いち。
海の果てを見ているようだ。
私の目の前で慟哭する彼女は、世界を絶叫で揺らしている。
────ああ。
ひどく、羨ましいと思った。
だってきっと、彼女にとっての全てだった。
それが喪われてしまったからには、この世界には何も無いのだ。
少なくとも、彼女には。
焦がれる胸と、それを理解できないでいる心。
きっと、私では彼女のそれに成り得ない。
彼女のそれはもうこの世に無いのだから。
……羨ましい。
憎悪はない。感謝もない。そんな感情を抱けるほどの記憶もない。だから、憧れたのだと思う。
彼女の立ち位置は、きっと私にはつらすぎる。
望むだけ求めて、結局失い泣くのなら。どんな希望もいつかは悪夢へと成り果てるのなら。
私は彼のように成りたいと思う。
────ああ、いつか。私も、
★☆★
「青木~」
淀んだ空気に満ちた室内に、そんな、行き遅れた三十二歳女教師が放つような呪いじみた声が響く。気味が悪いことこの上ない。
「有島~」
四角い部屋に四角い窓。更には四角く並べられた四角い机達。おおよそ四十もの無機質な四角がこの室内を埋め尽くしている。そんな中、呪文に呼び寄せられるように、男女の区別すらなく一人一人絞首台へと向かうのだ。
まるで死刑判決──いいえ、正しく死刑執行。
……いや、ホンモノなんか見たことあるわけないのでイメージでしかないんだけど。
だけど、どういうことなのだろう。そんな厳しく苦しい判決を受けて、会心の笑みをニヤニヤと浮かべて戻ってくる者もちらほら。ああ憎らしい憎らしい。
「キリシマ~」
…………嗚呼。
神様仏様天使様キューピッド様。いいやもうなんだって。コックリさんだろうがデビルさんだろうがかまいやしないのだわ。お願いだから、お願いだから、運を──あ、できれば幸運をですね。
「霧島ちゃ~ん。霧島シズクちゃ~ん。心優しく見目麗しい先生様がお呼びだっつってんだろクラス最下位の霧島ちゃ~~ん。点数もバラしちゃうぞ~~」
「いっやぁぁぁあああやめてやめてそれだけはらめぇぇえええ!?」
机を放り投げる勢いで席を立ち、「なんだまたか」と言わんばかりの表情を浮かべる冷徹なるクラスメイトどもの脇を飛ぶように駆け抜けるワタクシ。
うう、やっぱり運が悪かったみたい……。
その後あっさり授業も終わり、憎たらしい行き遅れが教室から堂々と去ったあたりで、私は溜め息を吐いて赤に塗れた答案用紙を睨みなおした。
「うぎぎ……」
これ以上ないってくらい堂々と、そこには一つの数字が存在を主張していた。
「いやァ……さすがにちょっと、これは……」
叫び出したい衝動を噛み殺しながら大きな丸を見つめ、どうやって誤魔化そうかを模索する。だって、これは、ちょっと、
「うーわ。なにその点数。漫画以外で初めて見たんだけど」
「うわっ!」
集中しすぎて周囲に気を配るのを忘れてた。見事に友人──みーちゃんに見られたっぽい。背中ほどまで伸びるポニーテールを元気に揺らしながら、私の答案を横から覗き込んでいやがった。
「……見た?」
「見た見た。スゴいね、答え合ってんのに解答欄全部ズレてるとか、これ神技って言っていいんじゃない? さすがに全部は見たことないわー」
「…………その言い訳、うちのママンに通じると思う?」
「ムリだと思うなぁ。シズクん家のお母さんどんな経過でも結果に繋がらないとスゴく怒るタイプじゃない、特にこういうケアレスミス」
「ですよねー……」
ケラケラと笑顔でのたまうみーちゃん。ふふふ、こうまでガックリきてる私を見てその太陽のように可愛らしくも輝かしい笑顔。まるで鬼神の如きだぜ。
「まーほら、追試でどうにかすれば補習受けなくて済むワケだし。いくらシズクの運が極端だからって、さすがにそこまで影響したりしないでしょ?」
「それは私じゃなくて天秤さんに聞いてほしいわぁ……というか私が聞きたいわぁ……」
ほんとーに。
結構ちゃんと見直したハズなんだけどなぁ……解答自体は間違ってないんだから、やっぱりいつもの落差とみて間違いなさそうだわ。
「いつも思うけどアンタってほんと極端よね。こないだなんかイイコトあった?」
「ん~……先週、ママンの友達から私好みの服がいっぱい送られてきたから、多分それ」
「あちゃ~。タイミング悪いねぇ」
それ込みでじゃないかなーと思う。
「うふぇ……」
今度こそ、私は机に突っ伏した。
いい加減この体質っていうか性質どうにかならないもんだろーか。
……私以外のことだから自信があるわけじゃないけど、それでも、きっと私より『運』というモノにメリハリがある人っていうのはそうそういないと思うのだわ。
良いことがあった後に悪いこと、人生はその繰り返し。──なんていうのはまぁ一般的な考え方なんだろうけど、私の場合はそれの落差がちょっと激しすぎるのだ。
極端な話、“凄く良いこと”があったら“とてつもなく悪いこと”が当たり前に起こる。経験則で言えば、ラッキーからラッキー、後にアンラッキーなんて連鎖はなく、ただただ交互に起こりくるのだ。
「ほら、元気出しなよ。テストがこうだったってことは、次にくるのはなんか良いことなんでしょ?」
「ん~……多分」
未来のことは分からない。
今の今までがこうだったからきっと次も、なんていうのは、結局予知とか直感とかその程度でしかないし。う~ん。
「あんまりネガティブな方に考えないの。ほら、もうすぐ夏休みじゃない。どこか遊びに行く計画でも立てよーよ」
「あ、そうだねっ」
私は机にべったりとくっつけていたおでこを引っぱがすと、諸手を挙げて元気を出した。こんな不幸三秒で忘れ去ってくれるッ。
「どーしよっか。去年は山だったよね?」
そんな反応に気を良くしたのか、みーちゃんが嬉しそうにメモ帳をスカートから取り出した。
「……え、まだそれ使い切ってなかったの?」
「ううん? どうせ今日はこの話になるだろうと思って、持ってきたの」
「あー、そらぁそらぁ」
準備のいいこって。てゆーかこの場面デジャヴュ。
「そういえば去年もこんなふうだったっけ?」
「よく覚えてるねぇシズク。場所は一年生の教室だけど、やってることはな~んにも変わってないよ」
ペラペラと自慢のメモ帳をめくるみーちゃん。彼女の趣味は毎日の出来事を事細かくメモに取ることである。なので普通の日記帳では物足りず、常から携行できる手の平サイズのメモ帳がベストなんだそーな。
……飽き性な私にゃ絶対マネできないだろーなー。
「変わりなし、か」
「うん、変わりなし」
「…………」
「…………」
なんとはなしに確認を取り、なんとはなしに察してくれたらしいみーちゃんも口を閉じた。ついでにメモ帳も。
つまり、そう。
変わりなしということは、昨年二人で誓い合った約束も果たせていないことになる。
私は若干トーンダウンさせた声で彼女に囁くように問う。
「ねぇみーちゃん」
「なんですかねシズクちゃん」
「そのメモ帳にはもちろん書いてありますですのことよね」
「……ありますですのことですねぇ」
ふと気付けば逸らしていた視線を、ちら、とみーちゃんに送る。みーちゃんもみーちゃんで思うところがあったらしく、ちょっと涙目になりながらこっちを見た。
「彼氏……どう?」
「シズクは……?」
互いに言葉を交わし、同時に肩をすくめて見せる。鼻から漏れ出た冷たい息は、いったいどんな絶望に塗れているというのか。
『できてるわきゃねーじゃないッッ!!』
二人して叫ぶ。
一瞬教室中の視線が集まった気もしたが、それも一瞬のこと。「なんだあいつらか」で済んでしまうくらいにはこのクラスに馴染んだつもりではある。
「うううう~~なんでぇ? なんでこんなにモテないのよ私達ぃ……」
「おかしいなぁ……いや自惚れってのは分かってるんだけど、それでもシズクも私も平均並だと思うんだけどなぁ……」
頭を抱えて呻きあう。
くそっ。おかしい。実におかしいわ。だって容姿だけで言ったら決して悪くはないハズなのにっ。
「へいストップそこな前川くん」
「あー?」
うんうん唸る私達を丸っきり無視して素通りしようとするクラスメイトAに声をかける。ええい、自分達の考えが合ってないなら第三者の意見を元に考慮すればいいだけの話であるっ。果てしなく迷惑そうな顔とかやる気のなさそうな声とかはこの際無視。
「私達の何がモテない要因になってると思う?」
「顔以外全部」
『────』
一刀両断にもほどがあるんじゃないでしょーか。
あまりの即答っぷりと内容に身じろぎ一つできないでいる私達に、「美味しそうな饅頭の中身がカラシの塊だって分かってたら誰も手に取りもしないだろーよ」と冷静すぎるご意見を一つ残し、クラスメイトAな前川くんは去っていった。
「……シズク」
「……どうするべきだと思うかね、みーちゃん」
「性格、改……善?」
「今からできると思う?」
「超めんどっちぃ」
「ですよねー」
あっさりと認め、その提案を投げ捨てる。
「つまりっ!」
ばん! と私は勢いよく机を手の平で叩き、結論を下す。
「今年は二人で海!」
「しかないよねぇ……」
はぁ、と悲痛な溜め息を放つみーちゃん。結局こうなるのはまぁ分かってはいたのだけれど。しかし第三者のご意見が予想より鋭利すぎたというかハートブレイクショットだったというか。
「海だし、もしかしたらナンパとかあるかも知れないしね……ほら、見かけだけはいいとかホザいてたし」
「そういう目的で海行くのはイヤだなぁ……ひと夏のアバンチュールとかあんまり興味ないし」
「かといって山もねぇ。去年どうなったか覚えてる?」
「メモ帳なんかなくたって忘れらんないわよ……クマとの追いかけっこなんて」
「いや~、アレはさすがに死を覚悟したなぁ」
ちっちゃい時から緊急時のためにっていう名目で逃げ足鍛えられてなかったら、最初の数秒でアウトだった気がしてしょうがありまセン。荷物の中の食料ぶち撒けて気を散らせた瞬間ほど食べ物に感謝した瞬間はなかったナー。
しかしまぁ、去年の山キャンプは酷かった。安全圏ですって言われたキャンプ場に普通にクマが出るとかもうね。私の不運のせいなのは分かってはいるけど、さすがにああも簡単に命の灯火が揺らぐのはどーかと思う。
「そういえば部活は結局やんなかったのね」
「う~ん、どうもねー」
忘れてた、とみーちゃんが聞いてきた。クマからの脱走時に発揮した運動能力を部活にでも活かせばいい、とかなり強引に薦められたのだ。
たしかに一般人以上の性能を自覚してはいるけど、私としては穏やかで優しい心を持つだけでいいので、こう、激しい怒りに目覚めちゃう戦士という項目はいらねーのである。人間、安穏平穏が一番スわー。
「そこまで求めてないってば。普通にやってるだけで十分活躍できるクラスじゃない」
ケラケラと笑われる。最初こそ真剣だったものの、一年もすれば色々と理解に通じるものみたい。口ではそんなことを言ってはいるけど、もう本気さは含まれていないように思える。
「だったとしたら余計にそんなことはできないよ。そりゃ少しくらい腕に覚えはあるけど、その程度の考えで真剣に打ち込んでる人達の邪魔はできないし」
もしも実際に私がこんな中途半端なやる気でなんらかの部活に参加したとして。もしかしたら現状の運動能力で活躍できたとしても。
……そのせいで、今まで努力してきた人達の邪魔になるようなことになったら、申し訳の一つもない。だから、やるなら最初から全力で。そう、スタートラインは、誰もが平等な入学初日からでなければならなかったのだ。途中参加で中途半端なマネなんてとてもとても。
「前を向いて努力する人達は好き。だけど、私がそうなれるとは思えないもの」
「そっか」
だから、この話はここまで。
これ以上は本気になってしまう。それを分かってくれているみーちゃんは、これ以上の追及は絶対にしてくれない。いい友達を持ったもんだ。
「おーい、仲西~」
「なーにー?」
と。
唐突に廊下の方から男子の声がみーちゃんを呼んだ。あれはクラスメイトAこと前川くんじゃないか。なんか今日は妙にタイミングがよろしい。
「ちょっと行ってくるね」とみーちゃんは手を軽く振ると、テスト返却後のにわかに賑やかな教室から出て行った。
私の機嫌が悪い時に近付いてくる知り合いなんてみーちゃん以外にいないので、私は一人思索に耽る。うーん、どうしたものか。
テストの点数がこうということは、次に待ち受けるのはそれなりにハッピーなラッキーだろうことはまず間違いない。ただ問題は、それがどんなタイミングで訪れるかである。
「……はっ」
もしかしたら。ふと、随分とポジティブなシンキングがアイデアをクリエイトした。これはもしや、怒られないフラグではあるまいか──ッ!
そう、そうだ。
なにも、テストの点が悪いという不運が我が恐ろしきママンの怒りに直結するワケじゃあないんじゃなかろーか。だってほら、それはアレだ。いわゆる“それとこれとは別”ってヤツだ。
今この瞬間の不運。私にとっての“運”というものは単一であり、それがサイクルすることで成り立っている──と私は解釈している──のだ。
だとしたら。
思わず、口元にいやらしい笑みが広がってしまう。
でもしょうがない。これは、このタイミングは、実に珍しい『本当の不運回避コース』とでもいうべきものなのだからしてっ!
いやん。あはは、思わずガッツポーズですよ!
そうと決まれば話は早い。
もう、なんかもう。なにか別の、幸運不運に左右されるような出来事に出会う前にさっさと帰ってこの答案用紙を見せつけるに限るっ!
幸いこの後に残っているのは帰りのHRだけだ。担任に見つからないうちにズラかろうと決意を固め、私は手早く鞄に教科書やらケータイやらを放り込み──と、
「た、ただ、いま……」
「およ」
家に帰ったわけでもあるまいに。なんだか間の抜けた挨拶をしてくるみーちゃんに、作業の手を止められた。ええい、急いでるけどしょうがない。
「おかえり、結局なんだったのあの呼び出し?」
「あ、え、と……その、えっ……と──」
むう?
みーちゃんにしてはなんだかスゴく歯切れが悪い。つい急かし口調で訊いてしまったが、切羽詰っているのは私だけじゃなくてみーちゃんの方もっぽい。
「ど、どうかした? 前川くんになにかされた、とか?」
だったとしたらあのクラスメイト野郎ゆるさねー。輝けるフィンガーと名高いこの握力でそのおつむミシメシ言わせてやろう。と、そこまで考えておいてなんだが杞憂だったようだ。
みーちゃんはふるふると、まるでかよわい乙女のような仕草で首を振った。……あれ? なんか妙に可愛いっていうか可愛いぞみーちゃん?
「あの、その……ね?」
「う、うん……?」
「────っ、て」
「え?」
全然聞こえにょい。わんもあわんもあと頼み、今度こそ耳を澄まして、蚊の鳴くように小さなその可愛らしい声を鼓膜に刻む。
「村山くんに、『付き合ってくれ』……って。言われ……た、の」
「────むらやま、くん? 村山くんって、隣のクラスの?」
こくん、とうなずかれる。
「サッカー部のエースで主将で、超モッテモテのあの村山くん? プロからスカウトきたって今旬の話題独占のあの村山くん?」
こくり。
「あ、あの、ね? なんか、中学の頃から、ずっと、好きだった……って。ずうっと私だけを見てた、って。まだプロ入りが確定したワケじゃないからはっきり言えないけど、その……そうなれるように、そうなった後も、ずっとそばで支えていてほしい、って」
「………………それ、って──」
もう、なんていうかアレじゃね?
プロポーズじゃね?
「え、えへへっ! あ、でも、まだちゃんと返事してないのっ! や、やっぱりその、将来とか関わってくるとなると、その、やっぱり私も嫁入り修行したほうがいいのかな、とか、いつか海外に行っちゃうかもしれないような人のお嫁さんってなると英語の勉強とかしなきゃかな、とか、その────」
しかも受ける気マンマンっぽい。
私はみーちゃんの言葉をなんとか受け流しつつ把握して────深く深く吐息した。
「ねぇ、みーちゃん」
「な、なぁに?」
「お幸せにぃぃぃいいいいい!!!!」
村山のヤロー、みーちゃん泣かせたら絶対ぶっコロす。