第3話
勇気の瓶を胸に当てた瞬間、昨日の怒りとは違う質の熱がゆっくりと内側へ染み込み、それは燃え上がるというよりも、空洞の縁を丁寧に補強していくような感覚で、崩れそうだった何かに見えない支柱が差し込まれるのを、はっきりと自覚した。
心臓の鼓動が安定する。
視界が明るくなるわけではない。
音が鋭くなるわけでもない。
ただ、背中の奥に、一本の芯が通る。
「効果は穏やかです」
店主が言う。
「あなたの場合は特に」
どういう意味かと問う前に、身体が理解する。
恐怖が、遠い。
不安が、形を失う。
代わりに、「やれる」という感覚だけが、静かに広がる。
店を出ると、夕方の空気は冷えていて、人通りも増えていたが、その雑多な気配が不快に感じられないことに、まず驚いた。
昨日の怒りが世界を敵に見せたのに対して、勇気は世界を“対象”に変える。
避けるものではなく、向かうものへ。
足が自然に駅とは反対方向へ向く。
少女の言葉が頭に残っている。
勇気がないと、行けない。
学校。
時間を確認すると、まだ終業前だ。
理由を考える前に、身体が動く。
これが勇気の作用なのか、それとも単なる好奇心なのかは区別がつかないが、少なくとも「やめておこう」という選択肢が浮かばない。
校門の前に立ったとき、警備員の視線がこちらに向くが、以前なら感じたはずの居心地の悪さがない。
説明を求められれば答えればいいし、拒まれれば引けばいい、ただそれだけの話だと、妙に合理的に思える。
「保護者の方ですか」
警備員が尋ねる。
「違います」
即答できる。
言い淀まない。
「知り合いが中にいるので、少し様子を」
曖昧な言い回しでも、声がぶれない。
警備員は数秒こちらを見て、やがて肩をすくめた。
「五分だけ」
通された。
それだけのことなのに、胸の奥で小さな振動が起きる。
できた。
ほんの些細な突破だが、それが自分の意志によって生まれたという事実が、確かな質量を持って内側に積もる。
校舎の奥から、ざわめきが聞こえる。
笑い声。
乾いた拍手。
そして、誰かを囲む気配。
足が速くなる。
理屈より先に、身体が向かう。
教室の前に人だかりができていて、その中心に、あの少女が立っているのが見えた。
背筋は伸びている。
顎も上がっている。
目は強い。
だが、囲む数人の生徒の表情は、楽しげというより、獲物を観察するそれに近い。
「言ってみなよ、もう一回」
誰かが言う。
少女は、はっきりとした声で答える。
「やめてって言ってるの」
その瞬間、空気が微妙に歪む。
勇気が、確かに彼女を支えている。
だが同時に、囲んでいる側の視線が鋭くなる。
勇気は恐怖を上書きする。
だが、状況そのものを変えるわけではない。
誰かが少女の机を蹴る。
音が響く。
少女は一歩も引かない。
それは立派だ。
だが、危うい。
胸の奥で、昨日とは違う種類の熱が生まれる。
怒りではない。
衝動だ。
助ける、という単純な動機が、迷いなく前に出る。
「やめろ」
声が出る。
教室の空気が一斉にこちらへ向く。
視線が刺さる。
だが怖くない。
怖くないというより、怖さを処理できる。
勇気が、恐怖を薄くする。
「誰だよあんた」
笑いが混じる。
だが足は止まらない。
少女の隣に立つ。
距離が縮まる。
相手の目の奥がわかる。
虚勢。
優越。
そして、退屈。
「もう十分だろ」
声が揺れない。
自分でも不思議なほど、冷静だ。
数秒の沈黙。
やがて、誰かが舌打ちをする。
「うぜえな」
だが、その場の空気は確実に変わった。
標的が一人から二人へ増えたことで、力のバランスが崩れる。
完全な支配は成立しない。
数人は顔を見合わせ、興が削がれたように散っていく。
少女の肩が、わずかに震える。
勇気が切れかけているのか、それとも今さら恐怖が追いついたのか。
「帰るぞ」
自分でも驚くほど自然に言葉が出る。
彼女は無言で頷く。
校舎を出た瞬間、少女の足が止まる。
「……切れた」
小さく呟く。
勇気が。
その言葉と同時に、彼女の呼吸が乱れ、膝が崩れ落ちる。
慌てて支える。
身体が軽い。
「返却、まだしてないのに」
彼女はかすれた声で言う。
「濃度が、足りなかった」
濃度。
その言葉が引っかかる。
店主はそんな説明をしていない。
「普通のは、弱いから」
少女の視線が、どこか遠くを向く。
「もっと強いの、あるんだよ」
胸の奥で、勇気とは別の冷たい感覚が生まれる。
違法な濃縮感情。
そんな言葉が、まだ知らないはずなのに、形を持ち始める。
少女の身体を支えながら、確信に近い予感が胸を打つ。
あの店の外に、もう一つの流通がある。
そしてそれは、もっと危険だ。
勇気が静かに燃えている。
だが同時に、その燃料が尽きたときの反動を、うっすらと予感している。
それでも足は止まらない。
止める理由が、もうないからだ。




