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百二十の明かりが消えた夜

作者: 雨宮悠理
掲載日:2026/08/03

 その団地には、同じ形の窓が百二十個あった。


 正確に数えたわけではない。五階建てが三棟。それぞれの階に同じ大きさの窓が並んでいるから、たぶんそのくらいだろうと思っただけだ。


 どの窓も、外から見れば同じだった。


 だから、そのうちの一つが自分の家になったところで、特に何も感じなかった。


「悠真、その段ボール、いつ片づけるの」


 台所から母の声がした。


「そのうち」


「そのうちっていつ?」


「夏休み中」


「あと四日しかないけど」


「じゃあ四日以内」


 母は何か言いかけて、やめた。


 ここへ越してきてからというもの、そういうことが増えた。


 以前なら「屁理屈言わないの」と返してきたはずだ。けれど今の母は、僕の機嫌を窺うように一度黙る。僕もそれが分かるから、余計に話したくなくなる。


 六畳の部屋には、まだ三つの段ボールが残っていた。


 一つには教科書。もう一つには服。最後の一つには、前の家から持ってきた細々とした物が詰め込まれている。父に買ってもらった腕時計も、おそらくその中だ。


 だがそれを探す気にはなれなかった。


 夜の八時を過ぎても、部屋は蒸し暑かった。窓の外では、羽虫が廊下の蛍光灯に群がっている。


 ベッドに寝転び、スマートフォンを眺めていると、突然、部屋が暗くなった。


 エアコンの音も、冷蔵庫の低い唸りも、まとめて消えた。


「えっ」


 台所で母が声を上げる。


 スマートフォンの明かりを頼りに廊下へ出た。ブレーカーを確認したが落ちていない。窓を開けると、向かいの棟も、その隣の棟も真っ暗だった。


 百二十個の窓が、一つ残らず夜に溶けていた。


「停電みたいね」


「見れば分かる」


「あんた、感じ悪いわねえ」


 今度はちゃんと、いつもの母らしい言葉が返ってきた。


 そのことに、少しだけ安心した。


 二十分ほどすると、外から拡声器の声が聞こえた。


『設備故障による停電です。現在、復旧作業を行っております。復旧予定時間はまだ正確に分かっていませんが、もしかすると日付が変わって一時頃になるかもしれません。冷蔵庫の開閉は、できるだけ控えてください』


 直後、どこかの部屋から「一時だって!」という子どもの声が響いた。


「冷凍庫、結構入ってるのよね」


 母が暗闇の中で呟いた。


「開けるなって言ってるじゃん」


「でも、五時間でしょう。最近の暑さじゃ心配ね」


「じゃあ、食べれば」


「この量を?」


 母が冷蔵庫を開けた。庫内灯はつかなかったが、冷気だけが足元に流れてきた。


 肉、野菜、卵、作り置きの惣菜。冷凍庫には、特売日に買い込んだ食品が隙間なく詰められている。


「二人じゃ無理ね」


 母が困ったように笑った、そのときだった。


「四〇三号室の石田でーす!」


 玄関の向こうから、腹に響く大声がした。


「冷蔵庫の中身が心配な方は、中庭へ持ってきてくださーい! 生ものから先に、みんなで食べましょう! カセットコンロがある方もお願いしまーす!」


「だって」


 母が僕を見る。


「本気でやるの?」


「夏祭りの役員をされている石田さん。こういうとき、すぐ動いてくださるのよ」


 母はそう言いながら、冷蔵庫の中から肉と野菜を取り出した。


「ほら、悠真もアイス持って」


「僕も行くの?」


「一人で留守番しても暑いだけでしょう」


 反論できなかった。


  ◇◆◇◆◇


 中庭には、思った以上に人が集まっていた。


 懐中電灯やスマートフォンの明かりが、暗闇の中をあちこち動いている。中央にはレジャーシートが何枚も敷かれ、カセットコンロが六台。石田さんらしい小柄な老人が、首にタオルを巻いて指示を出していた。


「生ものはこっち! 冷凍食品はあっち! アイスはもう食べるしかない!」


「石田さん、うち、餃子が四十個あります!」


「焼きましょう!」


「ホットケーキミックスも持ってきました!」


「それは停電でも悪くならんでしょう!」


「でも、せっかくなので!」


「まあ、持ってきたなら焼きましょう!」


 結局焼くのか。


 ホットケーキミックスを持ってきた女性は、牛乳と卵も抱えていた。そちらを使い切りたかったのかもしれない。


 母は豚肉と野菜を差し出すと、近所の女性たちに混ざって調理を始めた。僕は冷凍庫から持たされた箱入りのアイスを抱えたまま、居場所を失った。


「お兄ちゃん、アイス溶けるよ」


 小学生くらいの男の子に指摘された。


「分かってる」


「分かってる人は早く食べるよ」


「じゃあ、いる?」


「いいの?」


 頷くと、男の子は妹らしき女の子まで呼んできた。さらに別の子どもまで寄ってきて、気づけばアイスは残り二本になった。


 そのうち一本を自分で開けようとしたとき、少し離れた場所に見覚えのある女子を見つけた。


 肩より少し長い黒髪。細い銀縁の眼鏡。白いTシャツに、膝まである紺色のスカートを穿いている。


 名前は知らない。何年生なのかも分からない。


 一学期の終わり頃、転入の手続きを終え、母と一緒に校舎を出ようとしていたとき、帰り際の廊下ですれ違ったことがある。


 眼鏡がよく似合う、地味で大人しそうな雰囲気の女子だった。腕に何冊かの本を抱えて歩く姿には知的な魅力があり、シンプルに可愛いと思った。


 ほんの一瞬すれ違っただけなのに、妙に印象に残っていた。


 その彼女が今、両手に大量のプリンを抱え、暗闇の中で途方に暮れている。


 声をかけるべきか迷った。


 向こうは僕を知らないかもしれない。突然知らない男子に話しかけられたら、普通に怖いだろう。


 迷っているうちに、彼女がこちらを見た。


 目が合った。


 反射的に逸らすには、少し長く見すぎていた。


「……アイス、いりますか」


 結局、口から出たのはそれだった。


 彼女は僕の顔と、手元のアイスを交互に見る。


「いいんですか?」


「少し溶けてますけど」


「じゃあ、プリンと交換で」


 彼女がこちらへ歩いてきた。


 近くで見ると、やはり可愛かった。


「プリン、多くないですか」


「父が買ってくるんです。私が好きだと思ってるから」


「好きじゃないんですか?」


「嫌いじゃないですけど、毎日はいらないです」


 十二個入りの袋が二つあった。


「業者みたいですね」


「週に二回買ってきます」


「なんで?」


「たぶん、ほかに何を買えば喜ぶのか分からないんだと思います」


 彼女は一つ取り出し、僕に差し出した。


「これで交換成立です」


「アイス、もう形がないですよ」


「プリンもぬるくなり始めているので、お互いさまです」


 僕たちは中庭の端にある階段へ座った。


 少し溶けたアイスは袋の中で形を失っていた。彼女は端を切り、吸うようにして食べている。


 レジャーシートの方では、見知らぬ住人たちが勝手な料理を作っていた。


 餃子の隣で焼かれるホットケーキ。肉と魚介が一緒に放り込まれた炒め物。大量の枝豆。なぜか高そうなステーキ肉を持ってきた老人は、「退院したら食べようと思っていたが、今日でも同じことだ」と豪快に笑った。


 強面の会社員は、コンビニ袋いっぱいの生クリームを抱えて途方に暮れていた。娘の誕生日ケーキを作る練習中だったらしい。


 騒がしくて、統一感がなくて、少し煙たかった。


「前に、学校にいませんでした?」


 彼女が言った。


「やっぱり、覚えてました?」


「なんとなく。廊下ですれ違った気がして。同じ学年ですか?」


「二年です」


「私も二年」


「夏休み明けから、あの学校に転校するんです。あの日はその手続きで」


「ああ。どうりで見たことがなかったんだ」


 彼女は納得したように頷いた。


「どのクラスに入るかは?」


「まだ聞いてないです。始業式の日に分かるみたいで」


「そうなんですね。私は五組です」


「近いクラスだといいですね」


 口にしてから、少し踏み込みすぎた気がした。


 けれど彼女は嫌そうな顔をせず、「そうですね」と笑った。


「私、水野紗季です」


「佐伯悠真です」


 ようやく互いの名前を知った。


「同じ学年なら、敬語やめません?」


 水野が言った。


「そうする?」


「うん。その方が話しやすそう」


 そう言ったものの、急に話し方を変えるのは難しいらしい。水野は少し考えるように黙り、溶けかけたアイスをもう一口吸った。


「水野さん、この団地だったんだ」


「三棟の二〇六。佐伯君は一棟の三〇五だよね」


「なんで知ってるの?」


「引っ越してきた日に見たから。大きな段ボールを落としてた」


「見られてたのか」


「すごい音がしたし」


 水野が小さく笑った。


「僕が学校にいるの、想像できる?」


「制服を着れば、それなりに見えると思う」


「今は?」


「引っ越しの途中で、片づけるのを諦めた人」


「だいたい合ってる」


 中庭では、先ほどの男の子が皿を持ったまま走り、母親に怒られていた。石田さんはホットケーキを焦がし、粉を持ってきた女性から責められている。


「私、ここにこんなに人が住んでるって、初めて知った」


 水野が言った。


「住んでるのは知ってたでしょ」


「そうじゃなくて。何を食べるとか、何が好きとか。普段は分からないから」


 水野の視線の先で、ステーキ肉を持ってきた老人が、小学生たちに肉を切り分けていた。その隣では、生クリームの会社員が子どもたちと一緒にホットケーキを飾りつけている。


「外から見たら、どの部屋も同じだもんな」


「佐伯君の家には、アイスがたくさんある」


「特売品だけどね」


「うちにはプリンがたくさんある」


「お父さんの愛情だ」


「少し多すぎるけど」


 水野が笑った。


 その顔を見ていると、停電も悪いことばかりではない気がした。


「引っ越してくるの、嫌だった?」


 不意に聞かれた。


「どうして?」


「段ボールを落としたあと、しばらく拾わずに座ってたから」


 そこまで見られていたらしい。


「両親が離婚したんだ。それで、母親の実家に近いここへ」


 口にしてみると、思ったより簡単な話に聞こえた。


「そっか」


「ごめん。急に重い話して」


「聞いたのは私だから」


 水野は空になったアイスの袋を丁寧に畳んだ。


「まだ、引っ越してきてよかったとは思えない?」


「分からない。前の家に戻りたいわけでもないけど、ここが自分の家って感じもしなくて」


「来たばかりなら、普通じゃないかな」


「そういうもの?」


「たぶん。私も最初は、どの階段を使えば自分の部屋に戻れるのか分からなかったし」


「それは水野さんが方向音痴なだけじゃない?」


「佐伯君も最近この辺りで迷ってたよね」


「見てたの?」


「ベランダから」


「結構見られてるな、僕」


「目立ってたから」


 水野は否定しなかった。


「悠真!」


 母に呼ばれた。


「お皿を配るの手伝って!」


「だってさ」


「行ってきたら?」


「水野さんも」


「私はいいよ」


「プリン二十四個、一人で配れるの?」


 水野は袋の中を見下ろした。


 数秒迷ったあと、立ち上がる。


「じゃあ、半分持って」


「十二個も?」


「溶けたアイス一本と交換なんだから、安いでしょ」


 僕たちは料理の並ぶレジャーシートへ向かった。


 水野のことを知っているらしい小学生が、すぐに駆け寄ってくる。石田さんは「プリンが来たぞ!」と、祭りの開始でも告げるように叫んだ。


 母が僕の隣にいる水野を見て、少し驚いた顔をした。


「同じ学校の水野さん」


「こんばんは」


「こんばんは。悠真の母です」


「見れば分かるよ」


 僕が言うと、母は僕の背中を軽く叩いた。


 水野が笑った。


  ◇◆◇◆◇


 食べ物がなくなっても、すぐに部屋へ戻る人は少なかった。


 エアコンの止まった部屋より、風の通る中庭の方が涼しかったからだ。


 誰かが持ってきた小さなラジオから音楽が流れ、子どもたちは懐中電灯を使って影踏みを始めた。大人たちは団扇を片手に話し込み、石田さんは空になった皿を何度も数えていた。


 十一時を過ぎると、小さな子どものいる家族から少しずつ部屋へ戻っていった。


 日付が変わる頃には、残っているのは十人ほどになっていた。


 僕と水野は、ずっと階段に座って話していた。


 好きな授業。苦手な教師。学校近くのパン屋。夏休みの宿題。水野が眼鏡を外すとほとんど何も見えないこと。僕が引っ越す前に出場したテニスの大会で惨敗してしまったこと。


 どれも、明日になれば忘れてしまいそうな話だった。


 けれど、忘れても構わないと思った。


 大切なのは話の中身より、水野が隣にいることだった。


「もう一時だね」


 水野がスマートフォンの画面を見る。


「本当に戻るのかな」


「戻らなかったら、朝までここにいる?」


「それは少し楽しそう」


「明日になったら後悔しそうだけど」


「暑い部屋で一人で待つよりはいいよ」


 そう言って、水野は暗い団地を見上げた。


「明かりがついたら、もう帰るんだよね」


「そりゃあ、帰るでしょ」


「そうだよね」


 何でもない言葉だった。


 それなのに、少しだけ残念そうに聞こえた。


 一時十三分。


 何の前触れもなく、団地中の窓に明かりが戻った。


 エアコンの室外機が次々と動き出し、低い唸りが夜の中へ広がっていく。


 誰かが拍手をした。


 残っていた住人たちもつられて手を叩いた。


 向かいの棟では、眠そうな子どもがカーテンを開け、明るくなった中庭を見下ろしていた。


「戻ったね」


 水野が言った。


「戻っちゃったな」


 そう答えると、水野は少しだけ目を細めた。


 明るくなった中庭で改めて顔を見ると、急に気恥ずかしくなった。暗闇の中では平気だった沈黙にも、何か言葉を足さなければならない気がする。


「学校で見かけたら、声をかけてもいい?」


 水野が言った。


「もちろん」


「知らないふりしないでね」


「水野さんこそ」


「私は大丈夫。佐伯君、目立つから」


「まだ制服も着てないのに?」


「片づけるのを諦めた人として覚えてる」


 水野は立ち上がり、空になったプリンの袋を持った。


「じゃあ、また学校で」


「うん。また」


 彼女はそのまま三棟へ帰っていった。


 途中で一度だけ振り返り、小さく手を振った。


 僕も振り返した。


 中庭を片づけて部屋へ戻ると、母はすぐにエアコンの前へ座り込んだ。


「生き返るわ」


「大げさ」


「あんたは随分楽しそうだったけどね」


「別に」


「水野さん、可愛い子ね」


「そういうのいいから」


 自分の部屋へ逃げ、窓を開けた。


 向かいに並んだ窓は、停電する前と同じように明るくなっていた。


 あの窓のどれかに、退院祝いの時機を逃した老人がいる。別の窓には、ケーキ作りの下手な会社員や、餃子を四十個、保存している家族がいる。


 外から見れば、どれも同じ窓だ。


 けれど今は、その一つひとつの向こうに、それぞれの暮らしがあることを知っていた。


 三棟の二階に、新しく明かりがついた。


 しばらくするとカーテンが開き、水野が窓辺に現れた。


 こちらに気づいたのか、彼女が小さく手を振る。


 僕も手を上げた。


 カーテンが閉じたあとも、しばらくその窓を眺めていた。


 百二十個ある同じ形の窓の中で、僕は初めて、その一つを見分けられるようになった。

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