ただ、飯食って、寝るだけ
目の前で肉が焼ける光景を肴に、瑞希は持っていたジョッキに残っていた生ビールを全て飲み干す。
やはり、金曜日、仕事終わりの生ビールが一番美味い。
行儀悪く手で口元を拭き、生ビールのお代わりを頼もうと忙しなく働く店員に声をかけようとする。
すると、机の上に置いてあったスマホの通知音が鳴る。
画面を一瞥して、内容を確認した瑞希の頬が自然と緩む。
「すいませーーーん、生二つお願いしまーす!!」
ジョッキを高く掲げ、声を上げると、店の奥から喜んでーと気持ちのいい活気が返ってくる。
店のごった具合も相まって、ここは瑞希のお気に入りの場所の一つだった。
早くおかわり来ないかなと、そわそわしながら肉が焼ける様子を窺っていると、店の入り口の引き戸が音を立てて開いた。
その音に少しだけ瑞希の体が揺れるも、後ろは振り向かない。
喧騒の中、近付いてくる足音を無意識に聞き分けていると、目の前の席を引く手が視界に入る。
スーツを少しだけ着崩した細身の男性が無遠慮に座ってきた。
そんな男性の姿を一瞬だけ見上げた瑞希は、すぐに視線を網の上で焼けていく肉へと戻す。
「お疲れ、今日は随分と遅かったじゃん」
「今日中に提出しなきゃいけない見積もりがあったんだよ。あぁー、つっかれたー」
約束の時間をすでに1時間以上過ぎているので、相当急な案件だったのだろう。
目の前で不満げに唇を尖らせる男性に、心の中でご愁傷様と手を合わせる。
「朝陽の分も、生ビール頼んだけど、大丈夫だった?」
「うん、さんきゅ」
窮屈そうなネクタイを外し、クルクルと巻いたそれを朝陽恵吾は鞄に入れる。
細い首元が露わになり、仕事中はそれなりに整えていたらしい茶髪が、今では無造作に額へ落ちている。
「はい、生二つおまちー!!」
注文していた生ビールのジョッキが卓上に置かれる。
待ち侘びていたビールに瑞希はすぐに飲みたい衝動に駆られるも、その気持ちを抑えてジョッキを持った手を少し上げる。
それに応えるように恵吾もジョッキを持ち上げ、瑞希のものと合わせる。
「それじゃあ、今週も1週間おつかれ!」
「かんぱーい!!」
こうして、今夜も待ちに待った金曜日の夜が幕を上げたのである。
・
コンビニの前の喫煙スペースで煙草を咥えながら、瑞希はスマホを手に取る。
スマホの画面に表示されている時間はもう少しで次の日、土曜日になろうとしていた。
今日も散々仕事の愚痴を言い合って、酒を飲んで、肉をたらふく食べて、実にいい夜だった。
その後も、いい感じのスナックに立ち寄って、美人なママさんとお姉様方に囲まれて気持ちよく酒が飲めて、瑞希はとても満足だった。
「また、一人でニヤけてる...」
レジ袋を片手にコンビニから恵吾が出てきたので、瑞希はスマホをポケットに入れる。
咥えていた煙草を吸い上げ、ふーっと息を吐く。
やっぱり、酒を飲んだ後の煙草も美味い。
「ほれ、水」
「ありがとっ、いくらだった?」
「別にいいよ。今更」
そう言って、恵吾はキャップを緩めたペットボトルの水を手渡してきた。
受け取ったペットボトルを口に含みながら瑞希は水を飲む恵吾を横目で見る。
明るい茶髪に、人懐っこそうな垂れ目。改めて見るとやはり、女性受けのよさそうな整った顔立ちだ。
先ほどのスナックでもお姉様方から熱い視線を一身に受けていたのだが、本人は笑顔でそれらを愛想よく躱していたため、女性の扱いも手慣れている。
まぁ、そんなことは瑞希もわかっているのだが。
見られていることに気付いたのか、恵吾と視線が合ったが、瑞希はすぐに逸らした。
「これから、またどっか行くか?」
「んー、もう十分飲んだし、帰ろっかな」
煙草の吸い殻を携帯灰皿に押し込んだ瑞希は軽く一歩を踏み出した。
酔いがだいぶ回っていたのか、そんなちょっとした動作でも足がふらついてしまう。
だが、後ろから恵吾が支えてくれたので、瑞希は転ばずに済んだ。
「気ぃつけろよ」
「ごめん、ごめんって!」
笑顔で軽く謝るも、一瞬だけ表情を強張らせた恵吾が瑞希の手首を掴み、そのまま歩き出した。
「自分で歩けるよー」
「いいよ、危なっかしい」
こういうさり気ない気配りが、恵吾が女性に好かれる理由なのかもしれないと瑞希は思う。
しかし、そんなことをされても胸はまったくときめかず、自分は女として終わっているのかもしれないと、酔いで上手く回らない頭でぼんやり考えていた。
・
「とーちゃっくっ」
すでに何度も来たことがある恵吾の部屋へ着くと、瑞希は乱暴に靴を脱ぎ捨て、リビングにあるソファの上へと遠慮なく寝そべった。
男の一人暮らしだというのに、恵吾の部屋はいつ来ても綺麗に整理されており、下手したら瑞希の部屋のほうが散らかっている。
「どーする?先に風呂、入るか?」
「んー、お風呂はあとでいいかもー」
ソファに置かれてあるクッションに顔を埋めていると、酔いのせいなのか急に眠気が襲ってきた。
このまま眠ってしまおうかと瞼を閉じかけるも、体を覆いかぶさってくる気配を感じた。
見上げると、少しだけ緊張気味に唇を引き寄せる恵吾と目が合い、瑞希は思わず口角を上げる。
もう何度目になるかわからないのに、今更緊張してどうする。
眠い目を擦りながら、体を起こした瑞希は恵吾の首に両腕を回し、流れるまま口付けをする。
それに応えるように、恵吾の腕が瑞希の細い体を抱き締め、口付けが深くなっていく。
そして、二人して倒れ込むようにソファに体を預けた。
・
「ねぇー、朝陽ーー!!わたしのシャンプー切れちゃったから、朝陽の使っていいーー?」
浴室の扉を開け、リビングにいる恵吾に聞こえるように声を上げる。
「いーよー」
奥の方から気怠げに返事が返ってきたため、瑞希は浴室の扉を閉める。
来週の金曜日に詰め替え用を買い足さなきゃと、恵吾のシャンプーを泡立てながら、瑞希は来週の予定を立てる。
身体もさっぱりして、浴室から出た瑞希はタオルで適当に身体を拭き、洗面台に常備されている自身愛用の化粧水を手に取った。
毎週金曜日、仕事終わりにご飯を食べたあとに恵吾の部屋へと直行する流れになってからだいぶ経つので、瑞希の私物も少しずつ増えてきている。
いつか恵吾に本命の彼女が出来たら全て持ち帰らなければいけないのかと億劫になる時もあるが、今のところそんな気配は感じられないため、めんどくさいことは後回しにしている。
「先、入ったよー。ありがとう」
お気に入りの大きめの部屋着に着替えて、髪もそこそこに乾かして、恵吾がいるリビングへと戻る。
上半身裸の恵吾はソファに上体を起こし、スマホの画面を横に持ちながら、小さく頭を上下に振っている。
「おーい、朝陽ー、起きろー」
隣に座った瑞希が人差し指で頬を突くと、目が覚めたのか恵吾が手で目を擦る。
寝ぼけたような眼差しを瑞希に向けた恵吾は、そのまま顔を近づけて、軽く口付けをする。
突然の行動に瑞希が固まると、恵吾がソファから立ち上がり、浴室へと姿を消した。
本当に、手慣れてるな...、あの男...。
彼女でもない瑞希にもあんな行動をするとなると、本命にはいったいどんなことをするのかちょっとだけ興味が湧いてきてしまう。
しかし、興味を持ったところで一生知ることなどないのだから考えるだけ無駄だと一瞬にしてその考えを切り捨てた瑞希はリビングの奥にある寝室のベッドに寝転がる。
食欲も、性欲も満たされ、気分がいい。あとは睡眠欲を満たすだけだと、どんどん重たくなっていく瞼を閉じる。
薄ぼんやりとなりつつある意識の中、明日の朝はソーセージエッグマフィンが食べたいなと考えながら、瑞希は幸せな眠りについたのであった。
・
朝、カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた瑞希は手探りでスマホを手に取る。
時間を確認すると、もうすぐ朝の10時に差し掛かろうとしていた。
やばい、ソーセージエッグマフィンの提供時間に間に合わなくなると慌てて起き上がった瑞希は、隣で寝ている恵吾の身体を揺する。
「朝陽ー、起きて!!!ソーセージエッグマフィンが終わる!!ねぇってば!!」
「んーっ......」
なかなか起きない恵吾に痺れを切らせた瑞希は頭を何度も叩き始める。
「起きて!!!起きてってば!!!」
「んー、うるさい...っ」
煩わしそうに手を払い除けられ、あろうことか腰を掴まれ、布団の中へと引きずり込まれてしまった。
小柄な瑞希は抵抗する間もなく、恵吾の腕の中にすっぽりと収まる。
瑞希の身体を抱きしめたまま、恵吾はそのまままた眠りについてしまった。
「いや、起きろし!!!!」
どうしてもソーセージエッグマフィンが食べたい瑞希は耳元で寝息を立てる恵吾の頬を容赦なく叩く。
それでも起きる気配がなかったため、恵吾の腕の中でひとしきり暴れる。
相当鬱陶しかったのか、不機嫌に眉を寄せる恵吾がやっと起き上がってきた。
「...何?」
「ソーセージエッグマフィンが終わる!!!ここから最寄りまで30分はかかるじゃん!!早く行かないと食べれなくなる!!!」
寝起きで頭が回らないのか、何言ってんだこいつと瑞希を睨み、少ししてからまた布団の中へと戻っていく。
「ちょっと!!」
「るさいな...。宅配でいいじゃん...」
低い声で提案された内容に、瑞希は確かにと宅配の存在を思い出し、スマホの宅配アプリを起動させた。
「朝陽はなんか食べたいのあるー?」
「......んでもいい...」
相変わらず朝が弱いなと布団の中で寝返りを打つ恵吾を横目に、瑞希は注文画面を開く。
真っ先に自分が食べたいソーセージエッグマフィンを選択して、あとはハッシュドポテトとナゲットも食べたくなってきた。
久しぶりにメイプルシロップたっぷりのパンケーキもいいなと、それも注文することにする。
朝から食べるにしては少し量が多い気もするが、恵吾も一緒に食べるから問題ないだろう。
最後にコーヒーを二つ選択して、少しだけ豪勢な朝食を注文し終えた瑞希は上機嫌でベッドから飛び起きた。
鞄から煙草とライターを取り出した瑞希はベランダへと向かう。
だいぶ高くまで上ってしまった太陽に目を細めながら、煙草に火を付け、愛しのソーセージエッグマフィンが到着するのを待ち侘びる瑞希であった。
・
「朝から、食べる量じゃないだろ...絶対に」
注文した朝食を目の前にした恵吾から不満の声が漏れるも、瑞希は気にせず手にしていたソーセージエッグマフィンに齧り付いた。
求めていた味が口いっぱいに広がり、幸せで自然に頬が緩む。
夢中で貪っていると、視線を感じたため顔を上げると、瑞希をじっと見てくる恵吾と目が合った。
「...何?あげないからね」
「...別にいらないよ」
ぶっきらぼうにそう言い放つと、恵吾は机の上からコーヒーの入った紙コップを取り、蓋を開けた。
コーヒーから湯気が立ち上がり、恵吾が掛けている眼鏡が曇っていく。
普段はコンタクトなのに、家では黒縁の眼鏡を掛けている恵吾を初めて見た時はこれがギャップというやつなのかと少しだけ新鮮な気持ちになったことを思い出した。
あとブラックコーヒーがそこまで得意ではなく、必ずコーヒーフレッシュを2個入れないと渋い顔をするとことか。
瑞希はブラックでも全然問題ないので、今日みたいに宅配する時はいつも恵吾が二人分使っている。
会社の女性社員たちがこの事を知ったらどうなるのだろう。
ますます恵吾の女性人気に火が付きそうだが、瑞希には関係ないことなので、今は目の前の朝食に集中することにした。
・
多すぎる朝食を二人でなんとか食べ切ると、空腹が満たされたおかげなのかまた眠ってしまい、気が付いたら夕焼けが眩しい時間になっていた。
さすがにこれ以上滞在するのは忍びないので、瑞希が帰る準備をしていると、寝起きの恵吾がぼんやりとその光景を眺めている。
「それじゃっ、帰るわ。また来週ね」
荷物をまとめ、玄関へ向かおうと立ち上がろうとすると、恵吾に手首を掴まれる。
いったいなんだと顔を上げると、軽く触れるだけのキスをされた。
「......また」
小さくそう呟くと、瑞希から顔を背けた恵吾はそのまままたソファへと横になった。
こいつ、本当にずっと寝てるな...。
突然キスされたことにも驚きつつも、きっと寝ぼけていたのだろうと結論づけた瑞希は恵吾の頭を数回ぽんぽんと軽く叩いた。
玄関の靴棚の上に置かれている部屋の鍵を持ち出し、外から鍵をかけ、それをドアの郵便受けへと滑り込ませる。
建物から外に出ると、ズボンのポケットに入れてあったスマホが鳴ったので、画面を確認すると、学生時代からの親友の名前が表示されていた。
「もしもし」
『瑞希ーーー!!!久しぶりーーー!!!元気にしてた!?』
画面越しから聞こえてくる声に、瑞希は思わずスマホから耳を遠ざける。
相変わらずテンションが異様に高い親友だが、久しぶりに声が聞けて瑞希も嬉しくなる。
「久しぶり、元気だよ。そっちは、どう?」
『もう上司がクソすぎて、本当に最悪!!でも仕事自体は楽しいから、結構頑張れてるかも。でも、瑞希に会いたいよー!!瑞希不足だよ!!』
「何それ」
長年の夢のために地方へと赴いた親友が変わらず元気で瑞希は胸を撫で下ろす。
『今の案件が片付いたら、そっちに帰ろうかなって思ってるんだけど、瑞希会える?』
「うん、大丈夫だよ」
『やった!!じゃあじゃあ、金曜日の夜とかに待ち合わせして、そのまま朝まで飲み明かそうよ!!』
「あー...金曜日の夜か...」
大変魅力的な提案なのだが、瑞希の脳裏に一瞬だけ恵吾の顔が浮かび上がる。
『えっ、なんかあるの?』
「んー、あるといったらあるのかな...?」
『えー、もしかして彼氏でも出来たの?』
「いや、彼氏ではない」
親友からの問いに瑞希ははっきりと答えた。
確かに毎週金曜日の夜になると、一緒にご飯を食べて、そのまま身体を重ねる間柄だが、恵吾とは恋人ではないと瑞希は思っている。
何故なら、こういう関係になってから瑞希は一度たりとも恵吾から付き合おうとは言われたことがなかったからだ。
女慣れしているあの男が、そんな言葉もなしに曖昧なまま恋人関係を築き上げることはないはずなので、やはり恵吾にとっても瑞希との関係は身体だけのものだと割り切っているはずだ。
それに、金曜日の夜にかけて土曜日の夕方までは一緒にいることが多いが、それ以外の時間で恵吾と一緒に過ごすことはない。
だから、やっぱり恵吾は彼氏ではないのだ。
『じゃあ、土曜日は?土曜日の夜ならいいでしょう?』
「土曜ならいつでもいいよ」
『やった!俄然やる気が出てきた!!瑞希に会うためにも頑張るぞー!!』
「何それ」
親友との久しぶりの会話を楽しみながら、瑞希は恵吾の家から自分の家への帰路についたのだった。
・
打ち合わせが終わり、同じ部署の同僚とともに別部署の上司を見送るためにエレベーターの前で待機していた。
エレベーターが到着したので、上司が瑞希へと振り返る。
「それじゃあ、またね佐野ちゃん」
他にも社員がいるというのに何故自分だけに声がけするんだと嫌な予感がすると、上司の男の手が瑞希の頭へと伸びようとしていた。
またこのパターンかと辟易とした瑞希は今にも自分の後頭部を撫でようとしてくる男を睨み上げる。
ただならぬ殺気を感じたのか、すんでのところで手が止まり、男は何食わぬ顔でエレベーターへと乗り込んでいく。
「それじゃあ、またね」
「おつかれさまでした~」
同僚が深々と男に向かって頭を下げる隣で、瑞希は閉じていくエレベーターの扉をいつまでも睨みつけていた。
「あんのクソジジィ、また性懲りもなく撫でてこようとしやがった...。本当に油断も隙もあったもんじゃない...」
扉が完全に閉まりきり、男の姿が見えなくなると、瑞希は盛大に舌打ちをする。
「佐野ー、さすがに露骨すぎでしょ」
「いや、あれは無理だろ。立派なセクハラだから」
成人女性の頭を撫でようとしてくる男の神経が本気で気持ち悪くて、つい口調が荒くなる。
「それはそうなんだけど...、改めて思うけどあんたって本当に見た目と中身のギャップがえげつないよね」
「何それ」
同僚の意味のわからない言葉を聞き流しながら、瑞希は身体を翻した。
確かに瑞希は小柄で、黙っていたら小動物みたいって昔から言われ続けてきたが、それを理由にセクハラを甘んじるつもりはまったくない。
むしろ、小さいからって嘗めるなよって食って掛かるのが瑞希であり、たとえ目上の人物でも容赦はしない。
せっかく有意義な打ち合わせをしたと思ったのに、最後の最後でこんな不快な思いをさせられるなんて、あんのクソジジィ、次会ったときまた同じことしようもんなら、全力で噛みついてやるからな。
そんな悪態を心の中でつきながら、廊下を歩いていると、右脇の扉からからスーツ姿の男性が二人出てきた。
二人とも同期で、一人は恵吾だったのだが、もう一人が入社当初からちょっかいをかけてくる苦手な男だったため、瑞希は一瞥もせずに二人の前を通り過ぎる。
「ちょっと、佐野ー」
後ろから同僚が呼びかけてくるも無視して歩き進める瑞希はそのまま自分の部署があるオフィスへと入ろうとする。
一瞬だけ、三人に視線を向けると、恵吾と目が合った気がしたが瑞希は気に留めることなく、中に入っていく。
自分でもだいぶ気が立っているとわかっていたため、落ち着かせるために煙草を吸いに行こうと煙草を鞄から取り出そうとする。
しかし、この時間帯は喫煙所に瑞希を小動物扱いするクソジジィ共しかいないことを思い出した。
小さく舌打ちをした瑞希は代わりにスマホを取り出す。
ものすごいむしゃくしゃして、どうにかなりそうだが、幸い今日は金曜日。
定時になったら速攻退社して、美味しいご飯で酒を飲みに行こう。
前々から行きたかった焼き鳥屋の位置情報をメッセージアプリで恵吾に送る。
金曜日の夜は特に約束とかはしていないため、お互いどちらかが行きたい店を送り合うようになっている。
ふーっと息を吐くと、手の中のスマホが揺れた。
画面を見ると、早速恵吾から返事が返ってきており、短い了承の言葉が表示されていた。
それだけで何故かささくれ立っていた気が少しだけ和らぎ、瑞希の頬が緩む。
よし、美味い酒のためにとっとと仕事を片付けるぞ!!
やる気になった瑞希は定時で帰るために、パソコンへと向き直り、仕事へと勤しむのであった。
・
「それでねー、そいつマジで気持ち悪くて、隙あらば撫でようとしてくるんだよー。どう思う、ママぁ?」
焼き鳥屋で酒を飲みながら、散々恵吾に愚痴ったのだが、まだ腹の虫が収まらない瑞希は馴染みのスナックのママに今日の昼間の出来事を舌足らずに愚痴る。
ママがいるカウンターに瑞希が一人で座り、両隣には綺麗なお姉様方が配置されている。
恵吾は常連のおじさんたちに捕まり、楽しそうに酒を酌み交わしていたので暫く放置しても問題ないだろう。
「それは災難だったわねー。でも、さすが瑞希ちゃんね。睨みで追い払うなんて素敵」
「そんなことないよ!!本当は噛み付いてやりたかったけど、あのジジィの手を口に含むことが気持ち悪かっただけ!!」
「やだー、瑞希ったら野蛮!わたしも触ったら食べられちゃうのかしら!」
「イオリちゃんたちになら撫でられても全然大丈夫!!むしろもっとチヤホヤしてほしい!!」
酔ってはいるが、正直な己の欲望を口にすると両隣のお姉様方がきゃーと小さく悲鳴を上げる。
「本当に瑞希ったら可愛いんだから!!」
「ご要望通り、お姉さんたちがよしよししてあげるからねー」
両脇から手が伸びてきて、頭を撫でられる。
細くて柔らかな感触に、瑞希の頬がだらしなく緩む。
「えへ、えへへへっ...」
自分を小さくて可愛いと見下ろしてくる男どもに触られるのは死ぬほど嫌だが、綺麗なお姉様方に可愛がられるのは大好きだった。
お姉様たちに撫でられている余韻に浸っていると、お代わりのカクテルを作っていたママが不意に聞いてきた。
「あれ?それじゃあ瑞希ちゃん。恵吾くんには?」
「へ?」
「恵吾くんには頭、撫でられても平気なの?」
酔いのせいで頭が回っていないのか、最初は何を言われているのかわからなかった。
後ろの卓上で常連のおじさん達と笑顔で会話している恵吾に視線を向け、瑞希は首を傾げる。
そもそもすでに身体を重ねるという最大級の接触をしているのだから、頭ぐらい撫でられているだろうと思い返してみるものの、恵吾に頭を撫でられた記憶がなかった。
キスとかは散々しているのになんでだろうと疑問を感じつつ、まぁいいやと深く考えることをやめた。
今は抱き締めてくるお姉様方の柔らかな感触の余韻にどっぷりと浸りたかった瑞希はいい匂いを鼻いっぱいに吸い込み、胸に顔を埋めた。
・
「...きもちわるい...」
スナックでおじさん達にしこたま飲まされたのか、珍しく恵吾が地面へと蹲っていた。
「どのくらい飲まされたの?」
コンビニで買ってきた水を手渡すと、右手で弱々しくピースサインを出してきた。
「2合?全然じゃん」
「2升だよ!化け物かよ、あのおっさんたち...」
そんなに酒に弱くないはずの恵吾をここまでにさせるとはさすが飲み屋街の常連おじさん達。
しかし、そんな弱っている恵吾の前で瑞希は鼻高々に胸を張った。
「わたしは、一人で3升飲んでドン引きさせたことがあるぞ!!」
「...お前も、化け物かよ...」
項垂れる恵吾をよそに、瑞希は咥えていた煙草に火を付けた。
ふと先ほどスナックのママに言われた言葉を思い出して、瑞希は恵吾の隣へとしゃがみこむ。
「ねぇ、頭撫でてよ」
ついさっきまでお姉様方によしよしされていたので気分が高揚していた瑞希は何気なく提案してみた。
のろのろと顔を上げた恵吾が怪訝な表情で瑞希を睨んでくる。
「......なんで?」
「...なんとなく?」
許容量以上の酒を飲まされて相当気分が悪いのか、恵吾の顔がみるみるうちに歪んでいく。
そんなに変なことを言ったかなと煙を吐くと、瑞希の頭へと恵吾の手が伸びてくる。
ぎこちない手つきで頭を撫でられ、何故か不満そうに唇を引き結んでいる恵吾と目が合った。
「下手くそ」
「...うるさい」
普段の触れ合いからは想像つかないぐらい不器用な触り方に瑞希が率直な感想を述べると、恵吾がそっぽ向く。
お姉様方に撫でられたときのような気持ちよさは感じられず、頭の上を恵吾の長い指が滑るたびにくすぐったくなるも、不思議と嫌な気分にはならなかった。
一瞬だけなぜだろうと疑問が頭を過ったが、これ以上のこともしているんだし今さらだ。
瑞希はその考えごと、煙草の吸い殻と一緒に灰皿へ押し込んだ。
・
昼食を食べ終え、煙草を吸おうと喫煙所に向かおうとすると突如瑞希の前に一人の女性が立ちはだかった。
瑞希ほど小柄ではなかったが、女性らしい雰囲気を身に纏った、いかにも男性に好まれそうな可愛らしい女性という印象だった。
「...あの!!」
そんな彼女が意を決したような真剣な表情で瑞希を見つめてくる。
どこか既視感のあるその表情に、瑞希は学生時代を思い出す。
あらゆる学年からモテにモテまくっていた瑞希は告白されることは日常茶飯時だった。
ちなみに女子校だったので、相手は全て女性だった。
まさか社会人になってからも女性から告白されるとは夢にも思わなかった瑞希はどうやって目の前の女性を傷つけずにすむのか考えていた。
「あ、朝陽先輩と、どういったご関係でしょうか...?」
だが、彼女の口から出てきた言葉はさらに予想していなかったため、瑞希は目を丸くする。
「朝陽って、あの朝陽?」
「営業部の朝陽恵吾先輩のことです!単刀直入に聞きます。朝陽先輩とはどういったご関係なのでしょうか?」
「...おあ?」
状況がいまいち理解できないでいると、女性はスマホを取り出し、画面を突き付けてきた。
そこには瑞希と恵吾が並んで退社している写真が映し出されていた。
「えっと...、これはどういう...」
何か嫌な予感がした瑞希が顔を引きつらせる。
「お二人は付き合っているのでしょうか?」
やっぱり、そうなりますよね。
予感が的中してしまったため、瑞希は大きなため息を吐いた。
別に隠しているつもりは全くなかったのだが、女性人気が高い恵吾と関係を続けていけば、いつかこんなことが起こるとは思ってはいた。
しかし、現実になると非常にめんどくさいと気付いてしまった。
「...別に、付き合ってないけど」
「ほら、やっぱり、付き合って...えっ、付き合ってないんですか!?」
まさかの返答に驚いた様子の女性だったが、瑞希のことを信用していないのか厳しい表情を崩さなかった。
「そ、そんな嘘ついたって、騙されませんよ!!」
「なんで、嘘つく必要あるの?本当に付き合ってないんだってば」
早く会話を終わらせたい瑞希が露骨に声を低くすると、女性は怯んだように後ろへと一歩下がる。
これで満足しただろうかと女性の横を通り過ぎ、喫煙所に向かおうとすると、咄嗟に腕を掴まれる。
「ちょっと!!」
「じゃ、じゃあ協力してください!!!」
「......は?」
「わたしと、朝陽先輩の仲を取り持つことに協力してほしいんです!!!」
切実な眼差しを向けられ、女性の気迫に珍しく圧倒されてしまった瑞希はとりあえず話を聞くことにした。
女性は宇部紗香という名前で、どうやら営業部での恵吾の後輩らしい。
入社当初から教育係を務めてくれた恵吾に恋をしており、積極的にアプローチをかけているのだがまったく振り向いてくれる気配を感じないらしい。
そんな時に、とある金曜日の夜、繁華街で瑞希と二人で居酒屋から出てくるところを目撃してしまい、ショックを受けてしまったという。
何故なら紗香が何度も金曜の夜に飲みに誘っているというのに、恵吾は一度もその誘いを承諾したことがなかったのでとても悲しかったと。
だから居ても立っても居られなくなり、盗撮だとわかっていても二人の写真を撮り、瑞希に真意を確かめに来たってわけだ。
ここまで話を聞いていると、恵吾は普通に紗香に興味がないのではと恋愛事に疎い瑞希でもさすがにわかってしまう。
しかし、目の前で今にも泣きそうに瞳を潤わせている紗香を無下にすることが出来なかった瑞希は仲を取り持つのは難しいが、話だけはしてみるとだけ答えてしまった。
それだけでもとても喜んでくれた紗香に複雑な気持ちを抱くも、もしかしたら自分との関係が恵吾に彼女ができることの妨げになってしまっているのではないかと考え始めた。
そうなると、大変めんどくさいのだが、とりあえず次の金曜日に恵吾に直接聞こうと、紗香と別れた後、喫煙所に赴いていた瑞希は煙草の煙を思いっ切り吐き出した。
・
そして、金曜日。
今日も美味しいご飯を食べて、好きなだけ酒飲んで、愚痴ってから、いつもの流れで恵吾の部屋で身体を重ねた。
行為が終わり、恵吾と横並びでベッドで寝っ転がっていると、ふと紗香のことを思い出した。
紗香から話を聞いてから瑞希なりに今後のことを考えていた。
もし今の関係がダラダラと続いて、恵吾に本命が出来なくなってしまっていたらやはり申し訳ない。
瑞希にとっては気軽で、楽しくて、身体の相性も最高にいい相手だったのだが、致し方ない。
あとで文句を付けられても面倒なので、早めに次の相手を探さなければと瑞希は数日前からマッチングアプリを何個かダウンロードしていたので、何気なくその内の一つを起動した。
「そういや、朝陽の部署に宇部ちゃんって子いるよね?」
アプリのプロフィール画面を埋めながら、紗香との約束通り、恵吾にそれとなく彼女のことを聞くことにした。
「んー?いるけど、それが何?」
自分のスマホを操作しながら返事をしてくる恵吾はやはり紗香にあまり興味がなそうに思える。
それでも聞いてみるだけのことは聞いてみようと瑞希は話を続ける。
「どんな子なの?可愛い?」
頭の中で女性らしい紗香の姿を瑞希は思い浮かべる。
「うーん、普通の子だよ。可愛いと言われれば可愛いかな」
やはり恵吾も紗香みたいな子を可愛いと思うのか。
なんだか妙な引っかかりを胸に感じるも、瑞希は気にせず続ける。
「へー、そうなんだ。朝陽は宇部ちゃんのこと、どう思ってるの?」
質問しながら、手元のスマホでマッチングアプリのプロフィールを全て埋め終わると、今度は登録男性のプロフィールが表示されていく。
様々なタイプの男性のプロフィールが次々と表れ、一々全てに目を通すのだけでも面倒くさい瑞希はとりあえず直感で合否を決めることにした。
「......なんで、そんなこと聞いてくんの?」
「えっ、何?あっ、いったぁ!!」
アプリに夢中になっていたため、恵吾の返事が聞き取れなかった瑞希はスマホを手から滑らせ、顔面に直撃してしまう。
痛みで手で顔を押さえると、隣の恵吾が起き上がる気配がした。
「いったい、何さわい......」
不自然に言葉が切られたため、瑞希は恵吾に視線を向ける。
動きが固まっている恵吾の視線の先には瑞希が落としたスマホがあり、さっきまで見ていた男性のプロフィール画面が映し出されていた。
「...えっ、何これ」
「マッチングアプリだけど」
「えっ、なんで...」
なんだか様子がおかしい恵吾に首を傾げた瑞希はスマホを拾い上げる。
「なんでって...、普通に相手を探してるだけなんだけど...」
「だから、なんで?」
表情も声も強張らせる恵吾に今更何を言っているんだと怪訝に思った瑞希は淡々と答える。
「だって、朝陽、別に彼氏じゃないよね?」
その瞬間、恵吾が小さく息を呑む音が聞こえてきた。
短い沈黙が二人の間に流れる。
「......あっそ」
どこか力が抜けたようにベッドに倒れ込んだ恵吾は、そのまま瑞希に背を向けて、一切話しかけてこなかった。
少しだけいつもと違う恵吾の様子が気になる瑞希だったが、疲れたのかなと深く追求することはせず、隣でマッチングアプリ内の男性の品定めを続けることにした。
・
次の日の朝、起きると隣で寝ていたはずの恵吾の姿がなかった。
トイレかなと目を擦りながらスマホを開くと、恵吾からメッセージが届いていた。
緊急の仕事が入ったため先に出る、いつものように鍵をかけたら郵便受けに入れてほしいとのことだった。
今までこんなことなかったのに珍しいなと思いつつ、瑞希は顔を洗うために洗面所へと向かった。
洗い終わると、タオルハンガーに掛かっている自分のタオルで顔を拭き、常備してある化粧水と乳液で肌を整える。
キッチンへと向かい、食器棚からオレンジ色の瑞希のコップを取り出し、インスタントコーヒーを淹れる。
冷蔵庫から食パンを取り出し、トースターで焼いてから、バターといちごジャムをたっぷり塗る。
コーヒーとトーストをリビングにある座卓の上に乗せる。
小さくいただきますと呟き、トーストに齧り付いた。
口いっぱいに広がるいちごの甘酸っぱさを噛み締めながら、少しずつこの部屋に置いてある私物を持ち帰らなければなと瑞希はまた一口トーストを齧る。
よくよく部屋を見渡すと瑞希の私物がそこら中に散見されているため、持って帰るのにも時間がかかりそうだ。
瑞希のものがこの家から全てなくなるときまでにはさすがに恵吾にも彼女が出来ているだろう。
口いっぱいに詰め込んだトーストを流し込むために瑞希はコーヒーを啜る。
もしそうなったら、少しだけ寂しくなるだろうけど、同期として祝福してあげよう。
もちろん彼女には今までのことは全て内緒にする予定だけど。
いったいどんな女性が恵吾の彼女になるのだろうか。
昨夜、紗香のことを可愛いと言っていたから、今は興味がないようだけど、アプローチの仕方によっては可能性がまったくないわけではなさそうだ。
とりあえず紗香にそのことを伝えようと、瑞希はコップに残っていたコーヒーを全て飲み干した。
その後、ベランダで煙草を吸いながら、昨日のマッチングアプリをダラダラと眺めているといつの間にかお昼の12時になっていた。
恵吾は帰ってきそうになかったため、瑞希は服を着替え、帰り支度を始める。
何か今日から持って帰れそうなものはないかと部屋を見渡すも、面倒くさいからまた来週でいいやと鞄を手に取り、玄関へと向かった。
鍵をかけ、郵便受けに鍵を入れて、部屋から離れる。
なんだか物足りないなと感じるも、いったい何が足りないのかわからなかった瑞希はお腹を満たすためにラーメンを食べに行こうと、お気に入りのラーメン屋へと足を運んだのであった。
・
その次の金曜日。
始業前に今晩について恵吾に連絡したが、昼休憩時まで返信は返ってこなかった。
既読にはなっているのでメッセージは確認しているようだが、返事がない。
仕事が立て込んでいるのかとその時は特に気に留めなかったが、定時になっても恵吾からの返信でスマホが揺れることはなかった。
恵吾と金曜日の夜を一緒に過ごすようになってから今までなかったことだったので、初めは戸惑ってしまった瑞希だったが、よくよく考えれば恋人でもない女と一々予定を合わせる義理などないのだと気付かされた。
それでも返事ぐらいしてくれてもいいだろうと恵吾とのメッセージ画面を瑞希は睨みつける。
しかし、こんなことを気にしてても仕方ないと瑞希はスマホをズボンのポケットに入れ、退社することにした。
別に一人で酒を飲みに行けないほど可愛げのある女ではないため、瑞希は一人で行きつけの焼肉屋へと向かった。
焼肉屋に入って早々、瑞希は大ジョッキで生ビールを頼み、食べたい肉の部位を片っ端から頼んだ。
少々頼みすぎたが、まぁ大丈夫だろうと卓上に届いた生ビールを口へと運ぶ。
苦みのある爽やかな喉越しが渇いた喉を潤していき、最高に美味い。
網の上に肉を並べながら、瑞希は鼻歌を口ずさむ。
時折、何故か店の入り口の引き戸の開く音に意識を向いてしまうも、美味しい肉で酒を飲めて上機嫌な瑞希だったが、ふと網の上で炭と化した肉が視界に入る。
大雑把な瑞希は後先考えず肉を網の上に並べてしまうのだが、いつもなら恵吾が呆れながらも焦げる前に全て回収してくれていた。
注文する前は全部食べれる勢いだったのに、結局頼みすぎだったらしく机の上にはそれぞれの皿の上にちょっとずつ肉が残ってしまっていた。
こういうのも恵吾が文句言いながらも一緒に食べてくれていたなと思い出し、瑞希はすっかり炭酸が抜けてしまった生ビールを口に含んだ。
お腹が満たされたせいなのだろうか、大好きな生ビールも少しだけ味気ない。
賑わう喧騒の中、瑞希は一人、静かに網の上で肉が焦げていく様子を眺めていた。
・
大好きな肉を食べたというのになんだか気持ちが晴れなかったので、美人なお姉様方にチヤホヤされるために瑞希は馴染みのスナックへと足を運ぶ。
恵吾が一緒ではないことを聞かれたので、別に彼氏ではないから、いつも一緒なわけではないと説明したら、ものすごい剣幕で嘘でしょ!?と詰め寄られた。
何に驚かれたのかわからなかったが、慰めるようにいつも以上によしよしと撫でてくれたので、瑞希はとても満足だった。
しかし、やはり気持ちがすっきりと晴れることはなかった。
いったい何が原因なのだろうかと、コンビニ前の喫煙所で煙草をふかしながら、瑞希はぼーっと暗闇を見上げる。
毎週スナックからの帰りに、恵吾の家へと向かうので瑞希の家とは真反対なのに、恵吾の家の近くのコンビニまで来てしまった。
習慣とは恐ろしいものだなと携帯灰皿に短くなった吸い殻を押し込み、新しい煙草に火を付ける。
今更自分の家に帰るのもなんだかなと、折角なので最近マッチングアプリでやり取りを始めた男性に連絡を取ってみようとアプリを起動させる。
「お姉さん、一人?」
見知らぬ男から声をかけられたので、スマホから顔を上げる。
「......何?」
「いや、お姉さん可愛いなーって。今、何してるの?」
顔付きから大学生ぐらいだろうと判断したが、妙に馴れ馴れしい態度だったのでその男を睨み上げる。
「...別に、あんたに関係ないでしょ」
「ねぇねぇ、もしかして今晩の相手探してたの?」
瑞希のスマホの画面を盗み見たのか、やけに積極的に体を近付けてくる。
「なら、俺にしときなよー。俺、お姉さんと仲良くしたいなー」
笑顔でそう主張してくる男の視線が、瑞希の胸元に注がれている。
小柄な体型に反して不相応な大きさの胸のおかげで、昔からこの手の誘いが絶えなかった瑞希はやっぱりかとうんざりする。
しかし、この男の言う通り、確かに瑞希は今晩の相手を探していた。
今からアプリ内の男性たちに連絡しても返事がすぐ返ってくる保証はない。
手っ取り早く相手が欲しいというなら目の前の男でも問題はないのだが、なんだか気乗りしない。
果たしてこの男と寝たところで、今の気分が晴れるかどうか瑞希にはわからなかった。
少し前だったら、少々気に食わない相手でも性欲を満たしてくれるのなら、瑞希はすでに誘いに乗っていたかもしれない。
しかし、今ここですぐに目の前の男の手を取ろうとしない時点で、瑞希の中でとっくに答えは決まっていたのだ。
たとえマッチングアプリの男性から連絡が来たところで、瑞希の気分が晴れることはない。
美味しいご飯を食べて、酒を飲んで、美人なお姉様方に可愛がられて、セックスして、寝る。
全て瑞希が大好きなことのはずなのに、恵吾がいないだけでこんなにも楽しくない。
全部、恵吾が一緒じゃなければダメなのだ。
今更そんなことに気付いてしまった瑞希は、自分が苛立たしくなり盛大に舌を打った。
「...えっ?舌打ち?」
「失せな、餓鬼が。お前じゃ、わたしを満足させられねぇよ」
「なっ...!?」
突然暴言を吐かれた男は不満げに眉を吊り上げる。
「...調子に乗りやがって...!!」
男が瑞希の胸ぐらを掴もうと、手を伸ばす。
その前に思いっ切りぶん殴ってやろうと拳を振りかざしたその時。
「何してんの?」
聞き慣れた声が聞こえ、そちらに振り向くと、スーツ姿の恵吾がそこにいた。
恵吾が突然現れたことに驚いた瑞希だったが、振りかざした拳が止まることなく、そのまま男の頬へと直撃した。
「あっ」
「いった!!」
殴られた衝撃で地面へと倒れ込んだ男は、瑞希を睨み上げてくる。
「...こんの...」
今にも襲いかかってきそうな男の前に恵吾がしゃがみ込んだ。
「ごめんな、連れが迷惑かけて。顔、大丈夫か?」
「は!?」
突如現れた恵吾に心配されて、戸惑いの声を男が上げる。
「ふざけんな...!!あの女、ただじゃ済まさな...」
「うん、うん、そだな。殴られたらそりゃあムカつくよな」
男を落ち着かせるように、恵吾は肩へ手を添えた。
「...それで、君は俺の連れに何をしようとしてたのかな?」
恵吾は笑みを崩さないまま、柔らかな口調で告げる。
だが、低く響く声には明らかな警告が込められているような気がした。
自分に向けられたものではないとわかっていても、瑞希の背中がぞくりと冷える。
その声に静かに戦意を失った男が肩を落とす。
そして、そのまま立ち上がると、逃げるようにその場から立ち去っていった。
男がいなくなると、恵吾はゆっくりと立ち上がる。
「......なんで」
その背中に、戸惑いの声をかけると、恵吾が瑞希に向き直った。
何を考えているかわからないような表情に瑞希は一瞬だけ怯んでしまう。
「なんでって...、ここ俺んちの近所なんだけど。逆になんでいんの?」
「えっ!?あっ...」
逆に問われ返されてしまい、咄嗟に返すことができず、慌てふためく瑞希に恵吾は何も言ってこない。
瑞希も何も言えず、顔を伏せると、気まずい沈黙が二人の間に流れる。
「...それじゃあ、俺帰るから」
「えっ!あっ...、うん...」
先週のこともあり、自分も一緒にとはさすがの瑞希でも言えず、曖昧に頷くことしかできなかった。
「...気をつけて、帰れよ」
最後に小さくそう言い残すと、恵吾は瑞希に背を向けて、帰っていった。
...そりゃあ、そうだよな。
一人残された瑞希は力が抜けたように肩を落とした。
先週、瑞希は自分から恵吾のことを彼氏ではないと本人に確認したばかりなのだ。
今更どの面下げて恵吾の隣に立てばいいのか、わからなかった。
もう何もする気が起きないので大人しく帰ろうとスマホで時間を確認すると、とっくに終電時間を過ぎていた。
とりあえず煙草を一本吸ってから考えようと、鞄から煙草を取り出して、口に咥える。
ライターで煙草に火をつけようとすると、瑞希に近付く人の気配がした。
顔を上げると、またもや知らない男で、今度は露骨にいやらしく瑞希の体を舐め回すように見てくる。
「お姉さん、暇なの?今晩、俺と一緒にどうよ?」
下品に誘ってくる男を睨み上げ、瑞希は舌打ちをする。
「失せろ!!!!」
「はぁ!?」
「誰もお前をお呼びじゃねぇんだよ!!」
苛立ちを隠そうともせずに威嚇すると、男の表情が険しくなっていく。
「この女...」
どいつもこいつも人を見た目で判断しやがって、腹が立つ。
取っ組み合いの喧嘩になろうとも負けるつもりはない瑞希は今にも掴みかかろうとしてくる男に真正面から受けて立とうと臨戦態勢に入る。
しかし、男との間に見慣れた背中が割って入ってきた。
「はい、お兄さん。ストップ。一旦、落ち着こう」
気が立ってる男の怒りを鎮めるように、恵吾は軽い口調で呼びかける。
突然他の男が現れたことによって怯んだのか、男は恵吾を睨みつつ、不貞腐れたようにその場からいなくなった。
続けざまに輩に絡まれてむしゃくしゃしていた瑞希が舌打ちをし、火をつけ損ねた煙草に再び火を付けようとする。
すると、背中を向けていた恵吾がくるっと瑞希に向き直り、肩を掴まれる。
驚いて恵吾を見上げると、眉を吊り上げ、なんだか怒っているようにも見える。
「お前、もう危なっかしいから、家に来い!!」
「......はっ?」
意味がわからず口を開けると、咥えていた煙草が地面へと落っこちた。
・
「おじゃましまーす...」
結局、今週も来てしまった恵吾の家の玄関で瑞希は緊張気味に靴を脱いだ。
わけがわからないまま腕を掴まれ、引きずるように連れてこられたのだが、恵吾は一切瑞希と視線を合わせようとしてくれない。
家に着いた今だって、瑞希から顔を背けたままだった。
露骨に避けられて気落ちするも、本来身体だけの関係ならこういうものだろうと自分に言い聞かせる。
むしろ、今までがおかしかったのだと無理やり納得させた。
空気が重たすぎるので、なるべくいつもの調子で瑞希は恵吾に接することにした。
「どーする、朝陽?せっかくだから、このままヤッちゃう?」
冗談っぽくそう言うと、恵吾の体が一瞬だけ揺れる。
やっと瑞希に顔を向けてくれたと思ったら、その表情は怒りも悲しみも押し殺したように静まり返っていた。
「......恋人じゃないから、しない」
低い声で返ってきた言葉に、瑞希は目を瞬かせる。
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
恋人じゃないから身体を重ねないということは、今まではいったいなんだったというのだ。
そこで瑞希は今までの流れから、一番あり得ないであろう可能性が頭の中に浮かび上がった。
「えっ...、もしかして付き合ってると思ってたの?」
ずっと否定してきた可能性を口にすると、恵吾は図星を突かれたのか、バツが悪そうに瑞希から視線を逸らす。
「えっ、だって...今まで付き合おうとか一度も言葉にしてないよね?」
だから、恵吾も瑞希と同じように身体だけの関係だと割り切っているものだと思っていたのだが、今の反応を見る限りどうやら違っていたらしい。
恵吾はずっと瑞希を彼女だと思っていたらしい。
すると、瑞希の中で何かがぷつんと振り切れた。
未だに瑞希と目を合わせようとしない恵吾の手を取り、胸元へ引き寄せる。
瑞希の突然の行動に驚いた恵吾の瞳が揺れているのが見えた。
「今まで気付かなくてごめん。そういうことなら、付き合おう」
「...へっ?」
言われたことが理解できなかったのか恵吾の目が見開く。
しかし、瑞希は止まることなく続ける。
「わたしが、絶対に朝陽のこと幸せにするから」
嘘偽りのない心からの言葉に、恵吾の顔が引きつる。
「いや、いやいやいや!!ちょっと待て!!急すぎるだろ!!」
「えっ、なんで?だって、朝陽わたしのこと好きだから、彼女だと思ってたんじゃないの?」
「.............そうだけど」
「わたしも朝陽のことが好き。だから、付き合おう」
「展開が早すぎる!!!」
気まずかった空気が一変し、いつもの空気感に戻ったことに瑞希はほっと胸を撫で下ろす。
急すぎる展開についていけない様子の恵吾の唇に、背伸びした瑞希がキスをする。
不意打ちの口づけに、恵吾の動きが止まった。
いたずらっ子のように瑞希が微笑むと、複雑そうに眉間を寄せる恵吾が身を屈め、腰を引き寄せる。
吸い寄せられるように唇を重ねると、それは夢中でお互いを求め合うように深いものになっていく。
今まで何度も口付けを交わしてきたが、脳天を突き抜けるような痺れが瑞希の身体を震わせる。
ようやく満たされたことで、瑞希は初めて、自分がどれほど恵吾を求めていたのかを思い知った。
・
隣で横になっている恵吾の頬を瑞希が撫でると、くすぐったそうに顔を顰める。
「......何?」
「ううん、別に」
布団の中で恵吾の足に自分の足を絡ませる。
「だから、何?」
「なんでもないよー」
瑞希の行動の意図がわからず苛立つ恵吾の頬に瑞希がキスを落とす。
「ねぇ、朝になったら何食べようか」
そして、穏やかな笑みを浮かべたまま、朝食の話を始めるのだった。
完




