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一方的かつ■■■な標識

作者: 長居智則
掲載日:2026/09/14


 タッ、タッ、タッ、タッ、タッ……。

 錆色のトタン板の壁の民家。

 同じくトタン板だが、こちらの工場はさらに古いらしく白く粉っぽい。加えて人気も無く、多分もう使われていないようだ。

 次もトタンの波状な板で囲われた木造の民家。だが敷地は広く、家の奥には畑もあるようだ。

 その次、立派な瓦屋根と黒色だった木の壁の民家。今は色褪せて焦茶色みたいな色で、近くで見ればヒビやら裂け目やらが見えてしまう。

 その次は……。

「ここ、左だっけ」

 ボソッと独り言。

 私の癖。

 お尻のポケットからスマホを取り出し、待受画面を開くとすぐに地図アプリが表示される。

 アプリの案内は、この十字路を左に曲がれと指示を出している。

「左か」

 …………、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ……。

 次は、畑がある。土もさっきの家の木壁のように焦茶色で、しっかりと手入れされていそうな土からはなんかの野菜の苗が飛び出ている。

 しかし、その隣は酷いものだ。おそらく元々は果樹園だったのだろうが、雑草が生い茂ってもはや雑木林。

 次は……。

「…………何やってんだろ、私」

 ふぅぅぅ、と長いため息がこぼれる。

 今月ももう数日でおしまいだが、ノルマまではまだまだ遠い。

 先月も先々月もノルマは未達。

 しかし、空はすっかり茜色であり、遠くの方から紫色が迫ってきている。

 今日も潮時なのだけど、そのまま事務所に帰るのも億劫なもの。多分この調子で帰社すれば、ちょうど帰る先輩と出くわしてネチネチと実績の事を言われてしまう。仕事のことだから、数字を出せない私が悪いのは理解できるので決して反論はしない。けど、わざわざ顔を見る度に嫌味を言いに来る必要も無いんじゃないかとはいつも思っている。あんなのに交際相手が居るとかいうのだから、世の中はかつて自分が思っていたよりももっともっと現金なのかもしれない。

 もう一度、地図アプリに視線を落として所要時間の詳細を見る。

 最寄りの駅から電車が出るのは、私が駅に着いた直後くらいらしい。

 タッ、タッ、タッ……タッ……タッ……。

 きっと私が出来の良い人間というやつなら、一本遅い電車の時間まで数件訪問するのだろう。

 今の私と同じところは、一本遅い電車というところだけである。

 仕方ない、仕方ない。

 今は七時前であり、周囲の家の窓から明かりが漏れ始め、どこからか焼き魚の香りもしてくる、そんな時刻だ。こんなタイミングで訪問しても、ろくに話なんて聞いてもらえない。インターホン越しに門前払いが関の山だ。

 なんて頭で言い訳を整え、さも遅い時間まで残業してきたアピールして帰社することを決め込む。

「あ、これ右か」

 下手な言い訳を考えている間に次の辻道に差し掛かり、アプリの指示通り右折する。

 次の景色は築十年も無さそうな立派な木造の家。駐車場には元彼がよく話していたのと似た形状の車が停まっている。あれもきっと高級車なのだろう。田舎の小金持ちというやつだろうか。

 視線をスマホに戻す。

 指示は三つ先の道を左折。

 地図アプリを閉じ、SNSを開いて通知が無いか確認する。

 どうせ炊事場の包丁の音すら聞こえてくる静かな田舎だ、歩きスマホをしていたって車が来たら音で気づくだろう。

 タッ……タッ……タッ……タッ……。

「……そういや、今日祝日か」

 SNSの通知は、今日集まっていた友人たちの待ち合わせのやり取りが大半だった。

 本当なら、あの写真に私も写っているはずだった。なんなら、私から呼びかけた集まりだったのだから。

 ただ、思っていたよりも私の会社では、実績の無い社員に人権が無かっただけの話。

 一瞬、駅のホームを脳裏に思い浮かべ、自ら進んでホームから飛び込む自分の姿を思い浮かべる。

 悪くはないと思った。

 だけれど、それが良い考えでない根拠をだらだらと思い浮かべ、そうしない理由で想像を塗り潰す。

 わかっている。

 つまりは、そんなことをする勇気すらない。

「…………、つまんな」

 もやもやした頭の中をため息に込め、吐き出した。

 タッ……タッ……タッ……タッ───

 あれ。

 ふと顔を上げた。

 空はすっかり青紫色に染まっている。

 庭が森のように生い茂っている一軒家。

 サビだらけのトタン板と黒い朽木の家、その割れた窓からは荷物が溢れ出てている廃屋。

 雑草が伸び切っていて、使われている形跡の無い小さな公園。

 ……たしか、ここで曲がり角があるはずなのだが、そこには黒ずんだ木造のかつて商店だったのであろう建物が続いており、道が無いのである。田舎特有の細道があるわけでもなく。

「……道、間違えた?」

 尻ポケットからスマホを取り出す。

 地図アプリを開く。

 位置情報を───、

「ん?」

 システムメッセージは、場所を特定できませんでしたと告げた。

 えっ、圏外? と画面の右端を見るが、“5G”でこそ無いものの一応電波は入っているらしい。

 単に電波が悪いのだろうか?

地図アプリの指示通りにスマホをくるくると捻って動かしてみるのだが、それでも返ってくるのは同じ回答だった。

「……もう、なんなの」

 役に立たない電子端末をポケットに押し込む。

 たしかに一本遅い電車に乗るつもりでいたが、まさか迷子になるとは思っていなかった。とはいえ、幸い駅の方向くらいは覚えてる。方角も別に見失ってるわけじゃない。歩いていけば少なくとも線路沿いには出られるだろう。

 顔を上げてみる。

 オレンジ色の夕陽に照らされてた景色の中、奥の方にも曲がり角はある。ほら、多分そこを曲がれば駅の方向になるはずだ。

 ……オレンジ色?

 目を細めたまま空を見上げる。

 オレンジ色だ。

 おかしいな、さっきまでもっと暗くなってたような気がしたんだけどな。

 それに。

「あれ、公園は?」

 さっき、公園と建物の間に地図にはあるはずの道が見当たらなかった。間違いない、この苛立ちを覚えている。

 そこにあるのは、人の手が入っていない、土の匂いが強い雑木林だった。

 その隣はトタン板の古びていて人気のない工場。……サビたトタン板と黒い朽木の民家だったはずだ。

 景色をぐるりと見渡す。

 さっきまでの景色と、違って見える。

「…………相当疲れてんのかな、私」

 よく見れば、さっきまで歩いていた道に「歩行者通行止」の標識もある。よっぽど周りが見えていなかったのかもしれない。

 深呼吸をしてみせる。ため息混じりの力ない息を吐き出す。

 とにかく、一旦大きい道に出よう。

 そうすれば電波も掴まるだろうし、視界が開ければ駅も見つけやすいかもしれない。


 ──いや、なんか変だ。

 明らかにおかしい。

 工事中で通れない道というわけでもない。かといってなにか危険があるわけでもない。なのに何故、あの道は通行止めなんだろう。

 振り返る。

「えっ」

 さっき、三つ奥の交差点に通行止めの標識が一つあっただけだった。

 二つある。

 二つ奥の交差点にも立っている。

「……」

 早く帰ろう。

 なんだか、気持ち悪い場所だ。

 きっと、見落としていただけなんだとは思う。だけど、さっきから変な違和感ばかりで気味が悪い。

 タッ、タッ、タッ、タッ、タッ……タッ。

 ふと、振り返ってみる。

 標識は三つ。

「────ッ!?」

 咄嗟に私は走り出していた。

 おかしい。

 絶対におかしい。

 よくわからないけど、絶対にやばい。

 タッ!タッ!タッ!タッ!タッ!

 民家。

 民家。

 畑。

 民家。

 次々に建物を過ぎ去っていく。

 振り返る。

 さっきまで私が立っていたところに、通行止。

 前に向き直る。

 タッ!タッ!タッ!タッ!タッ!

 木板。

 トタン板。

 木板。

 木板。

 後ろ。

 すぐ後ろ、トタン板の建物の横に通行止。

 増えてる。近づいてきてる。このままだと追いつかれる。

 前。

 タッ!タッ!タッ!タッ!タッ!

 やばい。

 やばい。

 誰か、誰でもいいからいないの?

 背後を見やると、すぐ後ろにまで。もう何本あるかわからない。

 もうすぐで曲がり角。

 まっすぐ走るだけじゃきっと間に合わない。とにかく、誰でもいい、誰かいる場所に。

 そう、縋り付くようにブロック塀を曲がる。

 角に入り込む刹那、視界の端には数十の通行止が、道路から、民家から、畑から、まっすぐに、あるいは斜めに伸びている光景が垣間見える。

 あそこに自分が取り残されていたことを思うと、ぞっと背筋が引き締まった。

 とにかく、曲がった先。

 人はいないが、変な標識はない。ただ、すぐそこに駅が見える。ここへ来た時に使った駅があんな感じだったはずだ。あそこは有人駅のはずだ。

 喉奥の鉄の匂いを飲み込む。震える足に鞭を打ってさらに走る。

 改札口にさえ行けば誰かいるはず。

 後ろが気になってしまう気持ちをぐっとこらえる。振り返っている余裕なんてない、少しでも早く人のいる場所に。

 タッ!タッ!タッ!タッ!タッ!…………タッ、タッ、タッ。


 ──改札口。

 ぜぇ、ぜぇと肩で息をする。

 窓口を見遣るが、どうやら今は駅員がいない。きっと改札の奥にいるんだろう。

 すぐに私はICカードを改札口に当てる。

「ぜぇ……ぜぇ……あれ?」

 当てる。

 反応しない。

 故障? こんな時に?

「あ、あのー、すいま──、

 顔を上げた時だった。

 そこには、通行止の標識が私を見下ろしていた。

 


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