ぷろろーぐ。
峰高い山の麓を汽車が行く。
線路の脇に聳え立つ山々は人間を拒むように厳かで険しい。その雄々しさ猛々しさ、言葉に言い表すのならば荘厳華麗の一語に尽きる。一目見れば穢れた魂を打ち砕くだろうその峰々。彼らの勇猛さに竦みながら、汽車は逃げるように広大な平原を走り続ける。
一人たりとも乗客の居ない、やけに広々として感じる車両の中。一人寂しく対面座席の片隅に座り、汽車の窓から極上たる景色を眺め、しかし男はぼんやりと溜め息を吐いた。彼の瞳に映るのは、そんな自然の壮大さではなく、
「──『魔法』、か」
ほんの数時間前に目にした、この世のモノとは思えない技術の粋だった。
剃り残しのアゴヒゲを指先で撫でつつ、しかし男はそれすらも意識に無い。ただただその視界は過去の時間に奪い去られたままである。
────天を焼き焦がすような灼熱を身に纏った、太陽の化身じみた不死の鳥を見た。
総身に雷を宿し、光よりも疾く翔ける、心優しき猛虎を見た。
国一つを揺るがす地震をあくび混じりに呼び起こす、災厄の亀を見た。
世界の天候を気ままに操り、人間の言葉を繰る気高き蒼き龍を見た。
────そして。
粘土でもこねるかのように容易く、指先一つで彼らを生み出した、わずかに三歳の幼子を見た。
「…………」
背筋がぞくりと粟立った。
すべては幼子──彼のほんのお遊びに過ぎない。そう、すべてはお遊びだ。
男が彼に昔耳にした四神の存在を気まぐれで教え、彼はそれを“想像”出来たが故に“創造”した。
これが、この出来事が、どれだけの大事なのか。
「前、よろしいですか?」
「え──あ、ああハイ、どうぞ」
どうやら意識を外に逃がしすぎたらしい。ふと気付けば、男が座る席の横に見知らぬ青年が立っていた。
背の高い、柔和な表情を浮かべた若い青年だった。そのせいか、頭部に生える寒々しい銀髪がまるで印象に馴染んでいない。男の背は180ほどだが、それよりも更に大きく見える。まさか2メートル以上ということもあるまいが、そう言われればそうなのかと信じてしまえるくらいに大きい。
が、そんな外見よりも更に目に付いてしまったモノがある。男は舌打ちを我慢しながら青年の着席を見守った。
……やっぱりなァ。
「旅はどうですか」
首から下をすっぽり包む分厚い黒いコート。
日に照らされることを避けるのはこの地域の常套だが、それでもこれはやりすぎだ。
これから向かう先、サハラの気温は更に高い。それも夏という時候を考えれば、青年の格好はまるで常識に外れていて、冗談のようですらある。しかし彼らには、常人の理解を超える狂気じみた約定があった。
「そうだねえ、中々良いモンだよ。故郷に妻と娘を残しているんでね、それだけが少しばかり心配ではあるが」
「そうですか」
視線は合わせない。
既に何度かその瞳は見たことがあるので、今更興味も無い。男にとっては随分と縁深い、もはや見るだけで吐き気すらもよおすその瞳。
「……だったんだけどなー。やっぱり、こうなるか」
「ええ、こうなりますとも」
渋い顔をして見せる男に、青年はにこりと笑いかける。男がようやく見据えたその瞳には、くっきりとした“逆十字”。
「で、なんだったっけか。お前さんは“ドコ”のどなただい?」
「『魔術結社』の者です」
「────あ、なーんだ」
青年の一言に、男は一気に緊張を解いた。脱力し、背もたれに体重の全部を任せるような勢いでだらりと倒れこむ。
「……その反応、少しいただけませんね」
青年の表情は変わらない。仮面のように笑みを作ったままだ。
しかし、その声からは先ほどまでの親しみは消え、代わりに白刃じみた鋭利さが含まれた。
「貴方ならばお分かりでしょう、キリシマ教授。今貴方がどういう状況に置かれているのか」
「そらそーよ。でもなー。お前さんみたいな若造送って来ちゃうよーな弱小だしなー。タカが知れてるってゆーかー」
完璧にナメきった態度で男──キリシマはだらだらと間延びした声で答えた。背もたれに後頭部を任せて天井を見上げ、視線もやらずに胸ポケットから取り出した煙草に火を点けた。手馴れたモノである。
「今ここで殺してやってもいいんだぞ、オッサン」
どうやら短気で見境が無いらしい。キリシマの挑発に見事に乗った青年が、顔から笑みを消し去った。
「はン、どうせハナっからそのつもりなんだろ?」
ミエミエデース。これっぽっちもやる気を見せないキリシマの姿に、青年はようやく落ち着きを取り戻した。作り物めいた笑みこそ戻らないものの、瞳に真剣さが宿る。
「……コホン。いいえ、今日は貴方を殺しにきたワケではありません。『交渉』に参ったのです」
「…………ふ~ん?」
咳払いをし、居住まいを正す青年。キリシマはようやっと興味を抱いた。へェ、力押し以外になんかあったりするのかい、こいつら。
「『魔法使い』に関する情報をいただきたい」
「却下」
「な──!?」
青年の言葉を一刀両断に伏すキリシマ。
青年がその言葉を告げた瞬間に、キリシマの態度が一変した。
「却下だよ却下。お話にならん」
キリシマは突然立ち上がると、座席の天井に備え付けの収納棚から大きなリュックを取り出した。呆然とする青年を尻目に、リュックから取り出した衣服を素早く着付けだす。
カウボーイよろしく縁の広いハット。なにが仕込まれているのか分からない分厚いベスト。これではまるで西部劇の警官──否、世界に名高い冒険家兼考古学者のそれだ。
「おい、待てよ! 交渉だって言っただろ!? いいか、おまえの家族の命は今俺達が握ってる。そいつらの命が惜しけりゃ────」
「あーあーあーあー。もうそろそろそのきったねェ口閉じとけよ、な? ドサンピン」
矢も盾もたまらずとばかりに立ち上がり、険しい口調で叫ぶ青年。どうやらこっちが本性であるらしい。実に若々しくて清々しいまでに悪役っぽい。……さすがに好感は持てないが。
「おまえさあ、交渉とか言っといてもうまるっきり恐喝になってんぞ? その時点でお話になってねーじゃねーか。言葉と会話の流れをよーく勉強して出直してこい。あ、もうそんな機会もねーっけ」
「……ッ!? おい、これが恐喝って分かってんだろ!? 家族の命がいらねぇってのかよオッサン!」
まるで取り合う気のないキリシマに、口角から泡を飛ばして青年が問いただす。が、キリシマはもはや憐れみすら浮かべて青年を見返すだけだ。
「おまえが情報の交換を断ったらすぐにでも日本の仲間に連絡がいく手筈になってる! おまえの命もここで絶てって言われてる! いいか? この汽車は最初っから罠で────」
「知ってるよ、ボケナス」
「だから乗り込んだんじゃねーか」とキリシマ。青年は今度こそ混乱し、もはや言葉すら忘れて目の前の男を見つめた。
「こんなくっだらねー罠俺が気付かねーとでもホントに思ってたんかよ、ばっかでー。日に何度も働けない超重要交通機関に俺一人以外乗車しないなんて時点でフツーに気付くわ。ついでに、おまえらは色々俺を──俺達を知らなさすぎだバカ。優しい俺が簡単に教えてあげちゃおう。
────おまえは手を出す相手を間違えた。
俺だけだったらまだ良かったんだけどなァ。よりにもよってその家族、ときたんだよ。“よりによって”、だ。
いいか? おまえらは勘違いしたんだ。
強いのは俺じゃない。……いや俺だって弱かぁないけど、その俺の何億倍も、俺のカミさんは強い。俺が尻に敷かれてんだから、おまえらなんか踏み潰されて痕も残らねぇよバカ。
あとついでについで。俺余命一週間くらいしかないんだよね、出先で求婚してきた可愛い女の子の呪いで」
「────!!!???」
準備が出来たとばかりにキリシマは再度座席にどっかりと座り込み、「モテる男はツラいやーねー。子持ちだっつったのになー」などとうそぶきながらエラそうに足を組んでみせた。口元にくわえていた煙草を吸い込み、一気に灰に還元してから、真っ白な煙を口から炎のように吐き出した。
「俺達の命を元手に賭けたおまえらの負けだぜ。チンカスすら残らねーと思え。いいかいボウズ。相手の命を奪おうって時ゃな、テメェの命を張るのが必定よ。
……そうでなきゃ、見合った成果は得られない」
「お、おまえ、一体……」
聞き及んではいたのだ。しかし青年は間違えた。決定的に。
自身の命の価値故に。
それすらを凌駕した価値観を持った人間の存在を、在り得ない、と。
在り得ないワケがない。
この世に存在し得るモノは、この世で想像し得る何かなのだから。
────故に。
青年は、完璧に、間違えた。
「『魔法使い』のことは一つとして外部に漏らす気はねぇんだな、俺ぁ。悪いが、愛しい愛しいカミさんと娘ちゃんにも、な。
……あんなのをこの世に広めるワケにゃーいかねぇよ。アレは世界を狂わすドラッグ……いいや、プログラムみてぇなモンだからよ。あんなのが“妙なカタチ”で世界に蔓延りでもしてみろオメー。俺の可愛い娘ちゃんの教育に悪いったらねーぜ。
だから、俺は残る命を以ってこの一件を完全に『無かった』ことにする」
ぽい、と煙草を放り投げ、
「悪いがボウズ、おまえも生かしちゃおけねぇな。後の始末はカミさんが付けてくれるだろーけど、俺とおまえはココまでだ」
にやりと、ヒゲの濃い口元を禍々しく歪めて笑んでみせた。
「ふっ、ふざけたコト言ってんじゃ、──まさかオッサン、最初っからこうするつもりで……!?」
青年が“ようやっと”鈍く輝く鉛色の拳銃を懐から抜いて構えた時、
「あーあー。仮にも魔を扱う者ががピストルって。ド三流すぎんだろいくらなんでも。だいたいオメー、セリフにも行動にも美学もロマンもこれっぽっちもねぇじゃんよ。死ぬか生きるかの話してんだっていい加減理解したんだろ?
……俺の遺体なんて残してみろ、そっからえげつねぇ手で色々引き出すのがてめぇら『魔術師』じゃねーか。俺がそんな些細なミス犯すワケねーだろうが」
キリシマが、煙草に火を灯した瞬間から握っていたライターに、再度火を点けた。
「さ、楽しもうぜ坊主。長い永~い旅路の始まりだ。行き着く先はちょおっと行ってみないと検証できないが、世界で最も有名な説によれば、翼の生えた美人とイイコトできっかもしんねぇぞ? やー、楽しみだ」
その火を、先ほど着込んだベストの内側へとゆっくりと近付けながら、
「お、おい、オッサン! なにして────その懐にしまってある“モノ”はなんだァァぁあアあアア!?」
青年はキリシマの思惑に気が付いたせいで引鉄も引けない。そんな無様を心から嘲笑しながらキリシマは、ゆっくりと口元を滑らせた。
「男の子だろ? 騒ぐなよみっともねぇ。こういう時は、────祈るしかないのさ。
『道往く貴方に幸あれかし』ってな具合にな」
その言葉と同時に、青年は、破滅の鐘の音を聞いた。