2.
思い出は連想を呼び、回想は更に遠くへと旅をする。
かの娘は、砂の町の盗人だった。彼の懐を狙ったその手を捕らえたのが始まりだった。
その折に垣間見た彼女の瞳。その飢えた目に覚えがあった。かつての、自分たち兄弟と同じであると思った。
弟を斬ったすぐ後であっただけに、その瞳の光に、強く心を抉られたのだ。
「腹が減っているのか」
顧みれば代償行為であったのだろう。気付けばそう訊いていた。
細身のわりに娘は健啖だった。大急ぎで詰め込むように食べるのは、奪われないようにの習い性なのだと、自身の体験から知っている。
「名は?」
「忘れた」
彼女の食い気がひと段落したところで問うと、そういう答えだった。
人の集まる交易都市には、様々な理由で孤児が多い。単に迷いはぐれたもの。お荷物として切り捨てられたもの。奴隷が逃げたもの。夜盗に家族を奪われたもの。
人が生き、うごめき回る以上理由は様々だが、この町での上位は砂虫に呑まれての離散だった。
大人どころか馬車までもをひと呑みにする大顎の甲虫は、己が害され難いがゆえに人里近くにも現れ、荷を積んで鈍重な隊商を狙う。
この娘もそうして壊滅した一団からのはぐれであろうと思われた。
見た目から当て推量すれば、齢は十と少し。しかしその年までこの町で生きられるようにも、生き延びてきたようにも見えなかった。
徒党を組む才覚と運に恵まれているならまだしも、己の懐を狙った先の盗みから判る通り、この娘は独りだ。はぐれて後ここ一年を、どうにか凌いできたというところだろうか。
よくあると言うなら、よくある話だった。
そうした子供の末路もまた、よくある類の話である。乾いた気候のお陰で死体はすぐに乾燥し、疫病の元になる事はないのだと聞いていた。逆に言えば病の元と案じねばなるほどに、死体は出ているのだ。
名とは他者から呼ばわれる為のものである。
そんな生き延びるだけに必死の世界で、自分以外は意味など持たないような世界で、それに何ほどの価値があろうか。
だからきっと、彼女は忘却してしまったのだ。覚えていれば生きていくのに辛いから。
「そうか」
短く応じて、悲しいなと思った。
最初からないのと、途中で失うのと、どちらがより大きな悲劇であるのかは分からない。
仮に自分たちのように前者であったとしても、自分には弟が、弟には自分が居た。だがこの娘はひとりきりだ。
その日は娘の分の部屋を取って、更に幾許かの金を握らせた。
動機は憐憫からか、それとも優越感からか。自分自身では分からなかった。
娘の境遇を哀れみ、同情をしもするが、己に他人を背負い込めるほどの余裕はない。だから翌朝には別れて、本来ならそれで終る話だった。
だが一体どこをどう気に入ったのか、街を離れても娘は彼について来た。
彼女も必死であったのだと思う。
ああいう暮らしを送っていれば遅かれ早かれ、自分の前に死が立ち現れると理解してたはずだ。
腹を満たし安全な場所で眠りを取って、それまで自分がどれだけの苦境に居たのか、はっきりと悟ったのもあったろう。そういう意味で彼がしたのは、残酷この上ない振る舞いだった。
甘さにつけ込まれたと言えば聞こえは悪いが、結局彼は押し切られ、娘の同行を許した。
つまりそれがあの目に負けた、最初の思い出になる。また何より、他者との関わりに餓えていたのは自分も同じだったのだろう。
とは言え剣以外に取柄のない人間の事で、関係はスムーズにはいかなかった。
子供だから女だからと一々手を貸すのが娘の誇りを傷つけ、癇に障るのだと、それに気づくのにすら随分な時を要した。
負うた子に教えられる事はひどく多かった。
自分たち兄弟を拾ったあの老人も、心の内ではこうした苦労を重ねていたのかと、己の師を懐かしく思いもした。
それでも、娘は離れていかなかった。乞われて名を考え、古巣に戻ってからは刀法を伝えた。
できる事ならば切った張ったではない、別のたつきを教えたかったが、生憎彼は他のやりようを知らない。他者に託すという手も考えたが、どう諭してもこれには娘が頷かない。
そうして数年。
贖罪めいた歪から始まった暮らしは、一度は世を捨てようとしていた男に、いつしかまた立ち上がるだけの力を与えていた。
──あれは、どうしているだろうか。
娘の顔を思い浮かべて、胸中にひとりごちる。
一方的に別れを告げてきたのだ、きっと怒り心頭に違いない。その真っ直ぐな心根を、彼は好ましいと思う。
幸福になっていてくれればよいと、偽りなく願っていた。




