百二十の明かりが消えた夜
その団地には、同じ形の窓が百二十個あった。
正確に数えたわけではない。五階建てが三棟。それぞれの階に同じ大きさの窓が並んでいるから、たぶんそのくらいだろうと思っただけだ。
どの窓も、外から見れば同じだった。
だから、そのうちの一つが自分の家になったところで、特に何も感じなかった。
「悠真、その段ボール、いつ片づけるの」
台所から母の声がした。
「そのうち」
「そのうちっていつ?」
「夏休み中」
「あと四日しかないけど」
「じゃあ四日以内」
母は何か言いかけて、やめた。
ここへ越してきてからというもの、そういうことが増えた。
以前なら「屁理屈言わないの」と返してきたはずだ。けれど今の母は、僕の機嫌を窺うように一度黙る。僕もそれが分かるから、余計に話したくなくなる。
六畳の部屋には、まだ三つの段ボールが残っていた。
一つには教科書。もう一つには服。最後の一つには、前の家から持ってきた細々とした物が詰め込まれている。父に買ってもらった腕時計も、おそらくその中だ。
だがそれを探す気にはなれなかった。
夜の八時を過ぎても、部屋は蒸し暑かった。窓の外では、羽虫が廊下の蛍光灯に群がっている。
ベッドに寝転び、スマートフォンを眺めていると、突然、部屋が暗くなった。
エアコンの音も、冷蔵庫の低い唸りも、まとめて消えた。
「えっ」
台所で母が声を上げる。
スマートフォンの明かりを頼りに廊下へ出た。ブレーカーを確認したが落ちていない。窓を開けると、向かいの棟も、その隣の棟も真っ暗だった。
百二十個の窓が、一つ残らず夜に溶けていた。
「停電みたいね」
「見れば分かる」
「あんた、感じ悪いわねえ」
今度はちゃんと、いつもの母らしい言葉が返ってきた。
そのことに、少しだけ安心した。
二十分ほどすると、外から拡声器の声が聞こえた。
『設備故障による停電です。現在、復旧作業を行っております。復旧予定時間はまだ正確に分かっていませんが、もしかすると日付が変わって一時頃になるかもしれません。冷蔵庫の開閉は、できるだけ控えてください』
直後、どこかの部屋から「一時だって!」という子どもの声が響いた。
「冷凍庫、結構入ってるのよね」
母が暗闇の中で呟いた。
「開けるなって言ってるじゃん」
「でも、五時間でしょう。最近の暑さじゃ心配ね」
「じゃあ、食べれば」
「この量を?」
母が冷蔵庫を開けた。庫内灯はつかなかったが、冷気だけが足元に流れてきた。
肉、野菜、卵、作り置きの惣菜。冷凍庫には、特売日に買い込んだ食品が隙間なく詰められている。
「二人じゃ無理ね」
母が困ったように笑った、そのときだった。
「四〇三号室の石田でーす!」
玄関の向こうから、腹に響く大声がした。
「冷蔵庫の中身が心配な方は、中庭へ持ってきてくださーい! 生ものから先に、みんなで食べましょう! カセットコンロがある方もお願いしまーす!」
「だって」
母が僕を見る。
「本気でやるの?」
「夏祭りの役員をされている石田さん。こういうとき、すぐ動いてくださるのよ」
母はそう言いながら、冷蔵庫の中から肉と野菜を取り出した。
「ほら、悠真もアイス持って」
「僕も行くの?」
「一人で留守番しても暑いだけでしょう」
反論できなかった。
◇◆◇◆◇
中庭には、思った以上に人が集まっていた。
懐中電灯やスマートフォンの明かりが、暗闇の中をあちこち動いている。中央にはレジャーシートが何枚も敷かれ、カセットコンロが六台。石田さんらしい小柄な老人が、首にタオルを巻いて指示を出していた。
「生ものはこっち! 冷凍食品はあっち! アイスはもう食べるしかない!」
「石田さん、うち、餃子が四十個あります!」
「焼きましょう!」
「ホットケーキミックスも持ってきました!」
「それは停電でも悪くならんでしょう!」
「でも、せっかくなので!」
「まあ、持ってきたなら焼きましょう!」
結局焼くのか。
ホットケーキミックスを持ってきた女性は、牛乳と卵も抱えていた。そちらを使い切りたかったのかもしれない。
母は豚肉と野菜を差し出すと、近所の女性たちに混ざって調理を始めた。僕は冷凍庫から持たされた箱入りのアイスを抱えたまま、居場所を失った。
「お兄ちゃん、アイス溶けるよ」
小学生くらいの男の子に指摘された。
「分かってる」
「分かってる人は早く食べるよ」
「じゃあ、いる?」
「いいの?」
頷くと、男の子は妹らしき女の子まで呼んできた。さらに別の子どもまで寄ってきて、気づけばアイスは残り二本になった。
そのうち一本を自分で開けようとしたとき、少し離れた場所に見覚えのある女子を見つけた。
肩より少し長い黒髪。細い銀縁の眼鏡。白いTシャツに、膝まである紺色のスカートを穿いている。
名前は知らない。何年生なのかも分からない。
一学期の終わり頃、転入の手続きを終え、母と一緒に校舎を出ようとしていたとき、帰り際の廊下ですれ違ったことがある。
眼鏡がよく似合う、地味で大人しそうな雰囲気の女子だった。腕に何冊かの本を抱えて歩く姿には知的な魅力があり、シンプルに可愛いと思った。
ほんの一瞬すれ違っただけなのに、妙に印象に残っていた。
その彼女が今、両手に大量のプリンを抱え、暗闇の中で途方に暮れている。
声をかけるべきか迷った。
向こうは僕を知らないかもしれない。突然知らない男子に話しかけられたら、普通に怖いだろう。
迷っているうちに、彼女がこちらを見た。
目が合った。
反射的に逸らすには、少し長く見すぎていた。
「……アイス、いりますか」
結局、口から出たのはそれだった。
彼女は僕の顔と、手元のアイスを交互に見る。
「いいんですか?」
「少し溶けてますけど」
「じゃあ、プリンと交換で」
彼女がこちらへ歩いてきた。
近くで見ると、やはり可愛かった。
「プリン、多くないですか」
「父が買ってくるんです。私が好きだと思ってるから」
「好きじゃないんですか?」
「嫌いじゃないですけど、毎日はいらないです」
十二個入りの袋が二つあった。
「業者みたいですね」
「週に二回買ってきます」
「なんで?」
「たぶん、ほかに何を買えば喜ぶのか分からないんだと思います」
彼女は一つ取り出し、僕に差し出した。
「これで交換成立です」
「アイス、もう形がないですよ」
「プリンもぬるくなり始めているので、お互いさまです」
僕たちは中庭の端にある階段へ座った。
少し溶けたアイスは袋の中で形を失っていた。彼女は端を切り、吸うようにして食べている。
レジャーシートの方では、見知らぬ住人たちが勝手な料理を作っていた。
餃子の隣で焼かれるホットケーキ。肉と魚介が一緒に放り込まれた炒め物。大量の枝豆。なぜか高そうなステーキ肉を持ってきた老人は、「退院したら食べようと思っていたが、今日でも同じことだ」と豪快に笑った。
強面の会社員は、コンビニ袋いっぱいの生クリームを抱えて途方に暮れていた。娘の誕生日ケーキを作る練習中だったらしい。
騒がしくて、統一感がなくて、少し煙たかった。
「前に、学校にいませんでした?」
彼女が言った。
「やっぱり、覚えてました?」
「なんとなく。廊下ですれ違った気がして。同じ学年ですか?」
「二年です」
「私も二年」
「夏休み明けから、あの学校に転校するんです。あの日はその手続きで」
「ああ。どうりで見たことがなかったんだ」
彼女は納得したように頷いた。
「どのクラスに入るかは?」
「まだ聞いてないです。始業式の日に分かるみたいで」
「そうなんですね。私は五組です」
「近いクラスだといいですね」
口にしてから、少し踏み込みすぎた気がした。
けれど彼女は嫌そうな顔をせず、「そうですね」と笑った。
「私、水野紗季です」
「佐伯悠真です」
ようやく互いの名前を知った。
「同じ学年なら、敬語やめません?」
水野が言った。
「そうする?」
「うん。その方が話しやすそう」
そう言ったものの、急に話し方を変えるのは難しいらしい。水野は少し考えるように黙り、溶けかけたアイスをもう一口吸った。
「水野さん、この団地だったんだ」
「三棟の二〇六。佐伯君は一棟の三〇五だよね」
「なんで知ってるの?」
「引っ越してきた日に見たから。大きな段ボールを落としてた」
「見られてたのか」
「すごい音がしたし」
水野が小さく笑った。
「僕が学校にいるの、想像できる?」
「制服を着れば、それなりに見えると思う」
「今は?」
「引っ越しの途中で、片づけるのを諦めた人」
「だいたい合ってる」
中庭では、先ほどの男の子が皿を持ったまま走り、母親に怒られていた。石田さんはホットケーキを焦がし、粉を持ってきた女性から責められている。
「私、ここにこんなに人が住んでるって、初めて知った」
水野が言った。
「住んでるのは知ってたでしょ」
「そうじゃなくて。何を食べるとか、何が好きとか。普段は分からないから」
水野の視線の先で、ステーキ肉を持ってきた老人が、小学生たちに肉を切り分けていた。その隣では、生クリームの会社員が子どもたちと一緒にホットケーキを飾りつけている。
「外から見たら、どの部屋も同じだもんな」
「佐伯君の家には、アイスがたくさんある」
「特売品だけどね」
「うちにはプリンがたくさんある」
「お父さんの愛情だ」
「少し多すぎるけど」
水野が笑った。
その顔を見ていると、停電も悪いことばかりではない気がした。
「引っ越してくるの、嫌だった?」
不意に聞かれた。
「どうして?」
「段ボールを落としたあと、しばらく拾わずに座ってたから」
そこまで見られていたらしい。
「両親が離婚したんだ。それで、母親の実家に近いここへ」
口にしてみると、思ったより簡単な話に聞こえた。
「そっか」
「ごめん。急に重い話して」
「聞いたのは私だから」
水野は空になったアイスの袋を丁寧に畳んだ。
「まだ、引っ越してきてよかったとは思えない?」
「分からない。前の家に戻りたいわけでもないけど、ここが自分の家って感じもしなくて」
「来たばかりなら、普通じゃないかな」
「そういうもの?」
「たぶん。私も最初は、どの階段を使えば自分の部屋に戻れるのか分からなかったし」
「それは水野さんが方向音痴なだけじゃない?」
「佐伯君も最近この辺りで迷ってたよね」
「見てたの?」
「ベランダから」
「結構見られてるな、僕」
「目立ってたから」
水野は否定しなかった。
「悠真!」
母に呼ばれた。
「お皿を配るの手伝って!」
「だってさ」
「行ってきたら?」
「水野さんも」
「私はいいよ」
「プリン二十四個、一人で配れるの?」
水野は袋の中を見下ろした。
数秒迷ったあと、立ち上がる。
「じゃあ、半分持って」
「十二個も?」
「溶けたアイス一本と交換なんだから、安いでしょ」
僕たちは料理の並ぶレジャーシートへ向かった。
水野のことを知っているらしい小学生が、すぐに駆け寄ってくる。石田さんは「プリンが来たぞ!」と、祭りの開始でも告げるように叫んだ。
母が僕の隣にいる水野を見て、少し驚いた顔をした。
「同じ学校の水野さん」
「こんばんは」
「こんばんは。悠真の母です」
「見れば分かるよ」
僕が言うと、母は僕の背中を軽く叩いた。
水野が笑った。
◇◆◇◆◇
食べ物がなくなっても、すぐに部屋へ戻る人は少なかった。
エアコンの止まった部屋より、風の通る中庭の方が涼しかったからだ。
誰かが持ってきた小さなラジオから音楽が流れ、子どもたちは懐中電灯を使って影踏みを始めた。大人たちは団扇を片手に話し込み、石田さんは空になった皿を何度も数えていた。
十一時を過ぎると、小さな子どものいる家族から少しずつ部屋へ戻っていった。
日付が変わる頃には、残っているのは十人ほどになっていた。
僕と水野は、ずっと階段に座って話していた。
好きな授業。苦手な教師。学校近くのパン屋。夏休みの宿題。水野が眼鏡を外すとほとんど何も見えないこと。僕が引っ越す前に出場したテニスの大会で惨敗してしまったこと。
どれも、明日になれば忘れてしまいそうな話だった。
けれど、忘れても構わないと思った。
大切なのは話の中身より、水野が隣にいることだった。
「もう一時だね」
水野がスマートフォンの画面を見る。
「本当に戻るのかな」
「戻らなかったら、朝までここにいる?」
「それは少し楽しそう」
「明日になったら後悔しそうだけど」
「暑い部屋で一人で待つよりはいいよ」
そう言って、水野は暗い団地を見上げた。
「明かりがついたら、もう帰るんだよね」
「そりゃあ、帰るでしょ」
「そうだよね」
何でもない言葉だった。
それなのに、少しだけ残念そうに聞こえた。
一時十三分。
何の前触れもなく、団地中の窓に明かりが戻った。
エアコンの室外機が次々と動き出し、低い唸りが夜の中へ広がっていく。
誰かが拍手をした。
残っていた住人たちもつられて手を叩いた。
向かいの棟では、眠そうな子どもがカーテンを開け、明るくなった中庭を見下ろしていた。
「戻ったね」
水野が言った。
「戻っちゃったな」
そう答えると、水野は少しだけ目を細めた。
明るくなった中庭で改めて顔を見ると、急に気恥ずかしくなった。暗闇の中では平気だった沈黙にも、何か言葉を足さなければならない気がする。
「学校で見かけたら、声をかけてもいい?」
水野が言った。
「もちろん」
「知らないふりしないでね」
「水野さんこそ」
「私は大丈夫。佐伯君、目立つから」
「まだ制服も着てないのに?」
「片づけるのを諦めた人として覚えてる」
水野は立ち上がり、空になったプリンの袋を持った。
「じゃあ、また学校で」
「うん。また」
彼女はそのまま三棟へ帰っていった。
途中で一度だけ振り返り、小さく手を振った。
僕も振り返した。
中庭を片づけて部屋へ戻ると、母はすぐにエアコンの前へ座り込んだ。
「生き返るわ」
「大げさ」
「あんたは随分楽しそうだったけどね」
「別に」
「水野さん、可愛い子ね」
「そういうのいいから」
自分の部屋へ逃げ、窓を開けた。
向かいに並んだ窓は、停電する前と同じように明るくなっていた。
あの窓のどれかに、退院祝いの時機を逃した老人がいる。別の窓には、ケーキ作りの下手な会社員や、餃子を四十個、保存している家族がいる。
外から見れば、どれも同じ窓だ。
けれど今は、その一つひとつの向こうに、それぞれの暮らしがあることを知っていた。
三棟の二階に、新しく明かりがついた。
しばらくするとカーテンが開き、水野が窓辺に現れた。
こちらに気づいたのか、彼女が小さく手を振る。
僕も手を上げた。
カーテンが閉じたあとも、しばらくその窓を眺めていた。
百二十個ある同じ形の窓の中で、僕は初めて、その一つを見分けられるようになった。




