第5話
裏通りを抜けて大通りに出ると、夜は何事もなかったかのように均質で、コンビニの白い光と、信号の規則正しい点滅と、どこかの店から漏れる油の匂いが、世界はまだ壊れていないと無言で告げていたが、その均質さの中に立っている自分だけがわずかに調律を外している楽器のように感じられ、胸の芯に通ったままの勇気が、静かに、しかし確実に、周囲との摩擦を生んでいることを意識せずにはいられなかった。
少女の歩幅は小さい。
だが、さっきよりも確かだ。
勇気を借りていない彼女の足取りは、震えを含みながらも、自分の重さで地面を踏んでいる。
その事実が、奇妙にまぶしい。
「ねえ」
少女が言う。
「さっき、怖くなかったの?」
問いは軽い。
だが、内側に棘がある。
正直に答えれば、怖くはなかった。
ほとんど。
あの男の視線も、裏通りの暗さも、濃縮感情という言葉の危うさも、理解はしていたが、理解と恐怖は結びつかなかった。
「怖くないのも、問題だ」
そう言うと、少女は少しだけ眉を寄せる。
「強いほうが、楽じゃん」
楽。
その言葉が、胸の奥に沈む。
勇気は、たしかに楽だ。
判断が速い。
迷いが減る。
躊躇が薄い。
だが、その楽さは、何かを省略している。
恐怖という、回り道。
疑いという、寄り道。
立ち止まるという、時間。
それらを飛ばして進むことは、効率的だが、どこかで支払いが発生する。
「楽なまま進むと、どこかで急に落ちる」
説明になっていないとわかりながら言うと、少女は黙った。
駅前の広場に出る。
噴水は止まっている。
水のない円形の縁に、数人の若者が座って笑っている。
その笑い声が、やけに鮮明に耳に届く。
勇気は感覚を澄ませる。
世界の輪郭がくっきりする。
だがそれは、幸福の鮮明さではない。
刺激の強度だ。
少女が立ち止まる。
「わたしさ」
言い淀む。
「明日、またあるんだよ」
何が、とは言わない。
教室の空気。
視線。
机の距離。
笑い声の向き。
想像できる。
勇気があるから、想像しても退かない。
「だから、強いの、欲しかった」
その声は、さっきよりも小さい。
強い勇気を飲めば、教室の中心に立てるかもしれない。
視線を跳ね返せるかもしれない。
誰かを黙らせられるかもしれない。
だが同時に、誰かを傷つけるかもしれない。
そして傷つけたとき、その痛みを正確に感じ取れるほどの揺らぎが、彼女の中に残るかどうかはわからない。
「明日もあるなら」
ゆっくり言葉を探す。
「今日みたいに、一回立てばいい」
保証のない言葉だ。
だが誇張しない。
勇気があるから、万能感に寄りかからないように意識する。
少女はしばらく黙って、それから小さく息を吐く。
「ずるい」
「何が」
「借りてる人の言葉は」
胸の芯が、わずかに軋む。
その通りだと思う。
自分は借りている。
彼女は借りていない。
この差は、埋まらない。
勇気が二十四時間持続すると店主は言った。
減衰は緩やかだと。
ならば今夜、眠るまで、そして明日の朝も、芯は通ったままだろう。
その状態で彼女の「明日」を横で見ることになる。
それは、公平か。
答えは出ない。
「じゃあさ」
少女が顔を上げる。
「明日も来てよ」
予想していなかった提案に、一瞬だけ思考が止まる。
来る。
教室に。
自分が。
勇気が、即座に肯定する。
行ける。
問題ない。
必要なら、また止めればいい。
だがその肯定の速さに、あえてブレーキをかける。
これは自分の戦いではない。
彼女の明日だ。
「俺が行っても、全部は変わらない」
「全部じゃなくていい」
即答だった。
「ちょっとでいい」
ちょっと。
その曖昧さが、妙に現実的で、胸の奥に静かに沈む。
勇気は世界を変える力ではない。
せいぜい、一歩分の角度をずらす程度だ。
それでも。
世界と距離を取るために。
いま、借り物とはいえ、その感情で誰かの一歩に関わろうとしている。
それは、逃避の延長か。
それとも、引き受けの始まりか。
駅前の時計が時を刻む。
胸の芯は、まだ通っている。
恐怖は遠い。
だが完全には消えていない。
そのわずかな恐怖が、遅れて、静かに戻り始めていることに気づく。
明日、教室に入るとき。
自分は本当に平然としていられるのか。
少女の隣に立つことは、濃縮感情の売人よりも、ずっと現実的な重さを持っている。
「わかった」
短く答える。
勇気が言わせたのか。
それとも、自分か。
まだ判別はつかない。
だが、完全な空白ではない。
少女が少しだけ笑う。
借りていない笑いだ。
その不完全さが、やけに温かい。
夜は変わらない。
街も変わらない。
ただ、自分の中の勇気の使い方だけが、静かに、次の局面へと踏み込もうとしている。




