「静かで、退屈な婚約者だった」と切り捨てられたので、最後くらい全部言って去ることにしました
婚約が終わる日、私は最後まで笑っているつもりだった。
なのに最初に耐えられなくなったのは、笑顔ではなく、扇を握る指先だった。
白くなるほど力を込めているのに、殿下は一度もこちらを見なかった。
春の広間は息が詰まるほど静かだった。
高い天井も、磨き上げられた床も、並ぶ貴族たちの視線も、今日はひどく遠かった。
殿下――リアンは、ヴィクタリアの手を取ったまま私を見なかった。
その隣で、ヴィクタリアは笑っている。
春の花みたいに可愛らしい顔で。陽射しみたいに明るい声で。
けれど、口を開くたびに落ちてくるのは花びらではない。きれいに飾られた毒だ。しかも、自分が毒を撒いている自覚すらない種類の。
「何か言い返したらいかがですの。陽だまりの令嬢、なのでしょう? 黙って笑っているだけでは、置き物と何も変わりませんわ」
くすり、と首を傾ける。
その仕草まで愛らしいのが、余計に腹立たしかった。
誰もが聞いている。誰もがわかっている。それでも、誰も止めない。
その静けさの中で、リアンが誰にともなく言った。
「静かで、退屈な婚約者だった」
広間の誰かが、小さく息を呑んだ。
止める必要もないと思っているのだろう。あるいは、止める価値もないと思われているのか。
ああ、今日も私は、黙って終わるのだろうか。
そう思ったとき、懐の内側で紙の角が指先に触れた。
三日前、殿下の従兄君が置いていった一筆書きだ。ヴィクタリアから求婚があったが断った、その夜のことも含め、必要なら証言すると署名まで入れてある。
使うつもりはなかった。
黙って終わる方が、きれいだと思っていたから。
それなのに、ヴィクタリアが笑うたびに、その紙だけがじわじわと重くなる。
「――彼女に、それ以上お喋りさせるのはおやめになった方がよろしいかと」
低い声が、広間の空気を真横から断ち切った。
「聞いているだけで、品が下がります」
怒鳴ったわけではない。
けれど、その一言だけでざわめきが死んだ。
振り向く。
黒い礼服。まっすぐな背。冷えた水のように静かな目。
アドリエル・キャンベル。
東の国の公爵子息。
リアンの顔が露骨に歪んだ。
「何のつもりだ。これはこの国の王家の問題だ。あなたが口を挟む話ではない」
短く、きつい声だった。
拒絶するためだけの声。
けれどアドリエルは少しも動じない。
「まだ何もしておりません。ただ、お二人の言葉を聞いていると、どうにも妙な話だと思いまして」
穏やかだった。
穏やかすぎて、むしろ怖い。
「彼女が地味で、無愛想で、わかりにくい方に見えたのなら――それは、あなたが最初から見ようとなさらなかっただけでしょう」
空気が揺れた。
誰も何も言わない。けれど、その場にいた全員が思ったはずだ。
そこまで言うのか、と。
アドリエルは構わず続ける。
「彼女が紅茶に砂糖を入れないことも、夜会のあとに耳を押さえることも、緊張すると左手の親指を隠すことも、ご存知ないのでしょう」
ヴィクタリアの笑みが止まった。
「……は? そんな細かいこと、いったい何の意味があるというんですの」
意味がわからないのではない。わかりたくない顔だった。
気づけば、私は左手を押さえていた。
今もそうだった。ずっとそうだった。
緊張すると隠してしまう。傷つくと、余計に隠してしまう。誰にも知られていないと思っていた、小さくてみっともない癖。
アドリエルはほんの少しだけ笑った。
優しい笑みではない。
けれど、見ていましたよと静かに告げるための笑みだった。
「ご覧の通りです。もっと申せますが――本当に傷ついたときだけ、彼女は息を吸うまで少し間があく」
広間が、しんと静まった。
私は今、確かに長く息を吸っていた。
胸の奥が冷たいのに、息だけが熱い。苦しくて、うまく呑み込めない。そのわずかな間を、彼は見ていたのだ。
リアンの顔色が変わる。
ああ、この人は知らないのだ、と私は思った。
何も。
本当に、何も。
三年間、ずっとそうだった。
ずっと私は、黙っていれば壊れずに済むと思っていた。
言っても届かない。届かないなら言わない。言わなければ削られない。そういう理屈で、自分を守っているつもりだった。
けれど違った。
黙っていたから、削られ続けていただけだ。
「それが何だというんだ。そんなことを知っていたからといって、何が変わるというんだ」
リアンの声が荒れる。
反論というより、崩れかけた足場を必死に立て直しているような声だった。
アドリエルは、まっすぐにリアンを見た。
「何でもありません。ただ、あなたが今切り捨てようとしているその方を、本当に見ていたのか――それを確かめたかっただけです」
その一言で、胸の奥で何かが鳴った。
しぃ、と。
細く、乾いた音だった。
切れたのだと思った。
たぶん、ずっと私を縛っていたものが。
品格だとか、忍耐だとか、令嬢らしさだとか。そういう綺麗な名前のついた鎖が。
私は扇を下ろした。
さっきまで重かったはずの手が、妙に静かだった。
「では、ひとつだけ申し上げます」
声が出た。
三年間、一度も震えなかったのに、今日は震えた。それでも止まらなかった。
「すぐ終わります」
ヴィクタリアの笑みが消える。
リアンの目が開く。
王妃殿下の視線が、初めてまっすぐこちらに向いた。
もう、この場で黙っている理由はどこにもない。
「ヴィクタリア。今のご自分が、ずいぶん誇らしいのでしょうね」
「当然ですわ」
短い。迷いも、躊躇いもない。
その軽さが、逆によかった。あれほど飾っていても、中身はそれだけなのだとわかってしまうから。
私は懐から紙を取り出した。
「三日前、殿下の従兄君から一筆いただいております。あなたから求婚があったこと、それを断ったこと、その夜にあなたが殿下のもとへ向かったこと――必要なら証言してくださるそうです」
ヴィクタリアの顔から、完全に笑みが消えた。
「そんなもの、偽物ですわ」
「署名の確認を、王妃殿下にお願いできますか」
王妃殿下は無言で紙を受け取り、一瞥して目を伏せた。
それだけで、答えは出た。
ヴィクタリアの唇が動く。けれど言葉にならない。
私はもう彼女を見なかった。見るべき相手は、別にいる。
「そして殿下。あなたは、わかりやすい女性がお好きだと仰いましたね」
リアンの喉が動く。
「でしたら――今のお二人は、きっとよくお似合いです」
誰かが息を呑む。
誰も笑わない。けれど意味は全員に伝わったのだとわかった。
私は視線を逸らさないまま、さらに続けた。
「あなたに必要だったのは、素直な女性ではありません。
失言を隠して、場を整えて、機嫌まで先回りしてくれる――便利な人です」
三年分だ、とそのとき思った。
黙っていた三年分。笑って呑み込んだ言葉。見ないふりをしてきた失礼。私が何も言わないせいで、最初から何もない女だったことにされていた時間。
それが今、ようやく声になる。
「私が黙っていたのは、何もないからではありません」
一度、息を吸う。
喉の奥がひりついた。けれど、声は不思議なくらい静かだった。
「申し上げても、殿下は聞いてくださいませんでした」
「グレイス――」
今になって。今さら。
それでも名前を呼ばれた瞬間、目の端が熱くなる。三年分が一気に胸に来たのだと、ようやくわかった。
「今日だけで、三度もお呼びになりましたね。婚約していたあいだは、ほとんど呼んでくださらなかったのに」
リアンの顔から、言い返すための形が失われていく。
怒ればいいのか。否定すればいいのか。縋ればいいのか。本人にももうわからないのだろう。
「惜しんでなど」
「では、結構です」
短く言い切る。
それだけで足りた。これ以上、言葉を重ねる必要はない。
広間は静まり返っていた。
燭台の炎がかすかに揺れる。糸が一本切れたあとの楽器は、同じ形をしていても、もう同じ音を出さない。
今のこの広間は、まさにそういう沈黙の中にあった。
「これ以上、恥を重ねるおつもりなら、わたくしが止めます」
王妃殿下の声が広間に落ちる。
「殿下、よくお聞きなさい」
「母上、これは――」
「黙りなさい」
それだけで、終わった。
終わったのだと、ようやく体が理解する。
膝から力が抜けそうになる。けれど倒れなかった。最後まで立っているために、背筋を伸ばす。
踵を返す。裾が静かに揺れる。
このまま何も見ずに去ればいい。そう思ったのに、背後からまた声が落ちた。
「グレイス、待て――」
足が止まりかける。
でも、止めなかった。
「黙っていたのは、あなたが聞こうとしなかったからです」
それだけ言って、私は歩き出した。
城門の前には、もう馬車が待っていた。
春の朝だというのに風が強い。石畳を渡る風が裾をさらい、髪を乱していく。
見慣れたはずの王城は、いつもよりずっと遠く見えた。
三年間、あれほど近くにあった場所が、たった一夜で他人の家みたいな顔をしている。
私は立ち止まり、振り返った。
未練があるのかと問われれば、たぶん違う。
惜しいわけではない。ただ、長くいた場所からようやく自分の影を引き剥がしているような、変な感覚があった。
隣でアドリエルが静かな声で言った。
「未練は」
「ありません」
言ってから、自分の声が驚くほど軽いことに気づく。
「失ったという気はしないのです。ようやく離れられた、と思っただけで」
「即答ですね」
「迷う理由が、思っていたより残っていなかったので」
そのときだった。
遠くから石畳を打つ足音がした。急いだ足音。規則正しいはずなのに、焦りのせいで噛み合っていない音。
振り向くまでもなかった。
「グレイス、待て。頼む」
また名前だ、と思った。
四度目。
そんなことを、頭のどこかが妙に冷静に数えていた。
リアンが目の前まで来る。髪が乱れ、息が上がっている。いつもの整えられた王太子の顔ではなかった。余裕も、見栄も、取り繕いもない。
「お前がいないと何もかもうまくいかない。お前がいないと、何ひとつ回らない」
言葉がそのまま落ちてくる。
考えて選んだ言葉ではない。焦って、そのままこぼれた言葉だ。
だからこそ、よくわかった。
ああ、この人は本気でそう思っているのだと。
そして同時に、やはり何もわかっていないのだとも。
「そうでしょうね」
声は穏やかだった。
「いなくなってから気づいたのなら、それは私を見ていたんじゃなくて、便利なものがなくなって困っただけです」
「違う――」
「違いません」
もう、迷わない。
「三年間、あなたは一度も私を見ませんでした」
それだけ言うと、不思議なほど軽かった。
恨みを吐き出したはずなのに、もう熱は残っていない。長く胸の底に沈んでいたものが、ようやく形を得て外へ出ただけだった。
リアンの唇が動く。
何か言おうとしている。けれど、その何かは最後まで形にならない。謝罪か、言い訳か、懇願か。自分でも決められないまま、喉に引っかかっている顔だった。
私は丁寧に礼をした。
婚約者としてではない。最後に、ひとりの人間として。
「もう遅いのです。どうかお元気で」
それで終わりにした。
隣でアドリエルが手を差し出す。
私は今度は迷わなかった。
その手を取る。力を込めすぎず、それでいていつでも支えられるだけの確かさがある手だった。
「顔が違う」
思わず、少しだけ笑ってしまう。
「そうですか」
「二年間、何度か見ていました。その顔は一度もなかった」
胸の奥がゆっくり揺れた。
二年間。
私は見られていなかったわけではなかったのだ。
ちゃんと見ていた人が、いた。
それだけのことが、思っていたより深く沁みる。
笑いがこぼれた。きれいな微笑みになる前に、もっと雑で、生きた音になってしまう。
乗り込む前に、もう一度だけ王城を振り返った。
白い塔。高い窓。閉ざされた門。
三年間、黙っていれば壊れずに済むと思っていた。
違った。
黙っていたから削られていただけだった。
声を出したから壊れたんじゃない。
声を出したから、やっと自分に戻れた。
これはきっと、初めて自分のために吸う息だった。




