第9話
振り返れば、きっと少女の背中がまだ見える距離にいると分かっていた。だが、確かめることが正しいのかどうか、その判断をいまは保留にしたかった。見届けることと、見張ることは似ている。支えることと、寄りかかることもまた、境界が曖昧だ。
胸の芯は、もう薄れてきている。
二十四時間持続すると言われた勇気は、消えてはいないが、最初の硬質な感触を失い、代わりに柔らかな残響のようなものへ変わっている。恐怖は完全には遠くない。むしろ、少しずつ戻ってきている。裏通りの暗さや、教室のざわめきや、フードの男の目つきが、いまさらのように輪郭を帯びる。
遅れてやってくる震えは、罰のようでもあり、正当な対価のようでもあった。
怖かったのかもしれない。
あの教室で声を出した瞬間。
あの自販機の前で手を伸ばした瞬間。
扉を開けた瞬間。
怖さを感じる前に動いていた。だからいま、帳尻を合わせるように、胸の奥がひりつく。
駅前の雑踏に紛れ込みながら、彼はゆっくりと息を吐く。呼吸が浅い。意識して深く吸い込むと、冷たい夜気が肺に入り、現実の温度が身体を内側から冷やしていく。
勇気が薄れると、世界は再び重くなる。
だが、以前のように摩擦ゼロの布ではない。
確かに擦れている。
擦れた痕が、わずかに熱を持っている。
仕事の時間が近づいていることに気づき、足は自然とデータ監視室のあるビルへ向かう。夜間のフロアは相変わらず静かで、蛍光灯の白さは無機質で、モニターの光は均一だ。いつもと同じ環境。温度の一定した水槽。
席に座り、ログインする。
警告音が鳴る。
確認する。
報告する。
閉じる。
指先の動きは正確だ。だが、ほんのわずかに、画面の向こう側にいる“誰か”を想像している自分に気づく。システムの向こうには、利用者がいる。エラーの向こうには、困る人間がいる。以前なら、そこまで意識は伸びなかった。
これは、借り物の残り火か。
それとも、あの教室の空気が残したものか。
同僚がコーヒーを置く。
「昨日、なんかあった?」
唐突な問いに、彼は一瞬だけ視線を上げる。
「顔、ちょっと違う」
違う。
その言葉が、奇妙に胸へ落ちる。
変わった、と自分で思った。
だが他人の目にも、何かが映っているのか。
「寝不足だ」
そう答えると、同僚は肩をすくめて去っていく。追及はない。世界はそれほど他人に執着しない。
モニターに映る数値の揺れを眺めながら、彼は思う。
もし、感情をすべて預けた過去が本当にあるのだとしたら。
それは、壊れないための選択だったのだろう。
感情を持たなければ、痛まない。
痛まなければ、崩れない。
だが今日、ほんのわずかに痛んだ。
怖さが遅れてきた。
胸がひりついた。
それでも、崩れてはいない。
警告音がまた鳴る。
彼はヘッドセットをつけ、淡々と指示を出す。
その声は落ち着いている。だが、その落ち着きの奥に、微かな震えがあるのを、自分だけは知っている。震えは消そうと思えば消せる。以前のように、感情の薄い層で覆えばいい。
だが、覆わない。
震えをそのままにして、作業を続ける。
怖さを抱えたまま、動けるかどうか。
勇気を借りずに、立てるかどうか。
それを試す夜になる。
午前三時を回る頃、胸の芯はほとんど消えている。残っているのは、自分の鼓動だけだ。均一ではない。わずかに速い。だが、それが自分のものだと分かる。
仕事を終え、ビルを出る。
夜明け前の空は薄く、街はまだ眠っている。
足は、無意識にあの路地へ向かいかける。
止まる。
今日、借りる理由はあるか。
恐怖はある。
不安もある。
だが、立てないほどではない。
少女は、今日は借りなかった。
自分も、借りずに一夜を越えた。
それだけで十分とは言えない。
だが、ゼロではない。
彼は、路地を曲がらずに、まっすぐ駅へ向かう。
胸の奥の欠けは、まだ埋まらない。
完全にはならない。
だがその欠けが、いまは確かに自分の形をしている。
借り物ではない震えを抱えたまま、朝の光の中へ歩き出す。
世界は相変わらず均質で、無遠慮で、静かだ。
それでも彼は、その世界にわずかな摩擦を感じながら、確かに自分の重さで地面を踏んでいる。
感情は、まだ薄い。
だが、消えてはいない。
霧のように広がり、触れたかどうかも分からないそれが、今度は確かに、胸の内側でとどまっている。




