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感情のレンタル屋  作者: おこげ


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最終章2

あのとき確かに、胸は凪いだ。

波は引き、ざわめきは消え、呼吸は驚くほど深くなった。

他人の視線も、ため息も、怒りも、悲しみも、薄い膜の向こう側に遠ざかった。

眠れた。

朝まで目が覚めないことに、ほっとした。

職場のざわめきは、ただの音になった。

笑い声は笑い声のまま通り過ぎ、苛立ちは他人のものとしてそこに留まった。

肩は軽かった。

胃の奥も静かだった。

巻き込まれないということが、こんなにも楽なのかと知った。

だが、同時に何かが変わっていた。

画面越しに眺める数字の整列は、以前よりもくっきりと見えたが、そこに安心はなかった。

同僚の「ありがとう」は、音として理解できても、温度を伴わなかった。

嬉しいはずの出来事が、胸を揺らさない。

悔しいはずの出来事も、深く刺さらない。

安全だった。

けれど、平らだった。

凪いだ水面は美しい。

だが、何も映さない。

あの夜、置いていったのは、痛みだけではなかったのだと、今なら分かる。

共感も。

怒りも。

恋も。

後悔も。

揺れそのものを。

棚の奥の曇りは、その混ざり合った沈殿なのかもしれない。

分けきれず、削りきれず、残った何か。

指先が、わずかに動く。

触れれば、戻る。

あのざわめきも、あの重さも。

眠れない夜も、刺さるような朝も。

それでも。

空白のままでいることに、もう少しだけ、息苦しさを感じている。

店内は静かだ。

外の雨音が、やわらかく続いている。

店主は急かさない。

ただ、そこにある。

選ぶのは、自分だ。

借りるのか。

預けたままでいるのか。

それとも——

曇った硝子の向こうで、ぼんやりとした影が揺れた気がした。

錯覚かもしれない。

だが、胸の奥がそれに応えるように、かすかに震える。

指先が棚に伸びる。

触れた瞬間、ひやりとした感触が伝わる。

透明だったはずの記憶が、曇り越しに輪郭を持つ。

あの同僚の、目だけが笑っていなかった夜。

差し出せなかった言葉。

踏み込めなかった一歩。

軽くなったはずの日々の中で、何度も思い出しかけて、思い出さないふりをした瞬間。

瓶は重い。

硝子の重さではない。

中に沈んだ、混ざり合った何かの重さ。

「戻しますか」

店主の声は低く、静かだ。

戻す。

簡単な言葉だ。

だがそれは、再び揺れるということだ。

境界がまた曖昧になるということだ。

他人の痛みが、また内側へ入り込むということだ。

怖さは、確かにある。

あの夜、どれほど追い詰められていたかを覚えている。

眠れない暗闇。

止まらないざわめき。

壊れる寸前の、細い均衡。

それでも。

空白のままでいることも、また別の壊れ方だと、最近ようやく気づいた。

嬉しいはずの言葉が、胸を打たない。

誰かの涙を見ても、手が伸びない。

笑い声が、遠い。

安全だ。

だが、生きている感触が薄い。

瓶を、胸に当てる。

すぐには何も起きない。

劇的な変化はない。

ただ、ゆっくりと、何かが滲む。

遠くで誰かが笑う気配が、やわらかく届く。

外の雨音が、冷たいと同時に美しいと感じられる。

胸の奥に、小さな波が立つ。

痛みも、ある。

同時に、温度もある。

目の奥が、わずかに熱い。

重さは戻ってくる。

だが、以前のように溺れるほどではない。

揺れながらも、足は床を踏んでいる。

瓶の曇りが、少しだけ薄れたように見えた。

全部を一度に戻す必要はないのかもしれない。

沈殿したままでも、抱えられる形があるのかもしれない。

店主は何も言わない。

外では、雨が続いている。

ざわめきは消えない。

世界は相変わらず騒がしいだろう。

それでも。

胸の奥で、確かに鼓動がある。

平らではない。

凪いでもいない。

小さく、確かに、揺れている。

その揺れを、今度は手放さずにいられる気がした。

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