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感情のレンタル屋  作者: おこげ


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第6話

少女と別れたあと、一人になった夜道で、ようやく静けさが戻ってくると、勇気の芯は相変わらず胸の奥に通っているのに、その上を覆う空気だけが少し薄くなったように感じられ、自分の輪郭が、わずかに現実へ押し戻される感覚があった。

 二十四時間持続型。

 店主の言葉が反芻される。

 減衰は緩やか。

 ならば今この微かな揺らぎは、効果の低下ではなく、自分自身の側の反応なのだろうと考えながら、同時に、さっき少女に「来てよ」と言われたとき、迷いよりも先に肯定が立ち上がったあの速さを思い返し、その速さが本当に自分の性質だったのかどうか、急に確信が持てなくなる。

 駅前を離れ、あの路地とは反対側へ歩く。

 ふと、視界の端に、見覚えのある看板の色が映る。

 雨に濡れたアスファルトの上に、あの奇妙な店の灯りが、まだ淡く滲んでいる。

 自分は立ち止まる。

 理由ははっきりしない。

 礼を言うためでも、追加で借りるためでもない。

 ただ、確かめたい。

 なぜここまで自分は、あの店の存在を自然に受け入れているのか。

 普通ならもっと疑うはずだ。

 仕組みを問い詰めるはずだ。

 警戒するはずだ。

 だが自分は、あまりにも滑らかに、小瓶を手に取り、説明を聞き、代金を払い、体内に入れた。

 初めて触れたはずのものに対する、あの慣れ。

 それが、遅れて違和感になる。

 扉を押す。

 鈴は鳴らない。

 代わりに、柔らかい空気が流れる。

 棚に並ぶ小瓶は変わらない。

 怒り、恋、安心、覚悟、罪悪感。

 ラベルの文字を目で追うと、胸の奥がわずかにざわつく。

 勇気とは違う。

 別の何かが、反応している。

「戻られましたか」

 店主が奥から現れる。

 穏やかで、年齢の判別しにくい顔。

「効果に問題でも?」

「いや」

 問題はない。

 むしろ、安定しすぎている。

「……ここ、前からありましたか」

 口に出してから、自分でも妙な質問だと思う。

 街にこんな店があれば、覚えているはずだ。

 だが、思い出せない。

 店主は、ほんの一瞬だけ目を細める。

「お客様は、よくそうおっしゃいます」

 答えになっていない。

 だが否定でもない。

 棚の一角に、空のスペースがあることに気づく。

 小瓶が抜け落ちたような隙間。

 そこだけが、妙に整いすぎている。

「そこには、何があったんですか」

 問いは自然に出る。

 店主は視線だけを向ける。

「在庫は流動的です」

 やはり説明しない。

 だが、その空白を見たとき、胸の奥に、言葉にできない感触が広がる。

 懐かしさに似ている。

 あるいは、取り残された感じ。

 勇気があるはずなのに、そこだけが少し冷える。

「あなたは」

 店主がゆっくり言う。

「いまの状態を、どう感じていますか」

 質問の意図が読めない。

 だが正直に答える。

「楽です」

 それから、少し考える。

「……でも、正確じゃない」

「正確?」

「自分の重さと、少しずれてる気がする」

 言葉にして初めて、自分でも腑に落ちる。

 いまの自分は、世界に対して過不足なく立てているようで、どこか調整された数値の上に乗っている感覚がある。

 本来の振れ幅が、見えない。

 店主は、わずかに頷く。

「感情は、補助輪のようなものです」

「補助輪?」

「外せる人もいます。外れない人もいます。最初から不要な人もいます」

 そして、ほんの少しだけ間を置く。

「一度、外したことのある方も」

 その言葉に、胸の奥で何かが引っかかる。

 外した?

 自分が?

 記憶にはない。

 だが、否定する材料もない。

 勇気は、恐怖を薄くする。

 だが疑問は消さない。

「俺は、初めてですよ」

 そう言うと、店主は微笑む。

 肯定も否定もしない微笑み。

「そうかもしれません」

 曖昧な答えが、店内に落ちる。

 棚の空白が、視界の端で静かに光っている。

 そこに何があったのか。

 なぜ気になるのか。

 まだわからない。

 だが、勇気とは別の何かが、胸の深いところで、ゆっくりと目を覚まし始めている気がする。

 それは恐怖ではない。

 喪失に近い感触だった。

 名前のないままの。


 店を出たとき、夜はさきほどと同じ温度で街に広がっていたはずなのに、胸の奥に通ったままの勇気の芯のせいで、空気は薄く澄み、遠くの信号の赤さや、アスファルトに残った雨の光沢や、ビルの隙間に溜まった闇の濃度までが過不足なく見えてしまい、その鮮明さが世界を理解しやすくしているのか、それとも余計なものまで拾い上げているのか判別できないまま、彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 減衰は緩やかだと店主は言った。

 ならば、この違和感は効果の揺らぎではない。

 自分の側の問題だ。

 歩き出すと、足取りは安定している。

 迷いは少ない。

 だが、少なすぎる。

 横断歩道に差しかかったとき、右折してくる車の速度を瞬時に計算し、渡れると判断するその思考の速さが、以前の自分のものだったかどうか思い出せず、記憶の中の自分はいつも少しだけ慎重で、少しだけ躊躇が多く、その分だけ周囲との摩擦を避けて生きてきたはずなのに、いまの自分は摩擦を前提に進むことを当然のように受け入れていて、その差がどこから生じたのかを考えようとすると、思考は妙に滑らかに、しかし核心を避けるように流れていく。

 部屋に戻ると、照明の白さが目に刺さる。

 静かすぎる。

 冷蔵庫の低い駆動音だけが、現実を保っている。

 靴を脱ぎ、壁にもたれかかる。

 勇気は、まだはっきりとある。

 恐怖は遠い。

 不安も薄い。

 それなのに、胸の奥のどこかに、小さな空洞のような感触がある。

 完全な空白ではない。

 だが、何かが置かれるべき場所に、まだ何も置かれていない感じ。

 それが何かを思い出そうとすると、思考はそこで柔らかく逸れる。

 机に向かい、何気なく引き出しを開ける。

 古い封筒。

 読みかけの本。

 使い切ったはずのボールペン。

 その奥に、見覚えのない小さな箱があることに気づく。

 黒く、無地で、軽い。

 いつからあったのか、思い出せない。

 手に取る。

 蓋は開かない。

 鍵もない。

 ただ、そこにある。

 勇気があるからか、躊躇なく振ってみる。

 音はしない。

 空か。

 それとも、詰まっているのか。

 判断がつかない。

 急に、店の棚の空白が脳裏をよぎる。

 整いすぎた隙間。

 あそこにも、何もなかった。

 何もないはずなのに、何かがあった形だけが残っているような、不自然な静けさ。

 箱を机に置く。

 自分はいつから、物の出所を気にしなくなったのだろう。

 以前はもっと、細部に神経質だった気がする。

 物の位置や、時間の流れや、人の言葉の端に。

 それがいつからか、どうでもよくなった。

 どうでもいい、というより、響かなくなった。

 響かないから、記憶に残らない。

 残らないから、欠落に気づかない。

 その循環のどこかで、自分は軽くなっていったのではないかという考えが、勇気の表面をかすめる。

 だが恐怖は立ち上がらない。

 代わりに、静かな観察だけがある。

 ベッドに横たわる。

 天井を見つめる。

 明日、教室に行く。

 少女の隣に立つ。

 それを想像しても、心拍は安定している。

 うまくやれる気がする。

 必要なら声を出せる。

 必要なら止められる。

 その確信がある。

 だが同時に、その確信の根拠が、自分の過去の経験に基づいていないことにも気づく。

 自分は、そんな人間だったか。

 誰かの前に立ち、空気を変える側の人間だったか。

 思い出そうとする。

 学生時代。

 職場。

 家族。

 どの場面も、輪郭が曖昧だ。

 大きな出来事があったはずなのに、その手触りがない。

 まるで、重要な場面だけが切り取られ、音声を消された映像のように、形だけが残っている。

 勇気は、そこに踏み込ませない。

 必要のない回想だと判断するかのように、思考を現在へ戻す。

 明日の段取り。

 時間。

 場所。

 具体的なことを考えると、落ち着く。

 だが、落ち着きすぎている。

 眠りに落ちる直前、ほんの一瞬だけ、胸の奥で別の感情がかすかに動く。

 恐怖ではない。

 喪失に近い、何かを置き忘れてきたような、取りに戻らなければならないような、しかし何を忘れたのか思い出せない焦燥。

 その感触が浮かびかけた瞬間、勇気の芯がわずかにそれを押しとどめる。

 いまは必要ない、と言わんばかりに。

 朝、目が覚める。

 勇気は、まだある。

 鮮明さも、判断の速さも、保たれている。

 鏡を見ると、表情は安定している。

 不安の影が薄い。

 その顔に、わずかな違和感を覚える。

 整いすぎている。

 本来、人の顔には、もっと細かな揺らぎがあるはずだ。

 電車に乗る。

 吊革を握る手に迷いはない。

 視線が集まっても気にならない。

 それは強さのようで、同時に、鈍さのようでもある。

 学校の門が見える。

 胸の奥で、ほんのわずかに、恐怖が芽を出す。

 遅れて。

 勇気に押さえ込まれながらも、確かにある。

 それを感じ取った瞬間、彼は初めて少しだけ安堵する。

 完全に消えてはいない。

 恐怖は、まだ残っている。

 ならば、自分はまだ、何かを失いきってはいない。

 教室の前に立つ。

 扉の向こうから、笑い声がする。

 勇気は、前へ進めと言う。

 恐怖は、様子を見ろと言う。

 その両方が、かすかに同時に存在している。

 その均衡の上で、彼は深く息を吸い、扉に手をかける。

 この選択が、自分の意思なのか、借り物の延長なのかはまだわからない。

 わからないまま、それでも開ける。

 世界は、音を立てて動き出す。

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