来るのは、一応領主である父親も了解済みらしい。貴族の身辺警護的に了解するのもどうなのだろうと思わないでもない。けれどそれは、ウェルチが口を出すようなことではないだろう。
ウェルチは内心でそう結論付け、警護面以外で一番気にかかったことを尋ねることにした。
「……個人的な用事、ですか? ティオ様が?」
そう呟いて、ウェルチは首を傾げる。途端にティオが気まずそうにふいっと顔をそむけた。
「……ティオ様? あ、薬の調合依頼か何かですか? それともお茶か何かをお求めですか?」
個人的な用事、と言われてもウェルチは薬師だ。用事があるとなると、薬の調合依頼か、栄養剤や贈り物用のアロマオイルやハーブティーなど、ウェルチが取り扱うものを購入に来たとしか考えられない。それにしたって、ティオ自らがわざわざ来るような用事ではないと思うのだけれど。
「ええっと……そうなような、でもそうじゃないような……」
どうにもティオの歯切れが悪い。ウェルチは思わず眉をしかめた。
「……ティオ様?」
ウェルチの様子にティオは意を決したようだ。銅褐色の瞳がまっすぐにウェルチを見つめてくる。その瞳の強さに、ウェルチは思わず姿勢を正していた。
それを見たティオが、怯んだように一瞬息を呑み、口を開く。
「うちの父が母にプロポーズする時に使ったっていう勇気の出る薬を下さい!」
「……はい?」
ほぼ一息で言われた突然の申し出に、ウェルチの目は点になったのだった。