第4話
反動の重さがまだ胸の奥に沈んだまま、駅前の歩道を特に目的もなく歩いていて、視線は地面と靴先のあいだを往復するだけで、周囲の人の顔をほとんど見ていなかったのだが、ふいに背後から声をかけられた気がして足を止め、その声が自分の名前ではなく曖昧な呼び止め方だったと理解するまでに数秒かかり、それでも振り返ると、そこに立っていた姿は以前よりわずかに背筋が伸びていた。 「あの……」 語尾が少し揺れているものの、前のような逃げ腰の響きではない。 胸の奥がざわつく。 怒りを借りたあとの反動のなかで向き合うには、あまりにも居心地が悪い。 「この前は、どうも」 軽く頭が下がる。 必要以上に低くはない。 礼儀としての角度。 その違いに気づいてしまう。 「いえ」 短く返した声は、自分でも驚くほど平板で、感情の振れ幅がどこか鈍っている。 「あのあと、ちゃんと話しました」 ゆっくりだが、途切れない。 胸の奥で何かが軋む。 「……そうですか」 「うまくは、いかなかったですけど」 苦笑が浮かぶ。 自嘲ではない。 失敗を含んだ表情。 「声は震えましたし、途中で何を言いたいのか分からなくもなりましたし、相手もあまり分かってくれたとは言えませんけど」 それでも、と続く。 「逃げませんでした」 その一言が静かに落ちる。 反動のなかで膨らんでいた過剰な共感と自己否定が、一瞬だけ止まる。 逃げなかった。 借りずに。 「前は、言う前から無理だと思ってました。でも今回は、とりあえず最後まで言おうとだけ決めて」 視線が少し上がる。 以前よりも安定している。 「強くは言えませんでした。でも、あれは自分の怒りでした」 胸の奥がきゅっと縮む。 借り物の怒りは鋭く、迷いがなく、正確だった。 だがその正確さは反動と引き換えだった。 目の前にあるのは、不正確で、揺れていて、それでも崩れていない姿。 思わず問いが漏れる。 「怖く、なかったんですか」 少しだけ笑う。 「怖かったですよ。今も怖いです。でも、ああやって借りたら、たぶん、あとで自分が分からなくなる気がして」 その言葉がまっすぐに刺さる。 怒りを借りたとき、迷いなく正しかった。 だがいま、反動の重さのなかで、何を感じているのか、どこまでが自前でどこからが反転なのか、区別がつかない。 「まあ、うまくいくかどうかは分かりませんけど。時間は、かかりそうです」 時間、という言葉が重く響く。 借りれば、すぐに手に入る。 熱も、強さも、決断も。 だが時間はかからない。 時間がかからないということは、積み上がらないということかもしれない。 何も言えず、ただ頷く。 「この前、背中を押してくれたのは本当です。だから……ありがとうございました」 依存ではない、ただの礼。 それだけを残して、歩き出す。 背中は、以前よりもわずかに小さく見えない。 その後ろ姿を見つめながら、内側を探る。 反動の重さはまだある。 だがその下に、別の揺れがある。 借り物ではない揺れ。 小さく、頼りなく、形も定まらないが、確かに自分のものだと感じられる震え。 借りれば、すぐに消せる。 借りれば、強くなれる。 だがいま、その選択は、以前よりも少しだけ遠い。




