静かに巡るもの
時には無意識のうちに正しい行いをしていて、それが後できいてくることがあるらしい。
その言葉がふいに浮かんだのは、朝の光が部屋の壁に薄く広がり始めた頃だった。
どこで聞いたのかは思い出せない。
ただ、目覚めたばかりの頭の中に、その一文だけがぽつんと残っていた。
布団から起き上がると、身体はよく眠ったあとの柔らかい重さをまとっていた。
眠りは裏切らない。
食べることと同じで、きちんと向き合えばきちんと返してくれる。
それが自分の信条だった。
朝食は、炊きたての白米と、昨夜の残りの煮物。
湯気が立ち上り、部屋の空気が少しだけ温かくなる。
箸を動かすたび、身体の奥に静かに火が灯るような感覚があった。
今日は、少し厄介な仕事がある。
同僚が対応を誤り、取引先を怒らせてしまった。
そのリカバリーを、自分が任されることになった。
理由は特にない。
ただ、誰とでも同じように話せるというだけだ。
職場に着くと、空気は少し張りつめていた。
同僚は申し訳なさそうに頭を下げた。
「本当にごめん。あの担当者、かなり怒ってて……」
自分は笑って肩を叩いた。
よく笑うのも信条だ。
笑えば、少しだけ空気が軽くなる。
会議室に入ると、すでに相手側の担当者が座っていた。
資料を丁寧に揃え、静かにこちらを見ている。
怒っているというより、慎重に距離を測っているような表情だった。
年齢は自分と同じくらいだろうか。
どこかで見たような気もするが、思い出せない。
打ち合わせは、最初こそぎこちなかったが、次第に落ち着いていった。
相手は丁寧で、言葉を選びながら話すタイプだった。
こちらの説明にも真剣に耳を傾け、時折、控えめに笑った。
その笑い方に、微かな既視感があった。
肩が少し揺れる。
昔、どこかで見たような――。
打ち合わせが終わり、資料を片付けていると、相手がふいに口を開いた。
「……覚えていませんよね」
その声には、どこか確信めいた響きがあった。
「昔、同じクラスでした」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
しかし、記憶は霧のように曖昧で、輪郭をつかめない。
「あなたは、覚えていないと思います。
でも、私はずっと覚えていました」
相手は静かに続けた。
「クラスで、私は浮いていました。
誰も話しかけてこなくて、休み時間はいつも窓際で本を読んでいました。
でも、あなたは……普通に話しかけてくれた。
仲間外れにしなかった。
当たり前のように、隣に座ってくれた」
その言葉を聞いても、記憶は戻らなかった。
自分は昔から、誰かを排除するという発想が薄かった。
ただ、空いている席があれば座り、話したいときに話し、笑いたいときに笑っていただけだ。
「あなたのおかげで、学校に行くのが少しだけ楽になったんです。
あれがなかったら、たぶん途中で行けなくなっていました」
相手は深く息を吸い、そして言った。
「だから、今日あなたが来ると聞いて、驚いたんです。
怒っていたのは、あなたに対してじゃない。
でも、あなたが来るなら、ちゃんと話を聞こうと思えました」
胸の奥が少しだけ熱くなった。
自分は何もしていない。
ただ、空いている席に座っただけだ。
「覚えていなくてもいいんです。
あなたにとっては、きっと“当たり前”だったんでしょうから」
その人はそう言って、少しだけ笑った。
肩が揺れた。
その揺れを見て、ようやく記憶の底に沈んでいた何かが、かすかに光った。
窓際で本を読んでいた人。
席替えのとき、誰も隣に座りたがらなかった人。
自分は、ただ空いている席に座っただけだった。
それが、数十年後に仕事の場で還ってくるとは思いもしなかった。
帰り道、夕方の風が頬を撫でた。
街の音が遠くで揺れ、空は薄い橙色に染まっていた。
自分はよく食べ、よく眠り、よく笑う。
それは昔から変わらない。
そして、無意識に誰かを助けてしまうことも、きっと変わらないのだろう。
家に戻り、湯を沸かし、温かい茶を淹れた。
今日の出来事を思い返すと、胸の奥に小さな温度が残っていた。
数十年前の、たった一度の“当たり前”。
それが、今日になって静かに還ってきた。
布団に入ると、身体がすぐに眠りの準備を始めた
今日もよく食べ、よく歩き、よく笑った。
そして、気づかないうちに誰かを助けていたらしい。
目を閉じる直前、朝に浮かんだあの一文がまた頭に戻ってきた。
時には無意識のうちに正しい行いをしていて、それが後できいてくることがあるらしい。
その「後」は、思っていたよりずっと遠くにあった。
けれど、確かに訪れた。
眠りに落ちる瞬間、胸の奥に残った温度が、静かに広がっていった。




