第2話
怒りは、返さなければならない。
それを知ったのは、借りた翌日の夕方だった。
胸の奥で燃え続けていた熱は、朝方まで確かにそこにあったのに、眠りから覚めた瞬間、まるで誰かに抜き取られたように跡形もなく消えていて、その代わりに、以前よりも一段深い空洞が内側に広がっているのをはっきりと感じた。
静かすぎる。
昨日までの無音より、さらに静かだ。
世界の色が薄い。
怒鳴った記憶はあるのに、そのときの熱が再生できない。
まるで他人の出来事だ。
仕事中、同僚が小さなミスをした。
昨日の自分なら、何か言ったかもしれない。
だが今日は、何も浮かばない。
ただ処理する。
淡々と。
胸の奥が、軽いというより、削られている。
それは初めて感じる種類の虚無で、単なる“薄さ”とは違い、確実に何かが抜け落ちた痕跡を伴っていた。
あの店だ。
そう理解するまでに時間はかからなかった。
仕事終わり、足は自然にあの路地へ向かっていた。
雨は止んでいる。
看板は乾いていて、文字がはっきり読める。
――本日、勇気あります。
昨日と違う。
店内は静かだった。
棚の瓶は相変わらず整然と並び、淡い光を放っている。
「返却ですね」
店主が言う。
怒りの小瓶は、いつの間にか手の中にあった。
昨夜、持ち帰った覚えはない。
だが疑問は浮かばない。
胸に当てると、わずかな熱が吸い取られ、完全に消えた。
空洞が、広がる。
「副作用は軽度ですね」
店主は穏やかに言う。
「……副作用」
「感情は、借りるときより、返すときのほうが重い」
その言葉が、遅れて刺さる。
棚の奥で、小さな動きがあった。
振り向くと、一人の少女が立っている。
制服姿で、髪は濡れていないのに、なぜか寒そうに見えた。
彼女は迷いなく棚へ歩き、「勇気」と書かれた瓶を手に取る。
慣れた動作だった。
「いつもの、半日で」
少女は言う。
声は小さいが、震えていない。
「依存は進んでいますよ」
店主が淡々と告げる。
「わかってます」
少女は瓶を胸に当てる。
瞬間、目が変わる。
背筋が伸びる。
表情に、強い光が宿る。
まるで別人だ。
さきほどまでの不安定さが嘘のように消え、代わりに確固たる意志が顔を支配している。
彼女は振り返り、こちらを見る。
「あなたも?」
問いかけられ、一瞬だけ返答に迷う。
何を借りたのか、聞いているのだろう。
「怒り」
そう言うと、少女はわずかに笑った。
「いいですね、それ」
いい。
その基準がわからない。
「勇気は、ないと無理だから」
彼女は続ける。
「ないと、行けない」
「どこに」
聞き返すと、少女は答えなかった。
ただ、「行ってきます」と店主に言い、外へ出ていく。
扉が閉まる。
鈴の音が、やけに長く響いた。
「……あれは?」
「常連です」
店主は簡単に言う。
「勇気がないと、学校へ行けない」
理解はできる。
だが、理解したところで何も動かない自分がいる。
「借りますか?」
店主の視線が、棚の瓶へと誘導する。
勇気。
恋。
安心。
覚悟。
罪悪感。
昨日よりも、色が鮮やかに見える。
空洞が疼く。
埋めたい。
昨日の怒りよりも、強い何かで。
「……勇気は、どんな感覚ですか」
「恐怖を上書きします」
「副作用は」
「返却後、恐怖が倍になります」
合理的だ。
残酷だ。
だが、明確だ。
店主は一歩も近づいてこない。
選ばせるだけだ。
棚の前に立つ。
小瓶の中で、淡い金色の液体が揺れる。
勇気。
あの少女は、これを毎日借りている。
勇気がなければ行けない場所。
そこまでして向かう理由。
空洞が、わずかに軋む。
その音を、初めてはっきりと聞いた。
「……一日分、ください」
言葉が、静かに落ちた。
瓶は、思ったよりも軽かった。




