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「静かで、退屈な婚約者だった」と切り捨てられたので、最後くらい全部言って去ることにしました

作者: マグロサメ
掲載日:2026/04/14

 婚約が終わる日、私は最後まで笑っているつもりだった。


 なのに最初に耐えられなくなったのは、笑顔ではなく、扇を握る指先だった。


 白くなるほど力を込めているのに、殿下は一度もこちらを見なかった。


 春の広間は息が詰まるほど静かだった。


 高い天井も、磨き上げられた床も、並ぶ貴族たちの視線も、今日はひどく遠かった。


 殿下――リアンは、ヴィクタリアの手を取ったまま私を見なかった。


 その隣で、ヴィクタリアは笑っている。


 春の花みたいに可愛らしい顔で。陽射しみたいに明るい声で。


 けれど、口を開くたびに落ちてくるのは花びらではない。きれいに飾られた毒だ。しかも、自分が毒を撒いている自覚すらない種類の。


「何か言い返したらいかがですの。陽だまりの令嬢、なのでしょう? 黙って笑っているだけでは、置き物と何も変わりませんわ」


 くすり、と首を傾ける。


 その仕草まで愛らしいのが、余計に腹立たしかった。


 誰もが聞いている。誰もがわかっている。それでも、誰も止めない。


 その静けさの中で、リアンが誰にともなく言った。


「静かで、退屈な婚約者だった」


 広間の誰かが、小さく息を呑んだ。


 止める必要もないと思っているのだろう。あるいは、止める価値もないと思われているのか。


 ああ、今日も私は、黙って終わるのだろうか。


 そう思ったとき、懐の内側で紙の角が指先に触れた。


 三日前、殿下の従兄君が置いていった一筆書きだ。ヴィクタリアから求婚があったが断った、その夜のことも含め、必要なら証言すると署名まで入れてある。


 使うつもりはなかった。


 黙って終わる方が、きれいだと思っていたから。


 それなのに、ヴィクタリアが笑うたびに、その紙だけがじわじわと重くなる。


「――彼女に、それ以上お喋りさせるのはおやめになった方がよろしいかと」


 低い声が、広間の空気を真横から断ち切った。


「聞いているだけで、品が下がります」


 怒鳴ったわけではない。


 けれど、その一言だけでざわめきが死んだ。


 振り向く。


 黒い礼服。まっすぐな背。冷えた水のように静かな目。


 アドリエル・キャンベル。


 東の国の公爵子息。


 リアンの顔が露骨に歪んだ。


「何のつもりだ。これはこの国の王家の問題だ。あなたが口を挟む話ではない」


 短く、きつい声だった。


 拒絶するためだけの声。


 けれどアドリエルは少しも動じない。


「まだ何もしておりません。ただ、お二人の言葉を聞いていると、どうにも妙な話だと思いまして」


 穏やかだった。


 穏やかすぎて、むしろ怖い。


「彼女が地味で、無愛想で、わかりにくい方に見えたのなら――それは、あなたが最初から見ようとなさらなかっただけでしょう」


 空気が揺れた。


 誰も何も言わない。けれど、その場にいた全員が思ったはずだ。


 そこまで言うのか、と。


 アドリエルは構わず続ける。


「彼女が紅茶に砂糖を入れないことも、夜会のあとに耳を押さえることも、緊張すると左手の親指を隠すことも、ご存知ないのでしょう」


 ヴィクタリアの笑みが止まった。


「……は? そんな細かいこと、いったい何の意味があるというんですの」


 意味がわからないのではない。わかりたくない顔だった。


 気づけば、私は左手を押さえていた。


 今もそうだった。ずっとそうだった。


 緊張すると隠してしまう。傷つくと、余計に隠してしまう。誰にも知られていないと思っていた、小さくてみっともない癖。


 アドリエルはほんの少しだけ笑った。


 優しい笑みではない。


 けれど、見ていましたよと静かに告げるための笑みだった。


「ご覧の通りです。もっと申せますが――本当に傷ついたときだけ、彼女は息を吸うまで少し間があく」


 広間が、しんと静まった。


 私は今、確かに長く息を吸っていた。


 胸の奥が冷たいのに、息だけが熱い。苦しくて、うまく呑み込めない。そのわずかな間を、彼は見ていたのだ。


 リアンの顔色が変わる。


 ああ、この人は知らないのだ、と私は思った。


 何も。


 本当に、何も。


 三年間、ずっとそうだった。


 ずっと私は、黙っていれば壊れずに済むと思っていた。


 言っても届かない。届かないなら言わない。言わなければ削られない。そういう理屈で、自分を守っているつもりだった。


 けれど違った。


 黙っていたから、削られ続けていただけだ。


「それが何だというんだ。そんなことを知っていたからといって、何が変わるというんだ」


 リアンの声が荒れる。


 反論というより、崩れかけた足場を必死に立て直しているような声だった。


 アドリエルは、まっすぐにリアンを見た。


「何でもありません。ただ、あなたが今切り捨てようとしているその方を、本当に見ていたのか――それを確かめたかっただけです」


 その一言で、胸の奥で何かが鳴った。


 しぃ、と。


 細く、乾いた音だった。


 切れたのだと思った。


 たぶん、ずっと私を縛っていたものが。


 品格だとか、忍耐だとか、令嬢らしさだとか。そういう綺麗な名前のついた鎖が。


 私は扇を下ろした。


 さっきまで重かったはずの手が、妙に静かだった。


「では、ひとつだけ申し上げます」


 声が出た。


 三年間、一度も震えなかったのに、今日は震えた。それでも止まらなかった。


「すぐ終わります」


 ヴィクタリアの笑みが消える。


 リアンの目が開く。


 王妃殿下の視線が、初めてまっすぐこちらに向いた。


 もう、この場で黙っている理由はどこにもない。


「ヴィクタリア。今のご自分が、ずいぶん誇らしいのでしょうね」


「当然ですわ」


 短い。迷いも、躊躇いもない。


 その軽さが、逆によかった。あれほど飾っていても、中身はそれだけなのだとわかってしまうから。


 私は懐から紙を取り出した。


「三日前、殿下の従兄君から一筆いただいております。あなたから求婚があったこと、それを断ったこと、その夜にあなたが殿下のもとへ向かったこと――必要なら証言してくださるそうです」


 ヴィクタリアの顔から、完全に笑みが消えた。


「そんなもの、偽物ですわ」


「署名の確認を、王妃殿下にお願いできますか」


 王妃殿下は無言で紙を受け取り、一瞥して目を伏せた。


 それだけで、答えは出た。


 ヴィクタリアの唇が動く。けれど言葉にならない。


 私はもう彼女を見なかった。見るべき相手は、別にいる。


「そして殿下。あなたは、わかりやすい女性がお好きだと仰いましたね」


 リアンの喉が動く。


「でしたら――今のお二人は、きっとよくお似合いです」


 誰かが息を呑む。


 誰も笑わない。けれど意味は全員に伝わったのだとわかった。


 私は視線を逸らさないまま、さらに続けた。


「あなたに必要だったのは、素直な女性ではありません。


 失言を隠して、場を整えて、機嫌まで先回りしてくれる――便利な人です」


 三年分だ、とそのとき思った。


 黙っていた三年分。笑って呑み込んだ言葉。見ないふりをしてきた失礼。私が何も言わないせいで、最初から何もない女だったことにされていた時間。


 それが今、ようやく声になる。


「私が黙っていたのは、何もないからではありません」


 一度、息を吸う。


 喉の奥がひりついた。けれど、声は不思議なくらい静かだった。


「申し上げても、殿下は聞いてくださいませんでした」


「グレイス――」


 今になって。今さら。


 それでも名前を呼ばれた瞬間、目の端が熱くなる。三年分が一気に胸に来たのだと、ようやくわかった。


「今日だけで、三度もお呼びになりましたね。婚約していたあいだは、ほとんど呼んでくださらなかったのに」


 リアンの顔から、言い返すための形が失われていく。


 怒ればいいのか。否定すればいいのか。縋ればいいのか。本人にももうわからないのだろう。


「惜しんでなど」


「では、結構です」


 短く言い切る。


 それだけで足りた。これ以上、言葉を重ねる必要はない。


 広間は静まり返っていた。


 燭台の炎がかすかに揺れる。糸が一本切れたあとの楽器は、同じ形をしていても、もう同じ音を出さない。


 今のこの広間は、まさにそういう沈黙の中にあった。


「これ以上、恥を重ねるおつもりなら、わたくしが止めます」


 王妃殿下の声が広間に落ちる。


「殿下、よくお聞きなさい」


「母上、これは――」


「黙りなさい」


 それだけで、終わった。


 終わったのだと、ようやく体が理解する。


 膝から力が抜けそうになる。けれど倒れなかった。最後まで立っているために、背筋を伸ばす。


 踵を返す。裾が静かに揺れる。


 このまま何も見ずに去ればいい。そう思ったのに、背後からまた声が落ちた。


「グレイス、待て――」


 足が止まりかける。


 でも、止めなかった。


「黙っていたのは、あなたが聞こうとしなかったからです」


 それだけ言って、私は歩き出した。


 城門の前には、もう馬車が待っていた。


 春の朝だというのに風が強い。石畳を渡る風が裾をさらい、髪を乱していく。


 見慣れたはずの王城は、いつもよりずっと遠く見えた。


 三年間、あれほど近くにあった場所が、たった一夜で他人の家みたいな顔をしている。


 私は立ち止まり、振り返った。


 未練があるのかと問われれば、たぶん違う。


 惜しいわけではない。ただ、長くいた場所からようやく自分の影を引き剥がしているような、変な感覚があった。


 隣でアドリエルが静かな声で言った。


「未練は」


「ありません」


 言ってから、自分の声が驚くほど軽いことに気づく。


「失ったという気はしないのです。ようやく離れられた、と思っただけで」


「即答ですね」


「迷う理由が、思っていたより残っていなかったので」


 そのときだった。


 遠くから石畳を打つ足音がした。急いだ足音。規則正しいはずなのに、焦りのせいで噛み合っていない音。


 振り向くまでもなかった。


「グレイス、待て。頼む」


 また名前だ、と思った。


 四度目。


 そんなことを、頭のどこかが妙に冷静に数えていた。


 リアンが目の前まで来る。髪が乱れ、息が上がっている。いつもの整えられた王太子の顔ではなかった。余裕も、見栄も、取り繕いもない。


「お前がいないと何もかもうまくいかない。お前がいないと、何ひとつ回らない」


 言葉がそのまま落ちてくる。


 考えて選んだ言葉ではない。焦って、そのままこぼれた言葉だ。


 だからこそ、よくわかった。


 ああ、この人は本気でそう思っているのだと。


 そして同時に、やはり何もわかっていないのだとも。


「そうでしょうね」


 声は穏やかだった。


「いなくなってから気づいたのなら、それは私を見ていたんじゃなくて、便利なものがなくなって困っただけです」


「違う――」


「違いません」


 もう、迷わない。


「三年間、あなたは一度も私を見ませんでした」


 それだけ言うと、不思議なほど軽かった。


 恨みを吐き出したはずなのに、もう熱は残っていない。長く胸の底に沈んでいたものが、ようやく形を得て外へ出ただけだった。


 リアンの唇が動く。


 何か言おうとしている。けれど、その何かは最後まで形にならない。謝罪か、言い訳か、懇願か。自分でも決められないまま、喉に引っかかっている顔だった。


 私は丁寧に礼をした。


 婚約者としてではない。最後に、ひとりの人間として。


「もう遅いのです。どうかお元気で」


 それで終わりにした。


 隣でアドリエルが手を差し出す。


 私は今度は迷わなかった。


 その手を取る。力を込めすぎず、それでいていつでも支えられるだけの確かさがある手だった。


「顔が違う」


 思わず、少しだけ笑ってしまう。


「そうですか」


「二年間、何度か見ていました。その顔は一度もなかった」


 胸の奥がゆっくり揺れた。


 二年間。


 私は見られていなかったわけではなかったのだ。


 ちゃんと見ていた人が、いた。


 それだけのことが、思っていたより深く沁みる。


 笑いがこぼれた。きれいな微笑みになる前に、もっと雑で、生きた音になってしまう。


 乗り込む前に、もう一度だけ王城を振り返った。


 白い塔。高い窓。閉ざされた門。


 三年間、黙っていれば壊れずに済むと思っていた。


 違った。


 黙っていたから削られていただけだった。


 声を出したから壊れたんじゃない。

 声を出したから、やっと自分に戻れた。

 これはきっと、初めて自分のために吸う息だった。

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― 新着の感想 ―
お前がいないと何一つ上手くいかないって、だったら最初から認めていればいいのに。 しかも『お前』って呼び方がなしですね。
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