最終章3
雨音が、静かに続いている。
差し出した傘の中に、相手が入る。
一瞬だけ、驚いたような目が向けられる。
それから、小さく会釈が返る。
「ありがとうございます」
その声は、かすれていた。
長く外にいたのだろう。
冷えた指先が、わずかに震えている。
胸が、また揺れる。
大きくはない。
けれど、確かに温度がある。
歩幅を合わせる。
互いに何も話さない。
ただ、同じ速度で歩く。
肩が触れない距離。
それでも、完全に離れてはいない距離。
そのわずかな近さが、負担ではなく、重みとして感じられる。
重み。
それは、避け続けてきたものだった。
削り落とし、薄め、曖昧にしてきたもの。
だが今は、抱えられないほどではない。
信号が変わる。
横断歩道を渡る。
白線の上に溜まった水が、靴底で弾ける。
その感触が、はっきりと伝わる。
冷たい。
でも、不快なだけではない。
生きている体が、そこにある。
やがて相手は別の道へ曲がる。
再び小さく頭を下げ、足早に去っていく。
背中を見送る。
胸の奥は、静かだ。
凪いではいない。
だが、荒れてもいない。
小さな波が、規則正しく揺れている。
空を見上げる。
雲はまだ厚い。
だが、どこかで雨は上がり始めている。
世界は、相変わらず複雑だ。
苛立ちも、優しさも、同じ濃度で混ざっている。
全部を受け止めることはできない。
全部を拒むことも、もうしない。
曖昧なまま、抱える。
曇りを完全に消さなくてもいい。
沈殿を抱えたままでも、歩ける。
ポケットの中で、指先がわずかに震える。
恐れではない。
揺れを知っているという感覚。
歩き出す。
雨音は、次第に遠のいていく。
ざわめきの中で、鼓動が続いている。
それはもう、他人のものだけではない。
自分の揺れが、そこにある。
歩きながら、その感覚を確かめる。
胸の奥にある波は、他人の感情だけでできているわけではない。
冷たい空気に触れて、少しだけ嬉しいと感じている自分。
傘の中のわずかな体温を、悪くないと思っている自分。
それらは、誰のものでもない。
自分のものだ。
アパートの階段を上る。
濡れた靴底が、金属の段を踏むたび小さな音を立てる。
その音が、静かな夜に溶ける。
部屋の扉を開ける。
暗い室内。
一定の温度。
整えられた机。
以前なら、ここに入った瞬間に安心が広がった。
揺れのない空間。
侵食されない場所。
今は少し違う。
安心はある。
だが、それだけではない。
さきほどの出来事が、まだ胸の中に残っている。
小さな感謝の声。
震えていた指先。
白線の上の水。
それらが、部屋の静けさの中でゆっくり沈んでいく。
沈殿ではない。
溶け込んでいく。
コートを脱ぐ。
濡れた布地の重さが腕に残る。
その重みを、嫌だと思わない。
机の前に座る。
電気をつける。
柔らかな光が、部屋を満たす。
以前は、数字だけが確かだった。
画面の中の整然さだけが、裏切らなかった。
けれど今は、少し違う確かさがある。
揺れても、戻ってこられるという確かさ。
全部を背負わなくてもいいという確かさ。
境界は、引くものではなく、育てるものなのかもしれない。
完全に遮断するのでも、完全に開くのでもない。
その間に立つ。
それは不器用だ。
疲れるだろう。
それでも。
曇った瓶を、完全に棚へ戻すことはしなかった。
胸の奥に、少しだけ残した。
あの店は、きっとまた行ける。
預けることも、戻すこともできる。
選べる。
それが、何より違う。
ベッドに横になる。
目を閉じる。
外では、雨がほとんど止んでいる。
胸の奥で、小さな波が続いている。
静かで、確かな揺れ。
眠りは、ゆっくりと降りてくる。
今夜は、溺れない。
凪ぎもしない。
ただ、揺れながら、眠る。




