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感情のレンタル屋  作者: おこげ


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第8話

 歩き出してからもしばらく、彼は自分の足音がやけに鮮明に聞こえることに気づいていた。舗道の継ぎ目を踏むたびに、靴底から小さな振動が上がり、その律動が心臓の鼓動と微妙にずれているのが分かる。そのずれが、不安ではなく、むしろ現実の確かさとして胸の内側に刻まれていく。

 校門から離れるほどに、さきほどの教室の空気は薄れていくはずなのに、少女が一度だけ顔を上げた瞬間のまっすぐな視線だけが、妙に解像度を落とさずに残り続けている。助けを求めるでも、拒絶するでもない、ただ「見ている」という目。その目が、自分の選択をどこかで測っていたのではないかという感覚が、遅れて胸に広がる。

 足りないもの。

 女性の言葉が、歩調に合わせて反復する。

 勇気は借りた。恐怖も、遅れてではあるが感じ取れた。では、いま欠けているのは何か。決意か。覚悟か。それとも、もっと曖昧な、他者と同じ高さに立つための何か。

 交差点に差しかかり、信号待ちの人々の中に紛れ込む。誰も彼を知らない。彼もまた、誰の背景も知らない。だが、横に立つ中年の男がスマートフォンの画面に眉をひそめ、前にいる母親が子どもの帽子を直し、向こう側の高校生たちが笑い合う、その一つひとつが、以前よりもわずかに濃く見える。

 借りていない。

 それでも、世界の輪郭が少しだけ立っている。

 信号が青に変わる。人の流れに押されるように歩き出しながら、彼は唐突に思う。あの少女は、今日は借りなかった。震えながらも、立っていた。自分は、借りた勇気で教室に入った。だが最後に選んだのは、踏み込みすぎないという判断だった。

 あれは、借り物の勇気が選んだのか。

 それとも、自分の中で芽生えた何かが、勇気を少しだけ抑えたのか。

 答えは出ない。だが、分からないままにしておくことが、いまは不快ではなかった。

 駅へ向かう道を外れ、彼は無意識に一本裏の路地へ足を向ける。そこには、あの店があるはずだと、身体が覚えている。確認したいのか、試したいのか、自分でもはっきりしないまま、角を曲がる。

 薄暗い路地の奥に、淡い灯りが浮かんでいる。

 看板は、昨日と同じ位置にある。

 本日、在庫あります。

 何の在庫かは書かれていない。その曖昧さが、逆にすべてを含んでいるように見える。

 扉の前で、足が止まる。

 開ければ、また借りられる。足りないものを、名前のついた小瓶として差し出されるだろう。迷いも、共感も、あるいはもっと別の、まだ自分が知らない感情も。

 だが同時に、いま胸の奥で微かに動いているこのざわめきが、借り物ではない可能性もある。

 足りないと分かっている人は、まだ大丈夫。

 女性の声が、静かに蘇る。

 彼は、扉に触れない。

 ガラス越しに店内を覗くと、棚の前にひとりの背中が見える。小柄な影。制服の袖。

 少女だ。

 彼女は棚を見上げている。手は伸びていない。ただ、並んだ小瓶を一つひとつ目でなぞっている。その姿は、昨日よりもわずかに静かで、わずかに遠い。

 借りるのか。

 借りないのか。

 彼は、扉の外から見ているだけだ。介入しない。声もかけない。ただ、彼女がどう選ぶのかを、見届けようとしている自分に気づく。

 それは無責任かもしれない。

 だが、奪わないという選択でもある。

 少女の指先が、一つの小瓶の前で止まる。ラベルは読めない。透明なガラスの向こうで、淡い光が揺れている。彼女はしばらくそれを見つめ、それから、そっと手を下ろす。

 何も取らない。

 代わりに、深く息を吸う。

 そして、振り返る。

 扉の外に立つ彼と、目が合う。

 一瞬の驚き。だが、すぐに消える。

 その目は、昨日とも、教室とも違う。強くも弱くもない。ただ、自分で選んだという痕跡が、かすかに残っている。

 彼は、何も言わない。

 少女も、何も言わない。

 それでも、その沈黙のあいだに、確かなものがある。

 彼はようやく理解する。足りないものは、瓶の中にあるとは限らない。足りなさを自覚したまま立つ時間そのものが、何かを育てるのかもしれない。

 扉から手を離す。

 今日は、入らない。

 少女が店を出て、彼の横を通り過ぎる。すれ違いざま、ほんのわずかに会釈する。その動きは、借り物の勇気ではなく、自分の重さで支えられているように見えた。

 彼は、その背中を追わない。

 代わりに、逆方向へ歩き出す。

 胸の奥には、まだ欠けがある。完全ではない。満ちてもいない。

 だが、その不完全さが、はじめて自分の輪郭のように思えた。

 借りていない。

 それでも、確かに何かが、ゆっくりと芽を出し始めていた。

 逆方向へ歩き出してから、彼は一度も振り返らなかった。

 振り返れば、きっと少女の背中がまだ見える距離にいると分かっていたが、その距離を測ること自体が、どこかで彼女の選択を追いかけることになるように思えて、あえて視線を前だけに置く。

 夕暮れは、ゆっくりと色を変えていく。

 昼と夜のあいだの曖昧な時間帯は、何かが決まりきらないまま宙に浮いているようで、いまの自分の内側とよく似ていると、彼はぼんやり考える。

 足りない。

 その事実は変わらない。

 だが、足りなさをすぐに埋めようとしない自分がいる。

 それは成長なのか、単なる先延ばしなのか。

 分からない。

 駅前の広場では、路上ライブの準備をしている若者がいて、ギターの弦を一本ずつ弾きながら音を確かめている。その不完全な調律の音が、どこか心地よい。完成していない響きは、不安定でありながら、嘘がない。

 彼はベンチに腰を下ろす。

 ポケットに手を入れる。

 空だ。

 小瓶はない。

 けれど、胸の奥に、あの店の棚の光景が浮かぶ。怒り、勇気、躊躇、共感、名前のついた感情たち。あれらは整然としていて、選びやすく、手に取りやすい。

 対して、自分の内側にあるものは、まだ名づけられていない。

 曖昧で、形がなく、時々しか姿を現さない。

 それでも、さきほど少女と目が合った瞬間、確かに何かが通った。

 あれは何だったのか。

 共感か。

 連帯か。

 それとも、ただ同じ場所に立っていたという事実の重なりか。

 思考が、ゆっくりと自分の内側を巡る。借りた感情のときのような即断はない。答えがすぐに整列することもない。代わりに、迷いがそのまま置かれている。

 その迷いが、不思議と嫌ではなかった。

 ふと、隣に誰かが腰を下ろす気配がある。

 視線を向けると、あの女性だった。

 校門の外に立っていた、あの静かな人。

 偶然かどうか、確かめる気は起きない。

「入らなかったんですね」

 彼女は前を向いたまま言う。

「見ていたんですか」

「いいえ。空気が、少しだけ軽いから」

 軽い。

 彼は胸に手を当てる。重さが消えたわけではない。ただ、焦りが少し薄れている気がする。

「足りないまま、立つことにしたんですね」

 彼女の声は、評価でも賞賛でもない。ただ、事実の確認のようだ。

「分からない」

 正直に答える。

「ただ、今日は借りないほうがいい気がした」

 気がした、という曖昧さを、彼女は否定しない。

「それで十分ですよ」

 彼女は小さく頷く。

「足りないと感じるのは、動いている証拠です。完全に埋めてしまうと、しばらくは楽ですが、動かなくなる」

 彼は、怒りを借りた日の鮮明さを思い出す。世界はくっきりしていた。だが、あの鋭さは、長く持てるものではなかった。

「あなたは、借りないんですか」

 再び問う。

 彼女は少しだけ考える。

「借りますよ。ときどき」

 夕暮れの光が、彼女の横顔を柔らかく縁取る。

「でも、借りる前に、自分の中にどれだけ残っているかを確かめるようにしています」

「残っている?」

「微量でも。種みたいなものです」

 種。

 その言葉が、胸の奥に落ちる。

 今日、少女と目が合ったときに生まれた、あの微かな熱。あれが種だとしたら。

 借りずに水をやる方法はあるのか。

 彼は、ゆっくりと息を吸う。

 肺が膨らみ、冷たい空気が内側を通る。その感覚が、やけに鮮明だ。

「怖くないんですか」

 彼は聞く。

「足りないままでいることが」

 彼女は少しだけ笑う。

「怖いですよ」

 即答だった。

「だから、確認しに来るんです。自分も、誰かも、まだ立てているかどうか」

 その言葉に、教室の少女の姿が重なる。震えながらも、借りずに棚の前に立っていた背中。

 彼は立ち上がる。

 夜が、ゆっくりと降り始めている。

「明日も、足りないままかもしれない」

 彼は言う。

「きっと」

 彼女は答える。

「でも、足りないと感じる限り、終わってはいません」

 終わっていない。

 その言葉が、胸の奥で静かに反響する。

 彼はベンチを離れ、駅へ向かう。

 歩きながら、ふとポケットに手を入れる。やはり何もない。

 だが、空虚ではない。

 欠けがある。迷いがある。揺れがある。

 そのどれもが、いまは自分のものだ。

 借りていない。

 それでも、確かに動いている。

 足りないまま、明日へ向かう。

 その不安定さごと抱えながら、彼は夜の改札をくぐっていった。

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