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静かに巡るもの

作者: ねむねつ
掲載日:2026/05/09

時には無意識のうちに正しい行いをしていて、それが後できいてくることがあるらしい。

その言葉がふいに浮かんだのは、朝の光が部屋の壁に薄く広がり始めた頃だった。

どこで聞いたのかは思い出せない。

ただ、目覚めたばかりの頭の中に、その一文だけがぽつんと残っていた。


布団から起き上がると、身体はよく眠ったあとの柔らかい重さをまとっていた。

眠りは裏切らない。

食べることと同じで、きちんと向き合えばきちんと返してくれる。

それが自分の信条だった。


朝食は、炊きたての白米と、昨夜の残りの煮物。

湯気が立ち上り、部屋の空気が少しだけ温かくなる。

箸を動かすたび、身体の奥に静かに火が灯るような感覚があった。


今日は、少し厄介な仕事がある。

同僚が対応を誤り、取引先を怒らせてしまった。

そのリカバリーを、自分が任されることになった。

理由は特にない。

ただ、誰とでも同じように話せるというだけだ。


職場に着くと、空気は少し張りつめていた。

同僚は申し訳なさそうに頭を下げた。


「本当にごめん。あの担当者、かなり怒ってて……」


自分は笑って肩を叩いた。

よく笑うのも信条だ。

笑えば、少しだけ空気が軽くなる。


会議室に入ると、すでに相手側の担当者が座っていた。

資料を丁寧に揃え、静かにこちらを見ている。

怒っているというより、慎重に距離を測っているような表情だった。


年齢は自分と同じくらいだろうか。

どこかで見たような気もするが、思い出せない。


打ち合わせは、最初こそぎこちなかったが、次第に落ち着いていった。

相手は丁寧で、言葉を選びながら話すタイプだった。

こちらの説明にも真剣に耳を傾け、時折、控えめに笑った。


その笑い方に、微かな既視感があった。

肩が少し揺れる。

昔、どこかで見たような――。


打ち合わせが終わり、資料を片付けていると、相手がふいに口を開いた。


「……覚えていませんよね」


その声には、どこか確信めいた響きがあった。


「昔、同じクラスでした」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。

しかし、記憶は霧のように曖昧で、輪郭をつかめない。


「あなたは、覚えていないと思います。

 でも、私はずっと覚えていました」


相手は静かに続けた。


「クラスで、私は浮いていました。

 誰も話しかけてこなくて、休み時間はいつも窓際で本を読んでいました。

 でも、あなたは……普通に話しかけてくれた。

 仲間外れにしなかった。

 当たり前のように、隣に座ってくれた」


その言葉を聞いても、記憶は戻らなかった。

自分は昔から、誰かを排除するという発想が薄かった。

ただ、空いている席があれば座り、話したいときに話し、笑いたいときに笑っていただけだ。


「あなたのおかげで、学校に行くのが少しだけ楽になったんです。

 あれがなかったら、たぶん途中で行けなくなっていました」


相手は深く息を吸い、そして言った。


「だから、今日あなたが来ると聞いて、驚いたんです。

 怒っていたのは、あなたに対してじゃない。

 でも、あなたが来るなら、ちゃんと話を聞こうと思えました」


胸の奥が少しだけ熱くなった。

自分は何もしていない。

ただ、空いている席に座っただけだ。


「覚えていなくてもいいんです。

 あなたにとっては、きっと“当たり前”だったんでしょうから」


その人はそう言って、少しだけ笑った。

肩が揺れた。

その揺れを見て、ようやく記憶の底に沈んでいた何かが、かすかに光った。


窓際で本を読んでいた人。

席替えのとき、誰も隣に座りたがらなかった人。

自分は、ただ空いている席に座っただけだった。


それが、数十年後に仕事の場で還ってくるとは思いもしなかった。


帰り道、夕方の風が頬を撫でた。

街の音が遠くで揺れ、空は薄い橙色に染まっていた。


自分はよく食べ、よく眠り、よく笑う。

それは昔から変わらない。

そして、無意識に誰かを助けてしまうことも、きっと変わらないのだろう。


家に戻り、湯を沸かし、温かい茶を淹れた。

今日の出来事を思い返すと、胸の奥に小さな温度が残っていた。


数十年前の、たった一度の“当たり前”。

それが、今日になって静かに還ってきた。


布団に入ると、身体がすぐに眠りの準備を始めた

今日もよく食べ、よく歩き、よく笑った。

そして、気づかないうちに誰かを助けていたらしい。


目を閉じる直前、朝に浮かんだあの一文がまた頭に戻ってきた。


時には無意識のうちに正しい行いをしていて、それが後できいてくることがあるらしい。


その「後」は、思っていたよりずっと遠くにあった。

けれど、確かに訪れた。


眠りに落ちる瞬間、胸の奥に残った温度が、静かに広がっていった。

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